まだ君に伝えていないこと
最後の授業は、いつもと変わらないチャイムの音と、帰り支度を始める生徒たちのざわめきの中で終わった。
ノートを閉じ、ペンを筆箱にしまってから、スマートフォンに目を向ける。
舞夜からメッセージが届いていた。
舞夜:今日はこのまま家に帰るの?
思わず笑みがこぼれてから、返信する。
大樹:まだ決めてないけど、どうして?
すぐに返事が届いた。
舞夜:少しだけ、一緒に歩きたいなって思って。
僕は画面を見つめた。
複雑な誘い方でも、何かの口実でもない。
ただ、僕と一緒に過ごしたい。それだけだった。
今日一日、いろいろなことを考えていた僕にとって、これは逃したくない機会に思えた。
大樹:もちろん。校門で待ってるよ。
舞夜:すぐ行くね!
スマートフォンをしまい、席を立つ。
「どこに行くの、そんなに急いで?」
結衣の声に振り返ると、彼女は松と並んで、何やら楽しそうな笑みを浮かべていた。
「帰るところだけど」
「帰るところ?」と松が繰り返す。「へえ。さっきまで大事な誘いを受けた人みたいな顔をしていたのに」
「何の話だよ」
「もちろん、私たちには誰から連絡が来たのかなんて分からないけどね」と結衣。
二人を交互に見る。
「君たちは飽きないの?」
「全然」
二人の返事が見事に重なった。
僕はため息をつき、教室の出口へ向かう。
「じゃあ、二人ともよい午後を」
「そっちもな、恋する男!」
松の声が背中に飛んできた。
聞こえなかったふりをするのが、一番の返事だと思った。
校舎の入り口に着くと、舞夜はすでにそこで待っていた。
制服はきちんと整えられ、両手で鞄を持っている。濃い紫色の髪が肩に流れ、ホワイトデーに僕が贈ったペンダントが胸元で揺れていた。
僕に気づくと、彼女は片手を上げた。
「大樹!」
「ごめん、待たせた?」
「そんなに待ってないよ」
舞夜は近づいてくると、ごく自然な動作で僕の手を取った。
「行こっか?」
「うん」
僕たちは学校沿いの道を歩き始めた。
この時間になると、友達同士で帰る生徒もいれば、部活動へ向かう生徒もいる。
そんな中、僕たちは急ぐことなく歩いていた。
最初の数分は、他愛のない話をした。
舞夜は、クラスメイトの一人がノートのページを二枚取り違え、まったく違う範囲を勉強してしまった話をしてくれた。
僕は、松が数学の問題をあまりにも複雑な方法で解いたせいで、先生から自分の解法を説明するように求められていた話をした。
舞夜は大笑いし、思わず立ち止まってしまうほどだった。
「松くん、かわいそうに」
「大丈夫だよ。たぶん生きて帰ってくる」
「大樹は解けたの?」
「一応ね」
「やっぱり!」
舞夜は、まるで自分のことのように誇らしげに笑った。
彼女は時々、そういうことをする。
僕の小さな成功を、何のためらいもなく喜んでくれる。
そんな姿を見ると、僕まで自然と笑顔になってしまう。
そのまま歩き続け、街路樹が歩道に影を落とす、少し静かな通りに差しかかった。
すると舞夜は、ほんの少し歩く速度を落とした。
「大樹、ちょっと聞いてもいい?」
「もちろん」
「卒業した後のことって、考えたことある?」
思いがけない質問だった。
「卒業した後?」
「うん。今年は始まったばかりだけど、最近よく考えるんだ」
舞夜は前を向いたまま続ける。
「まだ時間はあるって分かってる。でも、数か月もすれば受験や進路希望、それから自分たちで決めなきゃいけないことが増えてくるんだなって思うと、不思議な気持ちになるの」
僕はゆっくりとうなずいた。
三年生になったばかりだ。
授業も、学校行事も、雨の日も、一緒に過ごせる放課後も、まだたくさん残っている。
それでも、初めて高校生活の終わりが、遠い未来の出来事ではなくなった気がした。
「いくつか考えてはいるよ。でも、まだ何も決めてない」
「不安?」
少し考えてから答える。
「少しはね。誰だって、できるだけ良い選択をしたいと思うだろうし」
舞夜もうなずいた。
「私も、間違えたくないなって思う」
その声は悲しそうではなかったけれど、いつもより真剣だった。
