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俺がいたい場所

「大樹、寝ちゃったの?」


舞夜の声に、俺は考え事から引き戻された。


慌てて顔を上げる。


「寝てない!」


「何も言わずに私のことを見てたよ?」


「考え事をしてたんだ」


「私のこと?」


俺は黙ってしまった。


舞夜は満足そうに微笑んだ。


「やっぱり!」


「どうしていつもそういう結論になるんだよ」


「だって、だいたい当たってるもん」


「それはどうだろうな」


「じゃあ、何を考えてたの?」


彼女は好奇心いっぱいに目を見開き、少しだけ俺の方へ身を乗り出した。


一瞬、言いかけた。


――舞夜のことが、こんなにも好きなんだ。


言葉は喉元まで来ていた。


けれど、そこで止めた。


気持ちが変わったわけじゃない。自分の想いに迷いがあるわけでもない。


ただ、緊張に負けて途中で言葉を詰まらせることなく、ちゃんと伝えられる瞬間を見つけたかった。


「……アルバムのことを考えてた」


俺はそう答えた。


舞夜が瞬きをする。


それから、膝の上に置いていたアルバムに視線を落とした。


「アルバム?」


「ああ。これまで保存してきた写真と、これから撮る写真のこと」


舞夜の表情が柔らかくなった。


「……そっか」


彼女はもう一度アルバムを開き、何ページかめくった。


「これを始めた時は、大樹と作った思い出を残したかったんだ。二人で過ごした時間の写真があれば、大樹の隣にいる時、私がどれだけ幸せだったかをいつでも思い出せると思って」


