二人きりの午後
土曜日は、思っていたよりも早くやってきた。
一週間ずっと、今日の約束のことを考えていた。緊張する理由なんてないと自分に言い聞かせていたけれど。
ただ、二人でカフェに行くだけだ。
何かを食べて、少し話をして、アルバムに残す写真を何枚か撮る。
それだけのことだ。
それなのに、どうして俺は十分もシャツを選び続けているんだろう。
「……何やってるんだ、俺」
ベッドの上に一枚のシャツを置き、もう一度クローゼットを眺める。
舞夜に初めて会うわけじゃない。
これまで何度も一緒に放課後を過ごしてきた。寝癖のついた姿も、疲れた顔も、長い授業の後の制服姿だって見られている。
それでも、今日は少し特別な日にしたかった。
彼女に格好よく見られたいから、というだけではない。
舞夜と過ごす午後が、楽しみで仕方なかったのだ。
結局、シンプルなシャツと暗めの色のパンツを選んだ。
鏡の前に立つ。
「よし。これでいい」
そのとき、スマートフォンが震えた。
舞夜:おはよう、大樹! もう準備できた?
大樹:うん。舞夜は?
舞夜:私も!
数秒後、もう一通届いた。
舞夜:でも、もしかしたら服を三回くらい着替えちゃったかも……
思わず笑ってしまう。
大樹:三回も?
舞夜:笑わないで! せっかくだから可愛い服を選びたかったの!
画面を見つめたまま、少し頬が緩んだ。
舞夜も今日の服装を考えてくれていたんだ。
そう思うと、隠しきれないほど嬉しくなった。
大樹:どれを選んでも、きっと似合ってるよ。
すぐに返信が来る。
舞夜:まだ見てないのに、どうして分かるの?
大樹:それはそうだね。
舞夜:じゃあ、会うまでのお楽しみ!
俺は笑いながらスマートフォンをしまった。
彼女の言う通りだ。
会うまでのお楽しみ。
そして久しぶりに、誰かを待つことが少しも苦にならない自分に気づいた。
これから舞夜に会える。
それだけで、待つ時間さえ楽しみだった。
待ち合わせ場所には、約束の時間より少し早く着いた。
カフェは駅から少し歩いた商店街の通りにある。
インターネットで写真を見たときは、なかなか雰囲気の良さそうな店だと思った。大きな窓に木製のテーブル、小さなテラスには植物が飾られている。
待っている間、スマートフォンを確認していると。
「大樹!」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
舞夜がこちらへ歩いてきていた。
淡い色のブラウスに軽い上着、落ち着いた色のスカート。足元はシンプルな靴で、長い濃い紫色の髪が肩に流れている。片側には、小さな花の髪飾りが留められていた。
俺を見つけると、彼女は笑顔を浮かべた。
その瞬間、何を言おうとしていたのか、一瞬分からなくなった。
「おはよう」
「おはよう」
舞夜が俺の前で立ち止まる。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
「本当に?」
俺は頷いた。
「その……すごく可愛いと思って」
考えるより先に、言葉が口から出ていた。
舞夜が目を見開く。
頬がほんのり赤く染まった。
「えっ……?」
今度は俺の方が恥ずかしくなる。
「あ、いや。服が似合ってるって意味で」
「そ、そうなんだ……」
舞夜は視線を落とし、髪の一房を指先で弄んだ。
「ありがとう」
小さな沈黙が流れる。
やがて彼女が顔を上げた。
「大樹も、今日は素敵だよ」
「ありがとう」
数秒間、互いに見つめ合う。
そして、ほとんど同時に視線を逸らした。
何だ、この状況は。
これまで、もっと親密な時間を何度も過ごしてきたはずなのに、たった一言褒め合っただけで、こんなにも落ち着かなくなるなんて。
舞夜が小さく咳払いをした。
「そ、それじゃあ……行こっか」
「うん」
俺たちはカフェへ向かって歩き始めた。