「やってみたいことはたくさんあるの。自分が本当に好きだと思えるものを見つけたいし、知らない場所にも行ってみたい。将来、自分がどんな人になりたいのかも考えていきたい」
そこで、彼女は小さく間を置いた。
「でも、これからも大切にしていきたいものがあるんだ」
僕は彼女を見た。
「何?」
舞夜は、つないだ手に視線を落とした。
「これ」
何を指しているのか、聞かなくても分かった。
それでも彼女は、言葉を続けた。
「これからも放課後に一緒に歩きたい。お互いにあったことを話したり、相手の話を聞いたりしたいの。綺麗な場所を見つけたら、真っ先に大樹を連れて行きたいって思えるような関係でいたい」
彼女の指が、僕の手をそっと握り直す。
「卒業した後、私たちがどんな生活を送っているのかは分からないよね。時間割も違うだろうし、それぞれ忙しくなるかもしれない。今みたいに、いつでも会えるわけじゃなくなる日もあると思う」
それでも、舞夜は少し微笑んだ。
「だけど、それでも一緒にいられる方法を見つけていきたいな」
胸の奥が、静かに揺れた。
大きな約束を求めているわけではない。
今この場で、二人の未来を決めてほしいと言っているわけでもない。
ただ、自分の願いを僕に伝えてくれている。
そして、その願いは驚くほど僕自身の気持ちに似ていた。
「僕もそう思うよ」
舞夜がこちらを向く。
「本当?」
「うん。卒業した後、具体的に何をしているかは分からないけど、舞夜と一緒に続けていきたいことはたくさんある」
写真アルバムのことを思い出した。
まだ空白のページ。
まだ訪れていない場所。
これから交わす、数え切れないほどの会話。
「舞夜と一緒に、いろんなことを知っていきたい。毎日の過ごし方が変わって、今ほど簡単に会えなくなったとしても」
彼女は黙って僕を見つめていた。
「それに、悩みだって話し合いたい。楽しいことだけじゃなくてさ。舞夜がつらい日を過ごしたなら、僕に話してほしい。反対に、僕が困ったときも舞夜を頼りたい」
舞夜は、僕の手を優しく握った。
「それって、すごく嬉しいな」
その笑顔が、少しだけ柔らかくなる。
「ねえ。前はね、私が大樹に近づこうとするのをやめたら、そのまま離れていっちゃうんじゃないかって不安だったの」
思いがけない言葉に、少し驚いた。
「今でもそう思う?」
「前ほどじゃないよ」
舞夜は視線を落とし、照れたように笑った。
「今は、大樹も自分から会いに来てくれるって分かってるから。でも、未来のことを考えると、まだ少しだけ不安になることもあるの」
僕は足を止めた。
舞夜も立ち止まり、不思議そうに僕を見る。
「大樹?」
息を吸う。
心配しなくていいと伝えたかった。
これからも会いに行くし、突然いなくなったりしないと約束したかった。
彼女と一緒に、これから先の時間を過ごしたいと伝えたかった。
けれど、そのとき母の言葉を思い出した。
完璧な言葉を探していたら、いつまでたっても伝えられない。
そして、結衣の言葉も。
自分の本当の気持ちを伝えて。
だから、すべての不安を解決できるような答えを探すのはやめた。
「いつまでも何もかもが今のままだとは約束できないよ」
僕は正直に言った。
「きっと、変わっていくこともあると思う。でも、一つだけ伝えられることがある」
舞夜は真剣な表情で僕を見つめていた。
「僕たちの関係を保つために、舞夜だけが頑張るような未来にはしたくない。僕も、舞夜と一緒にいるために努力したいんだ」
彼女の目が、わずかに見開かれる。
「僕から元気にしてるかって連絡したいし、一緒に過ごしたいからって僕の方から誘いたい。舞夜が何かを共有したいと思ったとき、いつでも話していいんだって思ってもらいたい」
僕は親指で、彼女の指先をそっとなぞった。
「いつも舞夜ばかりが、最初の一歩を踏み出す必要なんてないよ」
舞夜は動かなかった。
一瞬、何か間違ったことを言ってしまったのかと思った。
けれど、彼女の瞳が少しずつ潤んでいくのが見えた。
「大樹……」
「どうしたの?」
舞夜は首を横に振りながら、微笑んだ。
「ううん。ただ……そういうことを言ってくれると、すごく幸せだなって思って」
今度は僕の頬が熱くなる。
「別に、大したことは言ってないよ」
「私にとっては大したことだよ」