一枚の写真を指でなぞる。


「でも、今はそれだけじゃない気がするの」


「どういうこと?」


舞夜が顔を上げた。


「私たちが、どう変わってきたのかも分かるから」


彼女が指差した写真を眺める。


そこに写っているのは、物語の始まりに近い頃の俺たちだった。


今では自然にできることでも、あの頃は少し緊張していた。


「前は、ほとんど私から大樹を誘ってたよね」


舞夜は続けた。


「話す機会を探したり、一緒に過ごす時間を増やす方法を考えたり」


彼女は微笑む。


「でも、今は大樹からメッセージをくれることもあるし、休み時間に会いに来てくれることもある。一緒に何かしようって誘ってくれることも増えたよね」


「……いつもじゃないぞ」


「ほとんど、だよ」


「まあ……そうかもしれない」


舞夜は小さく笑った。


「恥ずかしがらなくてもいいよ。私は嬉しいんだから」


再び写真を見つめる。


「大樹が一緒に思い出を作ってくれてるんだって感じられるから」


その言葉は、俺の心に真っ直ぐ届いた。


以前にも似たようなことを言われたことはある。


けれど、今回は違う形で理解できた気がした。


最初は、舞夜の誘いに応じることで一緒に過ごしていた。


そのうち、彼女に会いたくて自分から探すようになった。


そして、いつの間にか彼女を自分の予定に含めることが自然になっていた。


突然の決断ではない。


俺たちの物語を過ごす中で、少しずつそうなっていったのだ。


「舞夜」


「なに?」


「俺が、このアルバムで好きなところがあるんだ」


彼女は首を傾げた。


「どこ?」


「まだ完成してないところ」


舞夜が驚いたように俺を見る。


「……完成してない?」


俺は頷いた。


「これまで一緒に出かけた場所の写真はたくさんある。でも、まだ行ってない場所も、試してないことも、経験してない瞬間もいっぱいあるだろ?」


少し間を置く。


「だから、このアルバムにはこれからもずっと写真を増やしていきたい」


舞夜はしばらく動かなかった。


やがて、ゆっくりと笑みを浮かべる。


「……それなら、もっとたくさん写真を撮らなきゃね」


「そういうこと」


「卒業してからも?」


「もちろん」


「大人になってからも?」


その質問に、俺は少し驚いた。


冗談のようにも聞こえたけれど、彼女の瞳にはほんの少しだけ不安が浮かんでいるように見えた。


俺は、空っぽの約束をしたくなかった。


何年後、俺たちがどんな生活を送っているのかは分からない。


どんな困難に出会うのかも、今の俺には想像できない。


でも、自分が何を望んでいるのかは分かっていた。


「舞夜がそうしたいなら、俺も一緒に撮り続けたい」


舞夜はアルバムへ視線を落とした。


「……もちろん、そうしたいよ」


声は、かすかな囁きだった。


「ずっと先になっても、この写真を見て、二人の物語がどう始まったのか思い出せたらいいな」


胸の奥が温かくなる。


俺も、そう思う。


最初に出会った日のことを振り返りたい。


舞夜が俺に近づこうとしてくれたこと。結衣や松にからかわれたこと。修学旅行、クリスマス、お正月。そして、俺の人生の大切な一部になった、数えきれないほどの時間。


でも、それだけじゃない。


その先もあってほしい。


写真を見返した時、俺たちがその後も一緒に歩いてきたことを思い出せるように。


新しい思い出を作ってきたことを。


変わっていく生活の中でも、お互いを選んできたことを。


舞夜はアルバムを丁寧に閉じ、バッグへしまった。


「さて、そろそろ休憩も終わりかな」


彼女は立ち上がり、俺に手を差し出した。


「次の思い出を探しに行こう?」


その手を見つめ、俺は握り返した。


「行こう」


再び商店街を歩き始め、やがて小さな書店にたどり着いた。


舞夜は店のショーウィンドウの前で足を止める。


「大樹、見て! 絵本のコーナーがあるよ」


「絵本が好きなのか?」


「大好き。最近はあまり買ってないけどね」


俺たちは店に入った。


店内は静かで、新しい紙の香りが漂っていた。


棚はジャンルごとに整理され、窓の近くの小さなテーブルには、風景や動物のイラストが描かれた本が並んでいる。


舞夜は楽しそうに棚を見て回った。


気になる表紙を見つけるたびに足を止め、じっくり眺めている。


「これ、すごく綺麗……」


彼女は、四季折々の庭や街並みを描いた一冊を手に取った。


ページを開くと、花に囲まれた小道が描かれている。


別のページには、雪に包まれた小さな町が、柔らかな光に照らされていた。


「見て、大樹。夢の中に出てきそうな場所だよ」


俺も近づいて、そのページを覗き込んだ。


「確かに綺麗だな」


「でしょ?」


舞夜は笑った。


「いつか、こういう場所に行ってみたいな」


「探してみようか」


彼女は驚いたように俺を見る。


「……本当に?」


「もちろん。まだ知らない場所はたくさんあるから」


舞夜は本を胸に抱いた。


「じゃあ、行ってみたい場所を全部教えてあげるね」


「俺も、自分が行きたい場所を教えるよ」


「約束!」


彼女は笑い、再びイラストに目を向けた。


そんな舞夜を、俺はしばらく眺めていた。


本の一冊に夢中になっている姿を見るのが好きだ。


彼女が自分の願いを話すのを聞くのも好きだ。


そして、まだ知らなかった彼女の一面を見つけることも。


何か新しいことを想像する時、彼女は自然に俺をその計画に含めてくれる。


けれど、それだけじゃない。


俺も、そうするようになっていた。


行ってみたい場所を考える時、舞夜と一緒に歩いたらどんな感じだろうと想像する。


何か面白いものを見つけた時、彼女はどんな反応をするだろうと思う。


嬉しいことがあった時、最初に話したい相手の一人が彼女になっていた。


舞夜のことを考えようと努力する必要はない。


ただ、自然にそこにいる。


俺の思考の中に。


俺の予定の中に。


そして、少しずつ形になり始めている未来の中に。


「大樹」


瞬きをした。


舞夜が俺を見ている。


「どうした?」


「また考え事してたね」


「……悪い」


彼女は微笑んだ。


「謝らなくていいよ。ただ、ちょっと聞きたいことがあるの」


「何?」


舞夜は本を両手で持ったまま尋ねた。


「もし、大樹が私とどこへでも行けるとしたら、どこに行きたい?」


不意の質問だった。


一緒に訪れた場所を思い返す。


