昼休みも逃がさない
「……遅かったな。」
校舎を出て最初に目に入ったのは、
校門のフェンスにもたれかかりながら、
まるで映画のラストシーンでも待っていたかのような顔をした松だった。
「……何もなかった。」
反射的にそう言う。
「まだ何も聞いてねぇけど?」
「聞きたそうな顔してる。」
「まぁな。」
「だから何もなかった。」
「嘘つけ。」
大きくため息をつく。
「話しただけだ。」
「そりゃ話すだろ。」
「それだけ。」
「『それだけ』ねぇ。」
松はフェンスから体を起こし、
俺の隣を歩き始めた。
「で?」
「だから何も。」
「大樹。」
「何。」
「学校一手の届かない美少女に、放課後の空き教室へ呼び出されて。」
「うん。」
「『何もありませんでした』で済むと思うか?」
「済む。」
「主人公失格だな、お前。」
「主人公じゃない。」
松は俺の顔をじっと見つめる。
そして意味ありげに笑った。
「それはこれから分かるさ。」
……
嫌な予感しかしない。
「それで?」
松は懲りずに聞いてくる。
「八神さん、何て言ってた?」
しばらく黙り込む。
言うべきか。
いや、言ったところで信じられないだろ。
……でも黙っていても面倒だ。
「……俺に。」
「ん?」
「俺を好きになれって。」
……
「…………」
「…………」
「…………」
「ぶっははははははははははははははははっ!!」
「笑うな。」
「無理だって!」
松は腹を抱えて笑い転げる。
「待て待て待て! もう一回言ってくれ!」
「断る。」
「お願い!」
「断る。」
「頼む!」
「断る。」
「ケチ!」
「うるさい。」
ようやく笑いが少し収まった松は、
涙を拭いながら俺を見る。
「つまり。」
「……」
「『私に惚れてください』って言われたわけ?」
「そうだ。」
「…………」
「そうだ。」
「…………」
「だからそうだって。」
松は再び吹き出した。
「最高じゃねぇか!」
「俺は全然最高じゃない。」
二人で並んで歩き続ける。
夕焼けに染まった帰り道は、
昨日までと何も変わらない。
変わったのは、
俺の日常だけだった。
「それで?」
松はまだニヤニヤしている。
「お前は何て返した?」
「何も。」
「何も?」
「何も。」
「で、これからは?」
「何も。」
「……」
数秒の沈黙。
松は急に真面目な顔になった。
「嘘だな。」
「は?」
「お前。」
少しだけ身を乗り出してくる。
「もう考えてるだろ。」
……
「考えてない。」
「考えてる。」
「考えてない。」
「考えてる。」
「考えてない。」
「考えてる。」
……
「……少しだけ。」
「やっぱりな!」
「うるさい。」
でも、
否定できなかった。
頭から離れない。
全部がおかしい。
理由も話さない。
それなのに、
あの目だけは冗談には見えなかった。
だから余計に、
忘れられない。
「八神さんはどうだった?」
松がふと尋ねる。
「なんか様子がおかしかったのか?」
「……変だった。」
「へぇ。」
「かなり変だった。」
「いいじゃん。」
「よくない。」
少し間を置いてから言う。
「絶対に俺を好きにさせるって。」
……
松の表情から笑みが消えた。
「……それは。」
腕を組み、
少しだけ考え込む。
「普通じゃないな。」
「だろ。」
「かなり危ない匂いがする。」
「やっと分かってくれたか。」
「でも。」
松はすぐに口角を上げた。
「面白そう。」
「俺は全然面白くない。」
「絶対面白くなる。」
「お前だけな。」
「いや。」
松は自信満々に笑う。
「お前もそのうちそう思う。」
「ありえない。」
「ありえる。」
「ない。」
「ある。」
……
「……たぶん。」
「ほらな!」
「だからうるさい。」
夕焼けの空へ、
松の笑い声がいつまでも響いていた。
そして俺は、
まだ気づいていなかった。
明日になれば、
今日なんて比べものにならないくらい、
面倒な一日が始まることを。
翌朝。
目が覚めた瞬間から、
妙な違和感があった。
何がおかしいのかは分からない。
でも、
何かが引っかかる。
嫌な予感。
何か良くないことが起きるときの、
あの説明できない感覚だった。
「大樹ー! 遅刻するわよー!」
階下から母さんの声が聞こえる。
「今行くー。」
返事をしてベッドから起き上がる。
制服に着替え、
洗面所で顔を洗い、
鏡を見る。
……いつもの俺だ。
特に変わったところはない。
「よし。」
小さくつぶやく。
「全部、いつも通り。」
……
嘘だ。
昨日のことを思い出した瞬間、
また頭が重くなる。
『私が、あなたを好きにさせる。』
八神舞夜の声が、
耳の奥で何度も繰り返される。
「……忘れよう。」
考えたところで答えなんて出ない。
そう自分に言い聞かせながら、
家を出た。
◇ ◇ ◇
学校へ着く。
昇降口で靴を履き替え、
二年A組へ向かう。
教室の扉を開けた瞬間だった。
……
分かった。
視線だ。
教室中から、
何人もの視線が俺へ集まる。
ひそひそと交わされる小さな声。
誰かが俺を見て、
誰かが隣の席の奴と何か話している。
「……勘弁してくれ。」
嫌な予感が、
一気に現実味を帯びた。
「おはよう、主人公。」
聞き慣れた声が横から飛んでくる。
「その呼び方やめろ。」
松だった。
「だって似合ってるし。」
「似合ってない。」
「そうか?」
「そうだ。」
松は肩をすくめる。
「それより。」
