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図書館の放課後

ペア決めの結果が学校中に広まるまで――。


正確には、ゼロ分もかからなかった。


もちろん、比喩ではない。


昼休み。


俺は廊下を歩いていただけだった。


すると、見たこともない三年生の男子に突然声をかけられた。


「南、頑張れよ!」


……。


誰だ、お前。


というか、なぜ俺の名前を知っている。


そして、もっと重要な問題がある。


なぜ俺は応援されているんだ?


「八神さんとうまくいくといいな!」


そう言い残して、その先輩は去っていった。


……意味がわからない。


俺は深いため息をついた。


文化祭が終わって数日。


どうやら、俺の平穏な学校生活は完全に終わってしまったらしい。


「大樹」


後ろから声がした。


振り返ると、松が当たり前のように俺の肩に腕を回してくる。


「今日から始まるな」


「何がだよ」


「放課後デート」


「デートじゃない」


「まだな」


「頼むから、その『まだ』を何にでも付けるのをやめてくれ」


松は真顔で考え込むような仕草をした。


そして、数秒後。


「……まだ無理だな」


「そうか」


もう反論する気力すらなかった。


こいつと議論するだけ、時間の無駄なのだ。


少なくとも、俺はそう学習していた。

その後の授業は、驚くほどあっという間に過ぎていった。


数学。


歴史。


英語。


そして――。


放課後を告げるチャイムが校舎中に響き渡る。


途端に、教室の空気が一気に緩んだ。


生徒たちは次々と鞄に教科書をしまい始める。


俺も机の上のノートを片づけていると、目の前に一つの影が止まった。


顔を上げる。


そこには、いつものように落ち着いた表情の舞夜が立っていた。


「行きましょうか」


「ああ」


俺は頷き、ノートを鞄に押し込む。


すると、教室の後ろから聞き慣れた声が飛んできた。


「二人とも、楽しんできてねー!」


結衣だった。


「楽しみに行くわけじゃない!」


思わず即答する。


「勉強しに行くだけだ」


すると、結衣はにやりと笑った。


「勉強だって、相手次第では楽しいものよ?」


「そんなわけないだろ」


「そうかなあ?」


結衣は意味深な笑みを浮かべたまま、朝海たちの席へ戻っていった。


……理解できない。


勉強は勉強だ。


楽しいとか、そういう問題じゃない。


俺が心の中でそう結論づけていると、隣から舞夜の小さな声が聞こえた。


「南くん」


「ん?」


「早く行かないと、図書館が混みますよ」


「図書館って、そんなに人気なのか?」


「放課後は意外と人が多いんです」


そう言って、舞夜は静かに教室の出口へ向かった。


俺は小さくため息をつき、その後を追いかけた。

学校の図書館は、思っていたよりもずっと静かだった。


聞こえてくるのは、ページをめくる音と、エアコンのかすかな音だけ。


廊下の騒がしさが嘘みたいだった。


舞夜は慣れた足取りで本棚の間を歩いていく。


迷いがない。


まるで、自分の部屋を歩いているみたいだった。


「よく来るのか?」


俺が尋ねると、舞夜は小さく頷いた。


「ほとんど毎日来ています」


「毎日?」


思わず聞き返してしまう。


「はい。静かな場所で本を読むのが好きなので」


……なるほど。


なんとなく納得した。


昼休みも、一人で本を読んでいることが多かった。


放課後まで図書館に通っているなら、あの落ち着いた雰囲気にも説明がつく。


「何を読むんだ?」


「小説が多いですね。たまに歴史の本も読みます」


「歴史?」


「知らない時代の話を読むのは好きなんです」


そう言いながら、舞夜は一冊の本を棚から取り出した。


やっぱり、俺とは住む世界が違う気がする。


そんなことを考えながら、俺は彼女の後を追った。


やがて、窓際の席にたどり着く。


舞夜は何冊かの本を机の上に置き、静かに椅子へ腰を下ろした。


俺も向かいの席に座る。


「もうテーマは決めてるのか?」


そう尋ねると、舞夜は首を横に振った。


「南くんと一緒に決めようと思っていました」


「意外だな」


「どうしてですか?」


「てっきり、全部決めてるものだと思ってた」


そう言うと、舞夜はふっと微笑んだ。


「二人でやるなら、二人で決めるべきですから」


……あまりにも正論だった。


だからこそ、少しだけ驚いてしまった。

テーマを決めるためにノートを取り出そうとして、俺は鞄の中に手を入れた。


その瞬間――。


ぽとっ。


何かが床に落ちる音がした。


「あっ」


俺がしゃがみ込もうとした、その時だった。


舞夜のほうが一歩早かった。