店内は、写真で見たときよりもずっと素敵だった。
大きな窓から差し込む日差しが、木製のテーブルを明るく照らしている。隅には本や雑誌が並んだ棚があり、淹れたてのコーヒーの香りと、ショーケースに並ぶケーキの甘い香りが混ざり合っていた。
「わあ、素敵なお店!」
舞夜が嬉しそうに店内を見回す。
その横顔を眺めながら、俺は思った。
ここを選んで正解だったな。
「窓際の席に座る?」
「うん!」
俺たちは二人掛けのテーブルに向かい合って座った。
店員さんがメニューを持ってきてくれたので、しばらく注文を考えることにする。
舞夜は真剣な表情でメニューを眺めていた。
その様子がおかしくて、つい笑ってしまう。
「どうしたの?」
「いや、随分真剣だなと思って」
「だって、種類が多すぎるんだもん」
「好きなものを選べばいいよ」
「それじゃあ困るよ、大樹」
「どうして?」
「だって、全部食べてみたくなっちゃうじゃない!」
俺は笑った。
「それなら、また来ればいいんじゃない?」
舞夜が顔を上げる。
「また?」
「うん。食べたいものがたくさんあるなら、別の日にもう一度来ればいい」
彼女は少し黙った。
それから、俺の予想以上に嬉しそうな笑顔を見せた。
「……そうだね」
メニューに視線を戻す。
「また来たいな」
最終的に、舞夜はイチゴのケーキとミルクティーを選んだ。俺はチョコレートケーキとアイスコーヒーを注文する。
注文した品が運ばれてくると、舞夜はすぐに鞄からカメラを取り出した。
「待って! 写真を撮らなきゃ!」
「食べ物の?」
「もちろん!」
彼女はテーブルの上の皿を並べ直し、カメラを構えて角度を探し始めた。
「もう少し左……」
俺はグラスを動かす。
「これくらい?」
「違うよ、大樹。そっちじゃなくて、こっちの左!」
「こっちってどっちだよ!」
「もう! 手は二本しかないんだから、ちゃんと協力して!」
「いや、俺だって二本しかないよ!」
舞夜は笑いながら、何度も皿の位置を調整した。
そして、ようやく納得のいく一枚が撮れたらしい。
「できた!」
「撮影している間に、ケーキが冷めていないといいけど」
舞夜がわざとらしく頬を膨らませる。
「もう! 写真だって大切な思い出の一部なんだから!」
「分かってる、分かってる」
俺は笑いながら、チョコレートケーキを一口食べた。
美味しい。
舞夜も自分のケーキを小さく切り分け、口に運ぶ。
そして、満足そうに目を閉じた。
「んー……! 美味しい!」
そんな彼女を見て、俺は自然と笑顔になっていた。
こういう何気ない瞬間が、俺には嬉しい。
大掛かりなサプライズを用意したり、高価なプレゼントを贈ったりする必要はない。
彼女が気に入りそうな場所を見つけて、一緒に穏やかな時間を過ごす。
それだけで、十分に幸せだった。
「大樹」
「ん?」
舞夜が自分の皿を少しこちらに寄せた。
「一口食べてみる?」
「舞夜のケーキ?」
彼女は頷く。
「すごく美味しいよ」
差し出されたフォークを受け取り、小さく切り分けて口に運んだ。
「本当だ。美味しいね」
「でしょ?」
今度は舞夜が俺の皿を覗き込む。
「私も大樹のケーキを食べてみたいな」
俺はチョコレートケーキを彼女の方へ寄せた。
舞夜は一口食べると、ぱっと目を輝かせた。
「こっちも美味しい!」
「お互い、いいものを選んだね」
「次に来るときは、違うケーキを二つ頼んで、一緒に食べるのもいいね」
俺は彼女を見た。
「次に来るとき?」
舞夜の動きが止まった。
どうやら、自分が何を口にしたのか気づいたらしい。
「い、いや……また来られたら、だけどね」
俺は微笑んだ。
「俺は、また舞夜と来たいよ」
舞夜が俯く。
頬は再び赤く染まっていた。
「……私も」
その後もしばらく、俺たちはデザートや店内の飾りつけ、これから行ってみたい場所について話し続けた。
会話は自然に続いていく。
