恋に落とす宣言
放課後を告げるチャイムの音が、
こんなにも耳障りに聞こえたのは初めてだった。
いつもなら、
「やっと終わった」
そう思える音なのに。
今日だけは違う。
むしろ、
タイムリミットを知らせる合図みたいだった。
「さてさて。」
隣で松が大きく伸びをする。
「ついに来たな。」
「何が。」
「決戦の時。」
「違う。」
「違わない。」
「違う。」
「違わない。」
「違う。」
「違わない。」
「……。」
「……。」
しばらく睨み合ったあと、
松は肩をすくめて笑った。
「で、行くのか?」
窓の外を見る。
夕日が校舎を赤く染め始めていた。
放課後。
またこの時間だ。
……
嫌な偶然だ。
「行くって言ったからな。」
「本当に行くとは思わなかった。」
「俺も。」
「最高じゃん。」
何が最高なんだ。
松は笑いながら鞄を肩に掛け、
俺の肩を軽く叩いた。
「十分経っても戻ってこなかったらさ。」
嫌な予感しかしない。
「恋愛イベント突入ってことで邪魔しないように帰るわ。」
「好きにしろ。」
「もちろん。」
最後までニヤニヤしたまま、
松は教室を出て行った。
……あいつ、
絶対面白がってるだけだ。
教室にはまだ何人か残っていたが、
時間が経つにつれて、
一人、
また一人と帰っていく。
笑い声。
雑談。
椅子を引く音。
ドアの開く音。
閉まる音。
やがて、
静寂だけが残った。
「……五分だけ。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
もちろん嘘だ。
五分で終わる気なんて、
最初からしていない。
小さく息を吐き、
鞄を持って立ち上がる。
教室を出ると、
廊下にはほとんど人影がなかった。
長い窓から差し込む夕日が、
床に細長い影を落としている。
静かだった。
静かすぎるほどに。
足音だけが、
やけに大きく響く。
コツ……
コツ……
コツ……
二年B組。
目的の教室の前で立ち止まる。
扉は閉まっていた。
……まあ、
そうだろうな。
しばらくその場から動けなかった。
まだ帰れる。
そう思えば帰れる。
昨日のことだって、
全部忘れてしまえばいい。
俺には関係ない。
巻き込まれる理由もない。
そう考えるのが普通だ。
……
「……面倒くさい。」
観念してドアノブに手を掛ける。
カチャ。
ゆっくり扉を開けた。
教室の中は、
静まり返っていた。
誰もいない。
「……え?」
一歩足を踏み入れる。
教室を見回す。
机。
椅子。
夕日に染まる窓。
それだけだった。
「……呼び出しておいて留守かよ。」
そう呟き、
帰ろうと振り返った瞬間――
「来たのね。」
後ろから声が聞こえた。
振り向く。
そこに立っていたのは、
八神舞夜だった。
窓際に静かに立つ姿。
夕日を背にした横顔。
風に揺れる長い髪。
そして、
真っすぐこちらを見つめる瞳。
昨日と、
まったく同じ光景だった。
一瞬だけ、
既視感に襲われる。
「遅かったわ。」
舞夜が静かに言う。
「時間は決めてなかっただろ。」
「放課後とは言ったわ。」
「ちゃんと放課後に来た。」
「少し遅い。」
「歩いて来ただけ。」
小さな沈黙。
やがて舞夜は、
短く言った。
「ドアを閉めて。」
……
またか。
「嫌だ。」
「閉めて。」
「嫌。」
「お願い。」
「嫌。」
舞夜は少しだけ間を置いて、
静かに言った。
「大事な話だから。」
……
思わずため息が漏れる。
「昨日も聞いた、その台詞。」
それでも、
俺は振り返り、
静かに扉を閉めた。
カチャ。
また、
あの音が響く。
やっぱり好きじゃない。
この閉ざされた空間も。
この状況も。
全部だ。
俺は少し距離を取ったまま腕を組む。
「それで。」
舞夜を見る。
「話って何だ。」
舞夜はしばらく何も言わなかった。
ただ、
静かに俺を見つめている。
まるで、
何かを確かめるように。
「昨日、私が言ったことは覚えてる?」
いきなり本題だった。
「……覚えてる。」
忘れられるわけがない。
「あんなこと言われたら、普通は忘れない。」
舞夜は小さく頷く。
「そう。」
「でも。」
俺は首を横に振った。
「やっぱり意味が分からない。」
「分からなくてもいい。」
「いや、俺には重要なんだけど。」
「そうかしら。」
「そうだよ。」
会話が噛み合わない。
昨日もそうだったが、
今日も同じだった。
「だったら説明してくれ。」
できるだけ落ち着いた声で言う。
「今のままだと、ただ意味不明なことを言われてるだけなんだ。」
教室に静寂が流れる。
舞夜はほんの少しだけ視線を落とした。
本当に、
一瞬だけ。
そして、
静かに呟く。
「……まだ話せない。」
「……は?」
思わず聞き返した。
「話せない?」
「今は説明できない。」
「それじゃ納得できるわけないだろ。」
「分かってる。」
「だったら——」
「でも、本当なの。」
俺の言葉を遮るように、
舞夜はそう言った。
その瞬間、
違和感を覚えた。
声が震えていた。
ほんのわずか。