彼女は足元に落ちたものを拾い上げる。


それは、小さなノートだった。


角は少し擦り切れていて、何枚かのページは折れ曲がっている。


舞夜は表紙を見つめ、静かに読み上げた。


「『くだらないアイデア集』……?」


……終わった。


一瞬で、頭の中が真っ白になる。


俺は反射的に立ち上がり、舞夜の手からノートを奪い取った。


「見るな!」


思った以上に大きな声が出てしまった。


舞夜は驚いたように瞬きをする。


「すみません。大切なものだとは思わなくて」


「いや、別に大切ってわけじゃないんだ」


俺は慌てて首を振った。


「じゃあ、どうしてそんなに慌てるんですか?」


……。


数秒、黙り込む。


そして、観念したようにため息をついた。


「恥ずかしいんだよ」


「恥ずかしい?」


「ああ。子どものころ、物語を書こうとしてた時のメモなんだ」


舞夜の目が、わずかに見開かれた。


「物語を?」


「まあな。でも、全部ひどい出来だった」


苦笑しながらノートを鞄の奥へ押し込む。


「あまりにもひどすぎて、途中でやめたんだよ」


舞夜は何も言わなかった。


ただ、静かに俺の顔を見つめていた。

しばらく沈黙が続いた。


やがて、舞夜はそっと右手を差し出した。


「……読んでもいいですか?」


「嫌だ」


即答だった。


「お願いします」


「嫌だ」


「一ページだけ」


「嫌だ」


「半ページだけ」


「もっと嫌だ」


舞夜は数秒間、黙ったままだった。


そして――。


ほんの少しだけ頬を膨らませた。


まるで、わがままを言う子どもみたいに。


……。


俺は思わず吹き出してしまった。


「ふっ……」


笑い声が漏れた瞬間、舞夜は自分が何をしたのか理解したらしい。


慌てて頬を戻し、いつもの落ち着いた表情を取り繕う。


「……今のは忘れてください」


できる限り平静を装った声だった。


だが、耳が少し赤くなっている。


「いや、もう遅い」


「忘れてください」


「無理だな」


「忘れてください」


「二回言っても無理なものは無理だ」


舞夜は諦めたように小さく息を吐いた。


「南くんは、意外と意地悪ですね」


「初めて言われた」


「私は優しい人だと思っていました」


「その評価は取り消してくれ」


そう言うと、舞夜は小さく笑った。


さっきまでの、完璧な優等生の笑顔じゃない。


年相応の、ごく普通の女の子の笑顔だった。


そして、なぜだろう。


俺は、その表情をずっと覚えている気がした。

それから一時間ほどが過ぎた。


テーマも決まり、役割分担も終わった。


思っていたより、ずっと順調だった。


少なくとも、俺の予想よりは。


舞夜は机の上の本を静かに閉じる。


「南くん、五分ほど休憩しませんか?」


「休憩の時間まで管理してるのか?」


「はい」


「怖いくらい効率的だな」


そう言うと、舞夜は小さく笑った。


「褒め言葉として受け取っておきます」


「そういうことにしておいてくれ」


俺たちは同時に窓の外へ視線を向けた。


校庭には、もうほとんど人がいない。


夕日が校舎を赤く染め始めていた。


不思議なくらい静かな時間だった。


隣にいるのが舞夜だということを、一瞬忘れてしまいそうになるほどに。


……いや。


むしろ、隣に舞夜がいることが、少しずつ当たり前になり始めているのかもしれない。


そんなことを考えた、その時だった。


「へえ……」


突然、後ろから声が聞こえた。


「やっぱり、本当だったんだ」


俺と舞夜は同時に振り返る。


図書館の入り口に、一人の女子生徒が立っていた。


口元には、意味ありげな笑み。


その表情を見た瞬間、嫌な予感しかしなかった。


舞夜も小さく首をかしげる。


「どうしたんですか?」


すると、その女子生徒はゆっくりとこちらへ歩いてくる。


「別に。ただ、二人が放課後に図書館で仲良く勉強してるって噂を聞いたから、見に来ただけ」


……誰だよ、そんな噂を流したやつは。


いや、犯人はたぶん一人しかいない。


後ろの席で親指を立てていた、あの男だ。


俺は大きくため息をついた。


どうやら、静かな放課後はここで終わりらしい。


そんな予感がしていた。

第三十五話『図書館の放課後』を読んでいただき、ありがとうございました。


放課後の図書館で、再び一緒に過ごすことになった大樹と舞夜。


少しずつ、お互いの知らない一面を知り始めます。


けれど、穏やかな時間は長く続きません。


図書館に現れたクラスメイトは、二人の日常をどう変えていくのでしょうか。


それでは、次の話でお会いしましょう。

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