消えない噂
月曜日の朝。
俺がたどり着いた結論は、一つしかなかった。
――文化祭は、完全な失敗だった。
いや、訂正しよう。
文化祭そのものは楽しかった。
問題だったのは――。
八神舞夜と一緒に参加してしまったことだ。
なぜなら、今の学校は明らかにおかしくなっていたからだ。
「いた!」
校門をくぐった瞬間、そんな声が聞こえてきた。
「ほら、南じゃない?」
「そうそう、メイド喫茶の」
「八神さんと一緒に賞を取った人だよね」
……。
どうして、まるで俺たちが王国でも征服したみたいな言い方なんだ。
思わずため息が漏れる。
まだ朝の七時半。
それなのに、もう疲れていた。
本当に、ものすごく疲れていた。
「だーいきー!」
……。
嫌な予感しかしない。
この声を、俺はよく知っている。
そして、無視できないことも知っていた。
「待てってー!」
廊下の向こうから、松が走ってくる。
口にはパンをくわえ、片方の肩には鞄。
そのうえ、なぜか額には絆創膏まで貼っていた。
……なんなんだ、その格好は。
「どうしたんだ、その怪我」
俺が尋ねると、松は胸を張った。
「母さんに、『ちゃんと前を見て歩きなさい』って怒られた」
「で、実際どうだったんだ?」
「柱にぶつかった」
「じゃあ、母親が正しいな」
「そこは否定してくれてもよくない?」
朝の静かな校舎に、松の情けない声が響いた。
俺たちは並んで校舎へ入った。
すると、松が廊下の左右をきょろきょろと見回し始める。
まるで何かを探しているように。
いや――。
誰かを探しているように見えた。
「何してるんだ?」
俺が尋ねると、松は真顔で答えた。
「お前の彼女を探してる」
……。
俺は思わず立ち止まった。
「彼女なんていない」
「おかしいなあ」
松は首をかしげる。
「金曜日なんて、完全に新婚夫婦の喫茶店だったぞ」
「大げさすぎるだろ」
「息ぴったりだったじゃん」
「仕事だったからな」
「へえー」
「……」
「……」
「その顔やめろ」
俺たちは再び歩き出した。
周囲の視線を無視しようとしながら。
――無理だったけど。
すれ違った一年生の女子なんて、なぜか俺を見て軽く頭を下げていった。
……なんで?
いや、本当に意味がわからない。
教室の前に着くと、まだ扉は閉まっていた。
俺たちはかなり早く来たらしい。
「さて」
松が腕を組みながら言った。
「今日から新しい時代の始まりだ」
「なんの時代だよ」
「みんながお前と八神が付き合ってるって信じてる時代」
……。
俺は松を見た。
それから教室の扉を見た。
そして、もう一度松を見た。
「転校してもいいか?」
「ダメだ」
「なんでだよ」
「それは敗北を認めることになるから」
「何の敗北だよ」
「恋愛戦争の敗北」
「そんな戦争、存在しないだろ」
「まだ、な」
俺が言い返そうとした、その時だった。
コツ――。
コツ――。
コツ――。
廊下の向こうから、静かな足音が聞こえてくる。
俺は自然と顔を上げた。
そこにいたのは、八神舞夜だった。
いつもと変わらない、整った制服姿。
窓から吹き込む朝の風に、長い黒髪がゆっくりと揺れている。
そして、何もかも見透かしているような紫色の瞳。
彼女は俺たちの姿を見つけると、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「おはようございます、南くん」
「おはよう」
そう返すと、舞夜は松の方にも視線を向ける。
「おはようございます、松くん」
「おはよう、未来の大樹の奥さん」
……。
一瞬、時間が止まった。
俺は反射的に松の脇腹へ肘を叩き込む。
「何言ってるんだ、お前!」
「痛っ!」
「当然だろ」
絶対に怒られる。
少なくとも、無視されるくらいは覚悟していた。
だが、舞夜の反応は俺の予想とはまったく違っていた。
彼女はそっと口元に手を添えると――。
ふふっ、と小さく笑った。
本当に、かすかな笑い声だった。
そのあまりにも自然な笑顔に、松でさえ言葉を失っていた。
「松くんは、いつも面白い冗談を言いますね」
舞夜は落ち着いた声でそう言った。
すると、松が俺の耳元に顔を近づけ、小声でささやく。
「なあ、今の聞いたか?」
「何をだよ」
「否定しなかった」
……。
「冗談だってわかってるからだろ」
「本当にそうか?」
そう言われてしまうと――。
なぜだか、急に自信がなくなってしまった。
その直後――。
キーンコーンカーンコーン。
始業を告げるチャイムが校内に響き渡った。
「あ、鳴った」
松がそう言いながら、閉まったままの教室の扉へ視線を向ける。
すると、ちょうどそのタイミングで担任の教師が廊下の向こうから歩いてきた。
「お前たち、朝から何を騒いでいるんだ?」
「恋愛相談です」
松が真顔で答える。
「違います」
俺は即座に否定した。
教師は小さくため息をつき、教室の鍵を開ける。
