もう一度、私を選んでくれる?
駅に着く頃には、太陽が沈み始めていた。
思っていた以上に、午後はあっという間に過ぎてしまった。
ほんの数時間前、俺と舞夜はカフェの前で待ち合わせていた。初めて訪れる店でのデートに、少し緊張しながら。
今は新しい写真が増え、思い出リストも長くなり、そして何より、できることならすぐにでも繰り返したいと思える午後の記憶が残っている。
「大樹」
「ん?」
舞夜は、まだ俺の手を握ったまま隣を歩いていた。
「今日は楽しかった?」
俺は少し驚いて彼女を見る。
「もちろんだよ。どうして?」
「ううん。ただ、大樹の口から聞きたかったの」
舞夜は小さく微笑んだ。
「時々、思うんだ。いつも何かを提案しているのは私なのかなって。思い出リストを作ったり、一緒に散歩しようって誘ったり、写真を撮ったり……」
「それって、悪いことなの?」
「ううん。私自身、そうするのが好きだから」
舞夜は繋いだ手に視線を落とした。
「でも、大樹が私と一緒に何をしたいと思っているのかも、知りたいな」
俺は黙り込んだ。
簡単な質問だった。
けれど、その言葉を聞いて、少し考えさせられた。
少し前まで、俺は舞夜に誘われるたびに、彼女と一緒に過ごせるなら楽しそうだと思っていた。
何かを計画しているときの嬉しそうな顔を見るのも、行ってみたい場所について話す声を聞くのも好きだった。
でも最近は、俺自身から行動を起こすことも増えていた。
今回のカフェだって、舞夜と一緒に行きたいと思ったから誘った。
週末に何をしようか、自分から考えるようにもなった。
彼女と一緒に訪れてみたい場所も、少しずつ思い浮かぶようになっていた。
誰かに理由を与えてもらう必要なんてない。
自分の意思で、そうしたいと思っているのだ。
「舞夜と一緒にやりたいことなら、たくさんあるよ」
そう答えると、彼女が顔を上げた。
「たくさん?」
「うん。水族館にも行きたいし、遊園地にも行きたい。ほかのレストランにも行ってみたいし、いつか少し遠くまで出かけてみたい」
「すごい数だね!」
「舞夜がノートにいろいろ書き始めたんじゃないか」
「そ、それはそうだけど! 大樹にもそんなにたくさんあるとは思わなかったよ!」
俺は笑った。
舞夜も笑顔を見せたが、すぐに考え込むような表情になった。
「じゃあ、どうして今まで教えてくれなかったの?」
その質問に、俺は少し足を止めた。
「たぶん、自分がどれくらい舞夜と一緒に何かをしたいと思っているのか、気づいていなかったんだと思う」
舞夜は黙って俺を見つめていた。
俺は続ける。
「前は、舞夜に何かへ誘われると、一緒に過ごせたら楽しそうだなって思っていた。でも今は、面白そうな場所を見つけたり、何かを思いついたりすると、舞夜が気に入るかなって考えるようになった」
少し間を置く。
「どんな反応をするだろうとか、何を選ぶだろうとか。それに、俺が何かくだらないことをしたら、また笑われるんだろうな、とかね」
「ちょっと!」
「例えばの話だよ」
「全然いい例じゃないよ!」
俺が笑うと、舞夜もつられて笑った。
それから、彼女はもう一度俺を見た。
今度は、とても柔らかな表情だった。
「そういうふうに考えてくれているの、嬉しいな」
舞夜は俺の手を少しだけ強く握った。
「だって、私も同じだから」
俺たちはそのまま歩き続け、駅の入口近くにある小さな休憩スペースにたどり着いた。
いくつかベンチが並び、電車を待つ人たちが静かに過ごしている。
舞夜が足を止めた。
「少し座ってもいい?」
「もちろん」
俺たちは隣同士で腰を下ろした。
舞夜はしばらく、少し離れた線路の方を眺めていた。
そして、ふと口を開く。
「ねえ、大樹。私たちが初めて会った日のこと、覚えてる?」
俺は微笑んだ。
「もちろん」
「私のこと、どう思った?」
少し考える。
「結構、積極的な子だなって思ったよ」
舞夜が瞬きをする。
「それだけ?」
「それから、何を考えているのか分からない子だとも思った」
「分からない子!?」
「だって、突然俺の前に現れて、私に恋をする必要があるなんて言い出したんだよ。どう思えばいいんだ?」
舞夜は口元を押さえて笑いをこらえた。