俺は教室を見回した。
「これ、何だ?」
「何って?」
「みんな俺を見てる。」
「ああ。」
松はあっさり頷く。
「見てるな。」
「原因知ってる?」
「さぁ?」
「絶対知ってる顔だ。」
「気のせい。」
「嘘つけ。」
「まぁ。」
少し笑ってから、
松は俺に顔を近づけた。
「昨日、何かした?」
「してない。」
「本当に?」
「本当だ。」
「八神さんは?」
……
「知らない。」
それは嘘じゃなかった。
昨日別れてから、
何をしたのかなんて知るわけがない。
でも、
胸騒ぎだけは消えない。
何かがおかしい。
何かが始まっている。
そんな気がしてならなかった。
俺は自分の席へ座る。
できるだけ周りを見ないようにして、
いつも通り鞄を机へ置く。
深呼吸。
落ち着け。
考えすぎだ。
そう思った、
その時だった。
「おはようございます、南くん。」
……
嫌な予感が、
最悪の形で的中した。
ゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは、
八神舞夜。
教室中の視線を集めながら、
まるでそれが当たり前のように、
俺の机の横へ立っていた。
昨日と変わらない、
穏やかな笑顔で。
「……お、おはよう。」
何とか返事をする。
その瞬間、
教室が静まり返った。
さっきまで聞こえていた話し声も、
笑い声も、
全部止まる。
静寂。
誰もが、
俺たちを見ていた。
そして舞夜は、
いつもの落ち着いた口調で言った。
「お昼休み、一緒にお昼を食べましょう。」
……
俺の思考は、
完全に停止した。
「お昼休み、一緒にお昼を食べましょう。」
……
「断る。」
即答だった。
「そうですか。」
舞夜は少しも表情を変えない。
「はい。」
「でも。」
静かな声で続ける。
「一緒に食べます。」
「いや、食べない。」
「食べます。」
「食べない。」
「食べます。」
……
「だから食べないって。」
「食べます。」
……
会話になっていない。
「……どうしてだ。」
ようやくそう聞くと、
舞夜は迷いなく答えた。
「必要だからです。」
またその言葉だった。
必要。
昨日から何度も聞かされているその一言。
「必要じゃない。」
「必要です。」
「違う。」
「違いません。」
……
埒が明かない。
「俺は行かない。」
そう言って話を終わらせようとした。
すると、
舞夜は少しだけ首を傾げる。
「でしたら。」
穏やかな笑顔のまま、
とんでもないことを口にした。
「私がそちらへ行きます。」
……
「……は?」
「南くんのお昼に。」
「……何?」
「隣に座ります。」
……
「いやいやいや。」
思わず頭を抱える。
「やめろ。」
「どうしてですか?」
「どうしても何もない!」
教室で一緒に昼飯を食べる?
しかも八神舞夜と?
そんなことになったら、
どう考えても平和では済まない。
「迷惑だ。」
「迷惑ではありません。」
「俺が迷惑なんだ。」
「……少しだけ。」
「認めるな。」
舞夜は小さく笑った。
昨日までの完璧な笑顔ではない。
どこか楽しそうな、
少しだけいたずらっぽい笑みだった。
「では。」
くるりと踵を返す。
「お昼休みに。」
教室の出口へ向かいながら、
一度だけ振り返る。
「楽しみにしています。」
そう言い残し、
静かに教室を出ていった。
……
沈黙。
教室中が、
まるで時間でも止まったかのように静まり返る。
そして、
次の瞬間だった。
「「「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?」」」
大音量の叫び声が教室中に響き渡る。
「おい今の何だ!?」
「八神さんが南に話しかけてたぞ!」
「しかも昼飯!?」
「一緒に食べるって言ったよな!?」
「南ぁぁぁ!!」
「説明しろ!」
「どういう関係だ!」
「付き合ってるのか!?」
「違う!」
俺も負けじと叫び返す。
「違うから!」
「でも八神さんが!」
「俺も知らない!」
「昼休みに一緒に食べるって!」
「俺は断った!」
「でも八神さん食べるって言ってたぞ!」
「だから困ってるんだよ!」
質問が四方八方から飛んでくる。
完全に包囲されていた。
「落ち着けって!」
「落ち着けるか!」
「学校一の美少女だぞ!」
「羨ましい!」
「代われ!」
「代われるか!」
俺が悲鳴を上げている横で、
松だけは腹を抱えて笑っていた。
「はははははっ!」
「お前……!」
「最高だ!」
「どこが!」
「だから言っただろ。」
松は涙を拭きながら言う。
「主人公だって。」
「違う!」
「いや。」
肩をぽんと叩かれる。
「まだ始まったばっかりだ。」
……
その一言に、
嫌な汗が背中を流れた。
俺はようやく理解する。
昨日までは、
俺と舞夜だけの問題だった。
でも、
もう違う。
教室中が、
学校中が、
この奇妙な関係に巻き込まれ始めている。
そしてきっと――
これからもっと、
面倒なことになる。
そんな予感だけは、
どうしても外れる気がしなかった。
第四話を読んでいただき、ありがとうございました。
大樹の平穏な学校生活は、少しずつ崩れ始めています。
次回は、約束のお昼休みです。
ぜひお楽しみに!
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それでは、また次回!