「朝から元気なのは結構だが、ほどほどにしろよ」
「はーい」
松だけが元気よく返事をした。
俺と舞夜は顔を見合わせ、ほぼ同時にため息をつく。
その瞬間。
廊下を歩いていた何人かの生徒が、こちらを見ながらひそひそと話し始めた。
「やっぱり仲いいよね」
「絶対付き合ってるって」
「文化祭のときもずっと一緒だったし」
……聞こえてる。
普通に聞こえてるからやめてほしい。
俺が黙って前を向いていると、隣の舞夜が小さな声で言った。
「有名人になってしまいましたね」
「全然うれしくないけどな」
「私は少し面白いです」
「面白いのか?」
「はい。みなさん、想像力が豊かなので」
そう言って、舞夜は楽しそうに微笑んだ。
文化祭が終わってから、彼女は前よりもずっとよく笑うようになった気がする。
……いや。
もしかしたら、俺がそう思っているだけなのかもしれない。
だけど、その笑顔を見るたびに、なぜか胸の奥が少しだけ落ち着かなくなるのだった。
教室に入ると、まだ半分ほどしか席は埋まっていなかった。
俺はいつもの窓際の席に鞄を置き、そのまま椅子に腰を下ろす。
隣では松が、机に突っ伏しながら大きなため息をついていた。
「はあ……」
「今度は何だよ」
「お前、いいよなあ」
「急にどうした」
松はゆっくりと顔を上げる。
「学校中の美少女と噂になってるんだぞ?」
「勝手に噂されてるだけだ」
「普通の男子なら一週間は眠れない状況だぞ」
「俺は普通に眠れてる」
「強いな、お前」
全然うれしくない強さだった。
そんなくだらない会話をしていると、舞夜が自分の席に鞄を置いた。
すると、近くの女子たちがすぐに彼女のもとへ集まっていく。
「八神さん、おはよう!」
「文化祭、お疲れさま!」
「メイド服、すごく似合ってたよ!」
舞夜は少し驚いたような顔をしたあと、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
「みなさんのおかげです」
その様子を眺めながら、松が小声でつぶやく。
「やっぱり八神ってすごいよな」
「まあ、そうだな」
「顔もいいし、頭もいいし、性格もいい」
「……珍しくまともなこと言うな」
「でも、お前の前だとちょっとだけ雰囲気が違うんだよな」
俺は思わず松の方を見た。
「違うって?」
「なんて言えばいいんだろうな」
松は腕を組みながら考え込む。
「学校の八神は完璧な優等生って感じだけど、お前と話してるときは、少しだけ普通の女の子っぽい」
……普通の女の子。
その言葉が、妙に頭の中に残った。
俺が知っている八神舞夜は、本当に「普通の女の子」なんだろうか。
それとも――。
俺がまだ、彼女のことを何も知らないだけなのだろうか。
そして、一時間目の開始を告げるチャイムが鳴った。
先生が教室に入ってくると、ざわついていた空気は少しだけ落ち着きを取り戻す。
俺は教科書を机の上に置きながら、窓の外へ視線を向けた。
青い空。
ゆっくりと流れていく雲。
何も変わっていないように見える月曜日の朝。
だけど、確実に変わってしまったものもあった。
文化祭が終わってから、俺と八神を取り巻く空気は明らかに違っていた。
廊下を歩けば視線を感じる。
誰かが噂をする声が聞こえる。
そして、その中心にはいつも八神舞夜がいる。
――いや。
正確には、八神舞夜と俺だ。
「南くん」
不意に、小さな声が聞こえた。
振り向くと、舞夜がこちらを見ていた。
「どうした?」
「いえ。授業、始まりますよ」
「ああ、そうだな」
それだけの会話だった。
たったそれだけなのに、後ろの席から松の視線を感じる。
振り返ると、案の定、にやにやしていた。
……本当に勘弁してほしい。
先生の声が教室に響く。
新しい一週間。
新しい日常。
そして、新しい噂。
きっと、これからも簡単には消えないのだろう。
噂というものは、消えることはない。
ただ――。
少しずつ形を変えながら、また新しい物語になっていく。
そんな予感がした。
そして、なぜか俺は――。
この二学期が、一学期よりもずっと面倒なものになると確信していた。
第三十三話『消えない噂』を読んでいただき、ありがとうございました。
文化祭が終わり、学校の日常は元に戻ったはずでした。
けれど、大樹の周りだけは少しずつ変わり始めています。
クラスメイトたちの視線。
消えることのない噂。
そして、以前よりも少しだけ近くなった舞夜との距離。
平穏な日常が戻ってきたように見えて、その裏では新しい物語が静かに動き始めていました。
二学期は、まだ始まったばかりです。
大樹と舞夜を待ち受けるのは、穏やかな毎日なのか、それとも新たな騒動なのか。
誰にも、その答えはわかりません。
ただ一つ確かなことがあるとすれば――。
噂は簡単には消えないということです。
それでは、次の物語でまたお会いしましょう。