気づく人も少ないくらい小さく。
だけど、
確かに震えていた。
……昨日とは違う。
「……本当?」
思わず聞き返す。
舞夜はゆっくり顔を上げた。
そして、
初めて見た。
完璧に見えていた彼女が、
ほんの少しだけ、
不安そうな表情を浮かべているのを。
完璧な優等生じゃない。
学校中が憧れる存在でもない。
ただ一人の、
普通の女の子みたいに見えた。
「あなたに……」
舞夜は静かに言う。
「私を好きになってほしい。」
その言葉は、
昨日と同じなのに、
昨日よりもずっと重く聞こえた。
「しかも。」
少しだけ間を置く。
「できるだけ早く。」
「……待て。」
思わず眉をひそめる。
「何のために?」
また沈黙。
舞夜は唇を閉じたまま、
何も答えない。
「言えない。」
「じゃあ無理だ。」
反射的に答えていた。
「理由も分からないまま、そんな話を受け入れられるわけがない。」
「受け入れてほしいとは言ってない。」
「いや、言ってるだろ。」
「違う。」
「『好きになってほしい』って言ったじゃないか。」
「恋はお願いしてするものじゃないもの。」
「……じゃあ何なんだよ。」
舞夜は静かに息を吸う。
「そのままでいて。」
「は?」
「それでいい。」
……
ますます意味が分からない。
「全然説明になってない。」
俺が言うと、
舞夜は一歩だけ近づいた。
「意味はある。」
「ない。」
さらに一歩。
「ある。」
「ない。」
また一歩。
……
近い。
近すぎる。
「ちょ、ちょっと待て。」
思わず一歩下がる。
「言いたいことは分かったから。」
「分かってない。」
「分かった。」
「分かってない。」
「……。」
「……どうして。」
気づけば、
そんな言葉が口から漏れていた。
「どうして俺なんだ。」
教室は静まり返っている。
夕日だけが、
ゆっくりと時間を染めていた。
舞夜は少しだけ目を伏せ、
そして静かに答える。
「あなたしかいないから。」
……
「……は?」
思わず聞き返す。
「あなたしかできない。」
「いや、それ説明になってないだろ。」
正直、
さっきより意味が分からなくなった。
「それじゃ余計に怪しい。」
「分かってる。」
「分かってるなら説明してくれ。」
「……できない。」
またそれだ。
俺は髪をかき上げながら、
大きく息を吐いた。
「八神。」
できるだけ冷静に言葉を選ぶ。
「こういうのはさ。」
「いきなり現れて、『好きになってほしい』なんて言われても困るんだ。」
「普通は理由を聞く。」
「納得できたら考える。」
「そういうものだろ。」
舞夜は静かに俺を見つめる。
そして、
ゆっくり首を横に振った。
「あなたに選択肢はない。」
……
空気が止まった。
「……今、何て言った?」
舞夜はさらに一歩近づく。
もう、
手を伸ばせば届く距離だった。
「受け入れる必要はない。」
落ち着いた声。
それなのに、
不思議なくらい有無を言わせない響きがあった。
「でも。」
真っすぐ俺を見つめる。
「結果は変わらない。」
「……どういう意味だ。」
舞夜は一瞬だけ微笑んだ。
ほんの少しだけ。
「私が。」
小さく息を吸う。
「あなたを好きにさせるから。」
……
思考が止まる。
完全に。
「……今の。」
ようやく声が出た。
「脅しか?」
「違う。」
即答だった。
「じゃあ。」
俺は苦笑しながら言う。
「宣言か。」
舞夜は迷わず頷く。
「ええ。」
「宣言よ。」
……
冗談には聞こえなかった。
それが一番困る。
「……お前。」
思わず笑ってしまう。
「やっぱり変だ。」
「そうかもしれない。」
舞夜はあっさり認めた。
「でも。」
その笑みは、
昨日まで見せていた完璧な笑顔とは違っていた。
少しぎこちなくて。
少し照れくさそうで。
どこか年相応の、
普通の女の子みたいな笑顔。
その方が、
ずっと反則だった。
「それじゃ。」
舞夜は俺の横を通り過ぎる。
「また明日。」
ドアの前で立ち止まり、
振り返る。
「南くん。」
名前を呼ばれる。
「覚悟しておいて。」
そう言い残して、
教室を出て行った。
カチャ。
静かな音とともに、
扉が閉まる。
また、
静寂だけが残った。
俺はその場から動けなかった。
何が起きたのか。
何を言われたのか。
頭の中で整理しようとしても、
まるで追いつかない。
「……何なんだよ。」
壁にもたれ、
深く息を吐く。
間違いない。
これは厄介なことになった。
昨日までは、
ただの意味不明な出来事だった。
だけど今日、
一つだけ確信したことがある。
八神舞夜は、
本気だ。
『私が、あなたを好きにさせる。』
その言葉が、
何度も頭の中で繰り返される。
……ああ。
どうやら俺の平凡な高校生活は、
本当に終わってしまったらしい。
第三話を読んでいただき、ありがとうございました。
舞夜の「宣言」は本気なのか、それとも――。
次回も楽しんでいただけたら嬉しいです。
もし気に入っていただけましたら、ブックマークや評価をしていただけると励みになります。
それでは、また次回!




