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嘘の向こう側

 文化祭が終わってから、三日が経った。


 あれほど騒がしかった学校は、まるで何事もなかったかのように、いつもの日常を取り戻していた。


 廊下を彩っていた色とりどりの飾りは、もうどこにも残っていない。


 中庭を歩けば、数日前まで聞こえていた笑い声や呼び込みの声も、今はすっかり消えていた。


 まるで、あの一週間が夢だったかのようだった。


 俺は教室の窓際の席に座りながら、ぼんやりと校庭を眺めていた。


 グラウンドでは運動部の連中が練習をしている。


 遠くから聞こえてくる掛け声も、いつも通りのものだ。


「なんか、急に静かになったよな」


 前の席で椅子にもたれかかっていた松が、大きなあくびをしながら言った。


「まあ、文化祭が終わったばっかりだしな」


「燃え尽き症候群ってやつか?」


「知らねえよ」


 適当に返事をすると、松は苦笑した。


「せっかく優勝したのに、もうみんな普通に授業受けてるもんな」


「学校なんだから当たり前だろ」


「もっとこう、余韻ってものがあってもいいじゃないか」


 そう言いながら、松は教室の後ろを指差した。


 そこには、文化祭のときに使っていた段ボールや飾りの残骸が、まだ少しだけ残されていた。


 だが、それも今日の放課後には片づけられるらしい。


 本当に、全部終わったんだな。


 ふと、廊下の先に置かれている展示ケースが目に入った。


 その中には、歴代の優勝クラスの記念品と並んで、俺たち二年B組が獲得したプレートが飾られている。


 たった数日前までは、あれを手に入れるために必死だった。


 毎日のように準備をして、遅くまで学校に残って、みんなで騒いで。


 なのに、終わってしまえば一瞬だ。


 不思議なものだな、と俺は思った。


「大樹くん」


 不意に名前を呼ばれ、俺は顔を上げた。


 教室の入り口には、八神舞夜が立っていた。


 長い黒髪を揺らしながら、いつものように静かな表情でこちらを見ている。


「先生が、次の授業が始まるって伝えてほしいそうです」


「ああ、ありがとう」


「いえ」


 そう言って、舞夜は自分の席へ戻っていく。


 その後ろ姿を見送りながら、俺はふと思った。


 文化祭は終わった。


 けれど、俺たちの日常は、まだ続いていく。


 少しだけ、前とは違う形で。

 放課後のチャイムが鳴り終わる。


 教室のあちこちから、椅子を引く音や生徒たちの話し声が聞こえてきた。


「やっと終わったー!」


 そう叫びながら伸びをしているのは結衣だ。


「文化祭のあとって、なんでこんなに授業が長く感じるんだろうね」


「それは、お前が授業を聞いてないからだろ」


 俺がそう言うと、結衣は不満そうに頬を膨らませた。


「ちゃんと聞いてるわよ!」


「半分寝てたじゃねえか」


「気のせいよ」


 絶対に気のせいじゃない。


 そんなくだらないやり取りをしていると、教室の後ろから松の声が聞こえてきた。


「おーい、大樹! 今日、帰りにゲームセンター寄らないか?」


「悪い、今日はやめとく」


「また八神と帰るのか?」


「別に、『また』ってわけじゃない」


「はいはい」


 松は面白そうに笑っていた。


 こいつは文化祭が終わってからというもの、妙に俺と舞夜をからかってくるようになった。


「じゃあ、俺は先に帰るわ。また明日な」


「ああ、また明日」


 松が教室を出ていく。


 気づけば、教室に残っている生徒もだいぶ少なくなっていた。


 俺が鞄を持って席を立とうとした、その時だった。


「大樹くん」


 聞き慣れた声に顔を上げる。


 舞夜が、いつの間にか俺の机の横に立っていた。


 肩にはいつもの通学鞄が掛けられている。


「一緒に帰りませんか?」


「ああ、いいよ」


 舞夜は小さくうなずいた。


 そして、俺たちは並んで教室を出る。


 夕方の廊下には、オレンジ色の光が差し込んでいた。


 窓の外では、運動部の掛け声が遠くに聞こえる。


 三日前まで、文化祭の準備で慌ただしく走り回っていたこの廊下も、今はもう静かだった。


 昇降口へ向かいながら、俺は隣を歩く舞夜をちらりと見る。


 長い黒髪が夕日に照らされ、どこか幻想的に見えた。