これまで知った街並み。


一緒に歩いた京都の景色。


何気ない外出の中で偶然見つけた、小さな場所。


でも、新しい場所を想像しようとした時、俺は具体的な答えを持っていないことに気づいた。


行きたい場所はたくさんある。


けれど、それよりも大切なことがあった。


どこへ行くかではない。


誰と行きたいか、だ。


「……まだ分からないな」


正直に答えた。


舞夜は少し残念そうな表情を浮かべた。


「特に行きたい場所はないの?」


俺は首を横に振る。


「まだ決まってない」


それから、彼女を見つめた。


「でも、一緒に行きたい人なら決まってる」


舞夜が動きを止めた。


頬が、ゆっくりと赤く染まっていく。


「……だ、誰?」


まるで答えが分からないかのように尋ねてくる。


俺は、当たり前のことを言うように答えた。


「舞夜だよ」


彼女は本を胸に押し当て、視線を下げた。


「そ、そんなこと、急に言わないでよ……」


思わず笑ってしまう。


「どうして? 本当のことだろ?」


舞夜は顔を上げた。


何か冗談を返そうとしているようにも見えた。


けれど、最後には俺の心を温かくするような、優しい笑顔を浮かべた。


「……うん。本当だね」


俺たちはその本を購入し、書店を出た。


舞夜はアルバムと一緒に、丁寧にバッグへしまった。


「家に帰ったら、本棚に置こうかな」


「そうすれば、見るたびに今日のことを思い出せるな」


「写真もあるしね!」


彼女は俺の方を向いた。


「それに、この本のおかげで新しい計画ができたよ」


「どんな計画?」


舞夜は指を一本立てた。


「春の間に、綺麗な庭園を訪れること!」


「なるほど」


「それから、夏にも別の場所へ行くの」


「別の場所?」


「当然だよ! 一つの季節だけで満足するわけにはいかないもん」


俺は笑った。


「分かった。リストに追加しておこう」


舞夜は満足そうに微笑んだ。


そして、俺たちは再び歩き始めた。


俺が望んでいたのは、まさにこういうことだった。


未来のすべてを知る必要はない。


五年後に何をしているのか、どんな生活を送っているのか、今ここで決める必要もない。


ただ、彼女と一緒に世界を知っていきたい。


一つの場所ずつ。


一日ずつ。


一つの思い出ずつ。


商店街の出口にたどり着くと、舞夜が空を見上げた。


「……素敵な午前中だったね」


「そうだな」


「一緒に来られてよかった」


俺は彼女を見つめた。


「俺もだよ」


舞夜は微笑み、俺の手を取った。


「大樹、ちょっと聞いてもいい?」


「もちろん」


彼女は数秒間、言葉を探すように黙った。


「最近、大樹と一緒にいる時、前とは少し違う気持ちになるの」


心臓が速くなり始めた。


「……違う気持ち?」


舞夜は頷いた。


「前は、大樹に好きになってもらうことばかり考えてた。もっと私を好きになってもらうには何をすればいいのか。どうすれば会いたいと思ってもらえるのか。どんなことを言えば、私のことを考えてくれるのか」


少し恥ずかしそうに笑う。


「今だって、大樹にもっと好きになってもらいたい気持ちはあるよ。そこは変わらないから」


俺は思わず笑った。


「……だと思った」


「ちょっと! 最後まで聞いてよ!」


舞夜は俺の腕を軽く叩き、それから再びこちらを見つめた。


「でも、今はそれだけじゃないの。何も考えずに一緒に歩いたり、くだらない話をしたり、普通の一日を過ごしたりすることも、すごく楽しいんだ」


彼女の表情が穏やかになる。


「大樹と一緒にいる時、私が何かを頑張って近づこうとしているんじゃなくて、大樹もここにいたいと思ってくれてるんだって感じられるから」


俺は足を止めた。


舞夜も、驚いたようにこちらを見る。


「……大樹?」


彼女を見つめる。


そこにいるのは、俺が恋をした女の子だった。


俺との物語を始めるために、勇気を出して近づいてきてくれた女の子。


自分の想いを伝え、俺がそれを理解するまで待ってくれた女の子。


そして今、俺の隣に立ち、もう一人だけで関係を築いているわけではないと感じてくれている女の子。


彼女に、もう二度と不安に思ってほしくない。


俺がここにいたいと思っていること。


彼女を探す時、会いたいと思っていること。


一緒に何かをしようと誘う時、自分の意志で時間を共有したいと思っていること。


そして、未来を想像する時、舞夜を思い浮かべていること。


それを伝えたかった。


「舞夜」


静かに名前を呼ぶ。


「なに?」


彼女の手を握り直した。


「……そう感じてくれて、嬉しいよ」


少し間を置く。


「だって、俺もここにいたいから。舞夜と一緒に」


舞夜の紫色の瞳が、わずかに見開かれた。


「大樹……」


彼女は微笑んだ。


その笑顔を見た瞬間、心臓がまた速くなった。


「……じゃあ、これからも一緒にいようね」


俺は頷いた。


「うん。一緒にいよう」


そして、俺たちは公園へ向かって歩き始めた。


まだ、告白はしていない。


胸の中にしまった言葉は、いつか必ず口にしなければならない。


けれど、何かが変わった。


もう、舞夜と一緒にいたいのかどうかを考えているわけではない。


一緒にいる理由を探しているわけでもない。


今では、特別な瞬間だけでなく、普通の午後や、何気ない予定や、生活の中の小さな出来事まで、彼女と共有したいと思っている。


そして、歩きながら理解した。


告白は、舞夜に俺の気持ちを信じさせるためのものではない。


彼女がまだ聞いていない、俺の本当の気持ちを伝えるためのものなのだ。


俺は彼女を選んだ。


そして、今も選び続けている。


それは、誰かの期待に応えるためではない。


自分自身の意志で。


俺は舞夜を見た。


彼女が笑いかけてくれる。


俺も笑い返した。


まだ伝えるべき言葉は残っている。


けれど、初めて思えた。


その言葉を口にする理由は、もう十分にあるのだと。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


大樹と舞夜は、少しずつ未来のことも語り合うようになりました。

二人の物語を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。


次回もよろしくお願いします。

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