何を話そうかと考え込む必要もない。
どんな些細なことでも笑い合えるし、一つの話題から別の話題へ移るのも自由だった。
そんなとき、舞夜がフォークを皿の上に置いた。
「ねえ、大樹。ちょっと聞いてもいい?」
「もちろん」
彼女は少し不思議そうな顔で俺を見た。
「もし、別の人からここに誘われていたら、大樹は来てた?」
「別の人?」
「うん。例えば、クラスの女の子とか」
俺は少し考えた。
「相手にもよるし、その日に予定がなければ、行っていたかもしれないね」
舞夜はゆっくり頷いた。
「そっか」
けれど、どうやら完全に納得したわけではなさそうだった。
「どうしてそんなことを聞くの?」
彼女はカップの取っ手を指先で弄びながら答えた。
「今日の午後が、大樹にとって特別なのか知りたかったから」
俺は舞夜を見つめた。
彼女は少しだけ微笑む。
「勘違いしないでね。大樹がほかの人と出かけることもあるだろうし、友達が大切なのも分かってるよ」
そこで一度言葉を切った。
「でも、私とここに来ることは、何か違うのかなって思ったの」
心臓が少しずつ速くなっていく。
簡単に答えることもできた。
そうだね、土曜日を楽しく過ごすにはいい場所だと思うよ、と。
けれど、それでは本当の気持ちを伝えたことにはならない。
俺はテーブルに視線を落とし、それからもう一度、彼女を見た。
「うん。違うよ」
舞夜の指先が止まった。
「違う……?」
俺は頷いた。
「この場所を見つけたとき、一緒に来たいと思ったのは舞夜だった。ここに来ようと考えたとき、最初に誘いたいと思ったのも舞夜だったんだ」
少しだけ間を置く。
「それに、舞夜が来てくれるって言ってくれたとき、本当に嬉しかった」
舞夜の紫色の瞳が、わずかに大きくなる。
「大樹……」
「ほかの人から誘われていたら、行ったかどうかは分からない。でも、舞夜とこの午後を過ごしたかったのは確かだよ」
頬が熱くなるのを感じた。
それでも、今度は視線を逸らさなかった。
「舞夜だから、一緒に来たかったんだ」
彼女は何も言わなかった。
数秒間、周囲のテーブルから聞こえる話し声だけが耳に届く。
やがて舞夜は、小さく微笑んだ。
温かくて、少し恥ずかしそうな笑顔だった。
「じゃあ……来てよかった」
「俺もだよ」
彼女がテーブルの上に手を伸ばす。
何も言わず、俺の手のすぐそばに指先を置いた。
その仕草を見て、彼女が何を望んでいるのか分かった。
俺も手を伸ばし、彼女の指に自分の指を絡める。
舞夜が、もう少しだけ笑顔を深めた。
そして俺たちは、窓際の席でしばらくそのまま手を繋いでいた。
特別なことが起きたわけじゃない。
二人でケーキを食べて、冗談を言い合い、これからの予定について話しただけだ。
それでも、今日の午後はもう、ずっと残しておきたい思い出になっていた。
特別なのは、場所じゃない。
ケーキでも、写真でもない。
この午後を誰と過ごしたいかと考えたとき、いつも舞夜のことが真っ先に浮かぶ。
そのことこそが、特別なのだ。
繋いだ手を舞夜がそっと握り返す。
その温もりを感じながら、俺は自分に問いかけていた。
どうして、彼女のそばにいたいんだろう。
一緒にいると幸せだから。
彼女となら、どんな些細なことでも笑い合えるから。
大切な話がなくても、その声を聞いていたいから。
そして、まだあの三つの言葉を口にできていないけれど、自分の気持ちがどこへ向かっているのかは、もう十分すぎるほど分かっていた。
俺は舞夜に恋をしている。
あとは、それを伝える勇気を持つだけだった。
読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、大樹と舞夜の二人きりのカフェデートでした。
少しずつ素直になっていく大樹の気持ちを感じていただけたら嬉しいです。
次回もよろしくお願いします!