 文化祭は終わった。


 なのに、不思議なことに、俺たちは今でもこうして一緒に帰っている。


 あの日までなら、きっと想像もしていなかった光景だった。

 校門を出ると、夕方の風が静かに吹き抜けた。


 夏も終わりに近づき、昼間の暑さも少しずつ和らいでいる。


 空はオレンジ色に染まり、長く伸びた俺たちの影が道路の上に並んでいた。


 しばらくの間、俺たちは何も話さずに歩いていた。


 けれど、その沈黙はもう気まずいものではない。


 文化祭の準備をしていた頃なら、何か話題を探して焦っていたかもしれない。


 だが今は違う。


 隣に誰かがいることが、当たり前になりつつあった。


「そういえば」


 静寂を破ったのは俺だった。


「先生が言ってたな。来年もメイド喫茶をやりたいらしい」


 舞夜は少し驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。


「私も聞きました」


「まあ、俺たちはもう二年B組じゃないけどな」


「そうですね」


 短いやり取りのあと、再び沈黙が訪れる。


 けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。


 駅へ向かう途中の橋を渡りながら、俺はふと気づく。


 いつの間にか、俺たちの間にあった距離がなくなっていた。


 文化祭が始まる前は、並んで歩くことなんてほとんどなかった。


 少し前の俺なら、きっと変に意識して、必要以上に距離を取っていただろう。


 なのに今は違う。


 前を歩くわけでもなく、後ろを歩くわけでもない。


 気づけば、いつも隣にいる。


 まるで、それが最初から決まっていたことのように。


「南くん」


「ん?」


 舞夜が前を向いたまま、静かに俺の名前を呼んだ。


「ありがとうございます」


 俺は思わず苦笑した。


「またかよ。文化祭が終わってから、何回目だ?」


「……十回くらいでしょうか」


「多すぎるだろ。一回で十分だって」


 そう言うと、舞夜は小さく吹き出した。


 本当に小さな笑みだった。


 だけど、文化祭の最初の頃には見られなかった、自然な笑顔だった。


「そうかもしれませんね」


 その横顔を見ながら、俺はふと思う。


 八神舞夜という人間のことを、俺はまだほとんど知らない。


 好きなものも、苦手なものも、家でどんな顔をしているのかも。


 それなのに――。


 どうしてだろう。


 もっと知りたいと思っている自分がいた。

 橋を渡り終え、住宅街へ続く道に入る。


 空はすっかり夕焼け色に染まり、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。


 隣を歩く舞夜は、いつものように静かな表情を浮かべている。


 けれど、さっきまでの柔らかな笑顔が消えていることに、俺は気づいていた。


「南くん」


「ん?」


 舞夜はすぐには言葉を続けなかった。


 まるで、何かを言うべきか迷っているようだった。


 数秒の沈黙のあと、彼女はゆっくりと口を開いた。


「……ありがとうございます」


 俺は思わず苦笑する。


「いや、だから、それはもう聞いたって」


「違います」


「違う?」


 舞夜は小さく息を吐き、それから真っすぐ前を向いたまま言った。


「何も聞かないでいてくれて、ありがとうございます」


「……何も聞かない?」


 意味がわからず、俺は首をかしげる。


「どういうことだ?」


 舞夜は少しだけ視線を落とした。


 夕日に照らされた横顔は、どこか寂しそうにも見えた。


「南くんは、優しい人ですから」


「急に何の話だよ」


「だから、きっと気づいていることもあると思います」


「気づいてること?」


 聞き返しても、舞夜はすぐには答えなかった。


 ただ、しばらく黙ったあと、ふっと小さく笑う。


「……忘れてください」


「いや、忘れろって言われてもな」


「本当に、大したことじゃないんです」


 そう言って、彼女は再び歩き始める。


 俺も慌てて、その後を追った。


 けれど、頭の中には、さっきの言葉が残り続けていた。


 ――何も聞かないでいてくれて、ありがとう。


 ――きっと、気づいていることもある。