「そう言われると、私がとんでもない人みたいじゃない!」
「そんなことは言ってないよ」
「でも、そういう意味に聞こえたよ!」
「ほんの少しだけね」
舞夜が俺の腕を軽く叩く。
それから、彼女はまた微笑んだ。
「最初は、私だって緊張していたんだよ」
俺は彼女を見る。
「舞夜が?」
「もちろん!」
舞夜は首元にある、星と花を組み合わせたペンダントに指先を添えた。
「大樹と仲良くなりたかったけど、どう接すればいいのか分からなかった。だから、自信があるように振る舞っていたけど、本当は大樹が一緒に過ごしたくないと思っていたらどうしようって、不安だったんだ」
彼女の指が、小さな飾りをそっとなぞる。
「それでも、大樹が私の誘いを受けてくれるようになって、本当に嬉しかった」
俺は口を挟まず、彼女の話を聞いていた。
「それから文化祭があって、修学旅行があって、クリスマスにお正月……。一緒に思い出を作るたびに、少しずつ大樹に恋をしてもらえる日が近づいているのかなって思っていたんだ」
懐かしそうに微笑む。
「でも、まさか私の方がこんなに大樹を好きになるなんて、思ってもいなかったよ」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
舞夜がこちらを向く。
「だから、聞きたいことがあるの」
「何?」
彼女の紫色の瞳が、まっすぐ俺を見つめた。
「もし、私たちが初めて出会った日に戻れるとしたら……もう一度、私を選んでくれる?」
俺は動きを止めた。
それは、数日前に彼女から聞かれた質問とは少し違っていた。
あのときは、初めて会った日の何かを変えたいと思うか、と聞かれた。
でも今度は、もう一度自分を選ぶかどうかを尋ねている。
俺は、すべての始まりを思い返した。
本当は自信があるわけでもないのに、堂々とした態度で近づいてきた女の子。
最初は戸惑うばかりだった会話。
冗談やすれ違い、どう反応すればいいのか分からなかった瞬間。
そして、楽しいことばかりではなかった日々。
舞夜が向き合わなければならなかった過去のこと。
彼女の問題をすべて解決できるわけではないと知りながら、それでも隣にいたいと思ったあのときのこと。
最後に、今の自分を考えた。
隣に座り、俺の答えを待っている女の子。
「うん」
俺は答えた。
舞夜が少し目を見開く。
「本当に?」
俺は頷いた。
「もう一度、舞夜を選ぶよ」
彼女の表情が柔らかくなる。
「最初は、私の扱いに困っていたのに?」
「それでも」
「冗談でからかってきても?」
「それは今も変わらないけどね」
「大樹!」
俺は笑った。
「冗談だよ」
舞夜は少し頬を膨らませたが、すぐに笑顔に戻った。
「じゃあ、どうして私を選ぶの?」
今度は冗談で答えたくなかった。
「最初は、舞夜が何を考えているのか分からなかったけど、それでももっと知りたいと思ったから」
舞夜の笑顔が、一瞬だけ消えた。
「どんなことに自信を持っているのか、何をしていると幸せなのか、何を心配しているのか。もっと知りたかったんだ。どうすれば力になれるのか分からないときでも、舞夜のことを理解したいと思っていた」
俺は繋いだ手に視線を落とした。
「そして、舞夜のことを知れば知るほど、これからもずっと知り続けたいと思うようになった」
もう一度、彼女を見る。
「もしあの日に戻れたとしても、同じ失敗をするかもしれない。やっぱり緊張して、また何か変なことを言ってしまうかもしれない」
「それは、ありそうだね」
舞夜が小さく呟く。
「おい。今、大事な話をしているんだけど」
彼女はくすっと笑った。
「ごめん。続けて?」
俺も笑顔になる。
「でも、一つだけ変えないことがある」
「何?」
俺は彼女の手をそっと握った。
「もう一度、舞夜に近づくよ。自分の気持ちに気づくまで時間がかかったとしても、もう一度、舞夜のことを知りたいと思う」
舞夜は黙って俺を見つめていた。
「これから先、俺たちがどうなるのかは分からない。でも、あの日に出会えてよかったと思っているよ」
彼女は数秒間、俯いていた。
そして顔を上げたとき、そこには胸が高鳴るほど優しい笑顔があった。
「私も、大樹に出会えてよかった」
