足りなかった一枚の写真
ケーキを食べ終えた後も、俺たちはしばらくカフェに残っていた。
会話は、お気に入りのデザートの話から、三年生の間に行ってみたい場所の話へと移っていた。
舞夜はノートを取り出して新しいアイデアを書き込んでいる。俺はアイスコーヒーを飲みながら、その様子を眺めていた。
「ねえ、大樹。水族館に行くのはどう?」
「いいと思うよ」
「じゃあ、遊園地は?」
「それもいいね」
「ピクニックは?」
「舞夜、いったいいくつ予定を追加するつもり?」
彼女が顔を上げた。
「まだ終わってないよ!」
俺は笑った。
「そうか。一年分の週末を全部予約しておかないといけないね」
「それも悪くないと思うよ」
「じゃあ、いつ勉強するの?」
舞夜の動きが止まった。
それから、真剣な表情でノートを見つめる。
「一緒に勉強すればいいんじゃない?」
「それって、勉強会も思い出リストに追加するってこと?」
「もちろん!」
「それが楽しい思い出になるかは分からないけど」
「誰と勉強するかによるんじゃないかな」
舞夜はいたずらっぽく笑って、俺を見た。
「大樹と一緒なら、きっと楽しいと思うよ」
頬が少し熱くなる。
「じゃあ、邪魔しないように頑張るよ」
「本当にそうしてね」
舞夜はノートを閉じ、ペンをしまった。
「さて、今日はこのくらいにしておこうかな」
「そろそろ出る?」
「うん。でも、その前に……」
彼女は鞄からカメラを取り出した。
「写真を撮らなきゃ!」
カメラを見てから、舞夜の顔を見る。
「また?」
「もちろん! せっかく新しいカフェに来たんだもん。思い出を残さないともったいないよ」
それは確かにそうだった。
ケーキや飲み物、それに窓際の飾りつけまで、いろいろな写真を撮ってきた。
けれど、俺たち二人が一緒に写っている写真は、まだ一枚もない。
舞夜も同じことに気づいたらしい。
撮った写真を確認しながら、少し眉を寄せた。
「何だか不思議だね」
「どうしたの?」
「今日の写真はたくさんあるのに、二人で一緒に写っている写真はほとんどないんだよね。しかも、ちゃんとポーズを取らずに撮ったものなんて」
俺も身を乗り出して画面を覗き込む。
確かにそうだった。
何枚かは、二人ともきちんと笑顔を作っている。別の写真では、どちらかがよそ見をしていた。ピンぼけして、顔がほとんど分からないものまである。
「誰かに頼んで撮ってもらう?」
俺が提案すると、舞夜は首を横に振った。
「今日は、いつもと違う写真がいいな」
「違う写真?」
彼女は俺を見つめた。
「ただ、二人で一緒にいる写真」
少し考える。
「ポーズを取らずに?」
「そう!」
「それは意外と難しいかもしれないね」
「どうして?」
「撮られているって分かっていたら、結局いつものようにポーズを取っちゃいそうだから」
舞夜は顎に手を当てた。
「確かに……」
二人でしばらく考え込む。
すると、舞夜がぱっと笑顔になった。
「あっ、そうだ!」
「何?」
「カメラをテーブルに置いて、タイマーを使えばいいんだよ!」
「それで、撮影されるまで何をするの?」
「おしゃべり!」
「おしゃべり?」
「うん。いつもみたいに話せばいいんだよ」
あまりにも簡単な提案だったので、断る理由はなかった。
俺たちは席を立ち、カメラを置けそうな窓際の場所を探した。
舞夜はカメラのタイマーを設定し、画角を確認する。
「これなら大丈夫そう!」
「天井ばかり写っていなければいいけど」
「もう、からかわないで!」
カメラを設置すると、彼女は俺の隣に戻ってきた。
窓際に置かれた小さなソファに、二人で並んで座る。
カメラのタイマーが動き始めた。
三秒。
二秒。
一秒。
「そういえば、大樹」
「ん?」
「アルバムには、毎月一枚ずつ写真を追加していくのはどうかな?」
俺は彼女を見る。
「毎月?」
「うん。一年がどんなふうに変わっていくのか、見返せるでしょ?」
「いいね、それ」
「卒業する頃には、時期ごとの写真が九枚か十枚くらい残るよ」
俺は笑った。
「かなり大きなアルバムになりそうだね」
「それが目的だもん!」
カメラから小さな音が鳴った。
撮影が終わったようだ。
舞夜はすぐに立ち上がり、写真を確認しに行く。
俺も後ろから近づいた。
そして、画面に映った写真を二人で覗き込んだ。
そこには、俺の方を向いて自然に笑っている舞夜の姿があった。
一方の俺は、そんな彼女を見つめていた。