舞夜はそっと近づき、僕の肩に額を寄せた。
「だって、私だけが大樹の隣を歩きたいと思っているわけじゃないって分かるから」
僕は彼女の手を握り返した。
「最初から、舞夜だけじゃないよ」
舞夜が顔を上げる。
数秒間、僕たちは何も言わずに見つめ合った。
まだ口に出せない言葉がいくつもある。
最近ようやく理解した気持ちも、どう伝えればいいのか分からず、自分の中で整理している途中だった。
それでも、もう以前と同じ関係ではいられないことだけは分かっていた。
僕は変わった。
そして、舞夜も変わった。
彼女からの誘いに応えるだけではなく、自分から誘いたい。
彼女が会う口実を探すのを待つのではなく、僕の方から会いたいと伝えたい。
そして何より、彼女に知ってほしかった。
僕が彼女の隣にいたいと思うのは、義務でも、彼女の努力に応えるためでもない。
僕自身が望んでいることなのだと。
それからも歩き続け、やがて駅にたどり着いた。
太陽は少しずつ傾き、建物を金色に染め始めていた。
いつも二人で過ごした帰り道の終わりに、僕たちは立ち止まった。
舞夜が時計を見る。
「そろそろ帰らなきゃ」
「そうだね」
けれど、どちらもすぐには動かなかった。
やがて舞夜が、もう一度僕を見上げた。
「大樹、一つお願いしてもいい?」
「何でもいいよ」
彼女は微笑んだ。
ただ、今度は少しだけ緊張しているようだった。
「これから先、私たちが将来について大切なことを決めなきゃいけなくなったときは、本当に考えていることを教えてほしいの」
僕は彼女を見つめた。
「私を安心させるためだけに何かを言ったり、自分がしっかりしなきゃいけないと思って、不安を隠したりしないでほしい」
彼女の手は、まだ僕の手とつながっていた。
「何をすればいいのか分からないときも、ちゃんと本音で話し合いたいな」
胸の奥が熱くなった。
それは、僕もずっと望んでいたことだった。
これから先、何の問題も起きないなんて約束はできない。
卒業した後、僕たちに何が待っているのかも分からない。
それでも、彼女の隣にいる自分がどんな人間でありたいのかは、決められる。
「約束するよ。何でも話し合える関係でいたい」
舞夜は嬉しそうに微笑んだ。
「うん。それなら安心だね」
そして、彼女は少し背伸びをして、僕の頬に優しくキスをした。
固まった。
舞夜は満足そうな表情で離れる。
「じゃあ、また明日ね、大樹!」
「ま、舞夜!」
彼女はもう歩き始めていたが、途中で振り返った。
「明日も迎えに来てくれるの、忘れないでね!」
「忘れないよ!」
舞夜は最後にもう一度笑顔を見せると、駅へ入っていく人たちの中に姿を消した。
僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
頬に手を当てると、心臓がいつもよりずっと速く鼓動している。
それから、小さく笑った。
不思議なものだ。
将来について話したり、自分の悩みを打ち明けたり、これからも一緒にいたいと伝えたりすることはできる。
それなのに、頬にキスをされただけで、何も言えなくなってしまう。
けれど、ホームへ向かって歩き始めたとき、僕は一つ大切なことに気づいた。
僕が彼女に伝えたい告白は、決して何も変わらないという約束ではない。
何があっても、自分の気持ちに嘘をつかないという約束にしたい。
彼女が僕に恋をしてほしいと願ったから、隣にいるわけじゃない。
彼女と出会い、彼女を知っていくうちに、自分の人生を一緒に歩んでいきたいと思うようになったから、ここにいるのだ。
まだ、その言葉を口にしたわけではない。
それでも、胸の中にしまっておくことが、日に日に難しくなっていた。
だって、さっき二人で話した未来は、もう僕にとって不安なものだけではなかった。
初めて、舞夜と一緒にその先を想像したいと思えたのだから。
今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
卒業後の未来について、少しずつ本音を伝え合う二人。
大樹の中でも、伝えたい気持ちは確かなものになってきました。
次回もよろしくお願いします。