舞夜はそっと俺の肩に頭を預けた。
「それに、今もここにいてくれて嬉しい」
俺はすぐには答えなかった。
ただ、肩に感じる彼女の頭の重みと、手の中にある温もりを感じながら、その場に留まっていた。
何気ない瞬間だった。
大きなサプライズがあるわけでもない。
音楽が流れているわけでも、特別な出来事が起きているわけでもない。
ただ俺と舞夜が、駅のベンチに並んで座り、二人の始まりについて話しているだけだ。
それなのに、この会話は思っていた以上に大切なものに感じられた。
なぜなら、俺はもう、これまで一緒に作ってきた思い出のことだけを考えていたわけではないからだ。
これから先に待っている思い出についても考えていた。
もっと舞夜のことを知りたい。
卒業した後、どんな夢を持つのか知りたい。
彼女が幸せなときには一緒に喜び、つらい日には隣にいたい。
どんな話でも、相手が聞くのをやめてしまう心配をせずに話せる関係でいたい。
そして、放課後の散歩ほど簡単にはいかなくなったとしても、変わらず彼女を選び続けたい。
舞夜がゆっくりと頭を上げた。
「大樹」
「ん?」
「私を選んでくれて、ありがとう」
胸の奥が、少しだけ締めつけられた。
「俺たちの物語は、まだ終わっていないよ」
舞夜は微笑んだ。
「うん。分かってる」
彼女は俺の手を両手で包み込む。
「だから、これからも一緒に続きを書いていきたいな」
俺は数秒間、彼女を見つめた。
それから微笑む。
「俺もだよ」
その少し後、舞夜が乗る電車が到着した。
俺たちは立ち上がり、ホームへ続く入口まで歩いていく。
別れる直前、舞夜が振り返った。
「次は、大樹が行き先を決めてね」
「分かった」
「それから、行きたい場所がないなんて言っちゃ駄目だからね」
「そんなこと言うつもりはないよ」
「よし!」
彼女はいたずらっぽく笑った。
「だって、これからも大樹とたくさん一緒に過ごしたいんだもん」
頬が熱くなる。
「……俺もそう思ってるよ」
舞夜は驚いたように俺を見つめた。
そして、嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、また月曜日ね、大樹」
「うん。またね、舞夜」
彼女が電車に乗り込み、ドアが閉まる前にこちらへ手を振る。
俺も手を振り返した。
電車が見えなくなってから、スマートフォンを取り出して、舞夜とのメッセージ画面を開く。
短いメッセージを送った。
大樹:今日はありがとう。一緒に出かけられてよかったよ。
少しして、返信が届いた。
舞夜:私も! とっても素敵な思い出になったよ。
俺は笑顔になった。
それからスマートフォンをしまい、家へ向かって歩き始めた。
歩きながら、彼女の質問を思い返す。
『もう一度、私を選んでくれる?』
今なら、その答えが最初の出会いだけに関係するものではないと分かる。
一緒に過ごした楽しい思い出があるから、彼女を選ぶのではない。
これからも新しい思い出を作っていきたいから、彼女を選ぶのだ。
卒業して一年後、五年後、もっと先の未来にいる舞夜のことも知りたい。
お互いにどう変わっていくのか、何が変わらずに残るのかを見つけていきたい。
そして、まだずっと胸の中にしまっている言葉を口にする勇気は持てていないけれど、一つだけ確かなことがある。
もし最初に戻れるのなら、俺はもう一度、彼女へと続く道を選ぶ。
今度は、あの頃にはなかった確かな気持ちを胸に、舞夜のもとへ歩いていく。
告白する日がいつになるのかは、まだ分からない。
でも、その日が来たとしても、それは俺の恋の始まりではないだろう。
あの日から少しずつ育ってきた気持ちを、初めて声に出して伝える瞬間になるはずだ。
そして、いつか舞夜に知ってほしい。
俺がこれまで選んできたたくさんの決断の中で、これからも毎日選び続けたいものが一つだけある。
それは、舞夜を選ぶことだ。
読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、二人が出会った日のことを振り返るお話でした。
大樹にとって、舞夜を選ぶことは過去だけでなく、これからの未来にも繋がっています。
次回もよろしくお願いします!