カメラに向かって笑っているわけではない。
撮影された瞬間さえ、二人とも意識していなかった。
けれど、その写真は……。
「これ、好き」
舞夜が静かに呟いた。
その声は、さっきまでよりも柔らかかった。
俺も画面を見つめる。
「俺も好きだよ」
舞夜は何かを話そうとしているように見える。俺は、そんな彼女を見つめながら、自然な表情を浮かべていた。
少し傾いた構図。
窓から差し込む光が強すぎて、写真の端が白くなっている。
決して完璧な一枚ではなかった。
それでも、丁寧に準備して撮った写真より、ずっと気に入っていた。
そこには、本当に過ごしていた時間が写っているように思えた。
普段なら、あまりにも自然すぎて忘れてしまうような一瞬。
「大樹の顔、見て」
舞夜が指先で画面を拡大した。
「何か変?」
「すごく幸せそうな顔をしてるよ」
頬が熱くなる。
「舞夜と話していたんだから、当然だろ」
「うん。知ってるよ」
舞夜が顔を上げた。
「だから、この写真がすごく好きなの」
俺は何も言えなかった。
彼女はもう一度画面に目を戻す。
「これ、きっとお気に入りの一枚になると思う」
「少し傾いているのに?」
「だからこそだよ」
舞夜は微笑んだ。
「全部の写真が完璧じゃなくてもいいと思うの。私たちが本当にどんなふうに過ごしていたのか、思い出せる写真も残しておきたいから」
俺はもう一度、その写真を見つめた。
確かに、彼女の言う通りかもしれない。
何もかもがうまくいった日だけを思い出に残したいわけじゃない。
ちょっとした失敗も、くだらない冗談も、何を話せばいいのか分からなくなった瞬間も。
その全部が、俺たちの時間の一部なのだから。
「じゃあ、この写真もアルバムに入れよう」
俺が言うと、舞夜は嬉しそうに頷いた。
「うん!」
彼女はノートを取り出し、新しい項目を書き加えた。
『カフェで撮った、初めての自然な二人の写真』
書き終えると、俺に見せてくれる。
「どうかな?」
「完璧だと思う」
舞夜はノートを閉じ、カメラを鞄にしまった。
荷物をまとめて店を出ると、午後の日差しが通りを照らしていた。
柔らかな風が吹き、街路樹の葉を揺らしている。
俺たちは急ぐことなく、駅へ向かって歩き始めた。
舞夜は隣で鞄の肩紐を片手で持っている。
もう片方の手が、時々俺の手に触れた。
そして、やがて彼女の指が俺の指に絡んだ。
何も言わない。
俺も何も言わなかった。
ただ、そのまま一緒に歩き続ける。
彼女を横目で見ながら、俺はさっきの写真を思い出していた。
笑顔を浮かべながら俺を見つめていた舞夜。
そんな彼女を眺めていた自分。
あの瞬間が、どれほど自然だったのか。
そして、何か特別なことをしなくても、彼女と一緒にいるだけでこんなにも楽しいのだと、改めて感じていた。
舞夜が俺の手をそっと握る。
「大樹」
「ん?」
「今日はありがとう」
彼女を見る。
「俺もすごく楽しかったよ」
舞夜は笑顔になった。
「じゃあ、また行こうね」
「もちろん」
考えるよりも先に答えていた。
今度は、その可能性を嬉しく思っていることを隠そうとはしなかった。
もう、自分でも否定できないことがある。
これからも舞夜を新しい場所へ誘いたい。
一緒に写真を撮り続けたい。
何をすれば彼女が笑ってくれるのか、どんな夢をまだ叶えたいと思っているのか、もっと知りたい。
そして、何年か後に二人でアルバムを開いたとき、大きな出来事だけでなく、何も特別なことがなくても幸せだった、あの何気ない午後のことも思い出したい。
いつか舞夜に、いつから私のことが好きになったの、と聞かれる日が来るかもしれない。
そのとき、俺は正確な日付を答えられないだろう。
なぜなら、それは突然始まったわけではないからだ。
少しずつ、少しずつ。
会話を重ねるたびに。
一緒に歩くたびに。
写真を撮るたびに。
そして、彼女の隣にいたいと思うたびに。
俺の気持ちは育っていった。
駅へ向かう道の途中、舞夜と繋いだ手の温もりを感じながら、ふと思った。
このアルバムに残しているのは、ただの思い出だけじゃない。
俺が舞夜に恋をしていく、その過程そのものなのかもしれない。
読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、二人の自然な笑顔を残した一枚が生まれました。
完璧ではない写真だからこそ、忘れたくない瞬間もありますね。
次回もよろしくお願いします!