 俺は、何を見落としているんだろう。


 いや、そもそも、何を知らないんだろう。


 八神舞夜は、昔からどこか不思議なやつだった。


 誰よりも優秀で、誰よりも落ち着いていて、何を考えているのかわからない。


 だけど、文化祭の準備を通して、俺は少しだけ知った気になっていた。


 笑うこともある。


 困ることもある。


 誰かの言葉に傷つくことだってある。


 そんな、ごく普通の女の子なんだと。


 それなのに――。


 どうして今、俺はこんなにも、八神舞夜のことを何も知らない気がしているんだろう。


 夕焼け空を見上げながら、俺は答えのない疑問を胸の中で繰り返していた。

 やがて、俺たちは駅へ向かう途中の分かれ道へとたどり着いた。


 ここを右に曲がれば舞夜の家、まっすぐ進めば俺の家だ。


 文化祭の準備が始まってから、何度も一緒に通った道だった。


 けれど、こうして立ち止まるたびに、少しだけ不思議な気持ちになる。


 ほんの一か月前まで、俺たちは放課後に一緒に帰るような関係じゃなかったはずなのに。


 舞夜が足を止める。


 俺も、それに合わせて立ち止まった。


「それじゃあ、また明日」


 俺がそう言うと、舞夜は小さくうなずいた。


「はい。また明日です、南くん」


 そう言って微笑む彼女の表情は、いつもより少しだけ柔らかかった。


 けれど、その笑顔を見ていると、さっきの言葉が頭をよぎる。


 ――何も聞かないでいてくれて、ありがとうございます。


 結局、あれはどういう意味だったんだろうか。


 聞きたいことなら、いくらでもあった。


 どうして、あの日、突然「私に恋をしてください」と言ったのか。


 どうして、そこまでして俺を好きにさせようとしているのか。


 どうして時々、今みたいな悲しそうな顔をするのか。


 けれど、俺は何も聞かなかった。


 いや、聞けなかったのかもしれない。


 もし聞いてしまえば、今のこの関係が壊れてしまう気がしたから。


「南くん?」


 気づけば、舞夜が不思議そうな顔でこちらを見ていた。


「あ、いや、何でもない」


「そうですか」


 舞夜は小さく笑い、それから夕暮れの空を見上げた。


 オレンジ色に染まっていた空は、少しずつ夜の色へと変わり始めている。


「それでは、本当にまた明日」


「ああ。また明日」


 舞夜は軽く頭を下げると、自分の家の方向へ歩き始めた。


 俺は、その後ろ姿をぼんやりと見送る。


 長い黒髪が風に揺れ、やがて彼女の姿は住宅街の向こうへ消えていった。


 ――私に恋をしてください。


 初めて聞いたときは、冗談だと思った。


 いや、今でも半分くらいは現実味がない。


 それでも、文化祭を終えた今、ひとつだけはっきりしていることがあった。


 八神舞夜のことを知れば知るほど、わからないことが増えていく。


 一つの答えを見つけるたびに、二つ、三つと新しい疑問が生まれる。


 それなのに――。


 なぜだろう。


 俺はもう、その謎から離れたいとは思わなくなっていた。

 その日の夜。


 八神家の二階にある舞夜の部屋には、小さなデスクライトの明かりだけが灯っていた。


 窓の外では、雨が静かに降り続いている。


 規則正しくガラスを叩く雨音だけが、静まり返った部屋の中に響いていた。


 机の上には、一枚の紙が置かれている。


 何も書かれていない、真っ白な紙だった。


 その前に座った舞夜は、指先でペンを握ったまま、じっと紙を見つめていた。


 けれど、ペン先が動くことはない。


 まるで、言葉が勝手に現れるのを待っているかのようだった。


「……また、書けないのか?」


 不意に、部屋の入り口から優しい声が聞こえた。


 舞夜が顔を上げる。


「お父さん……」


 久那は、いつもの穏やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと部屋の中へ入ってきた。


 そして、湯気の立つ紅茶を机の上に置く。


「まだ起きていると思ってね」


「ありがとうございます」


 舞夜は小さく頭を下げた。


 久那は机の上の白紙に目を向ける。


「新しい物語かい?」


 舞夜は、ゆっくりとうなずいた。


「誰かが読んで、幸せになれるような物語を書きたいんです」


 その言葉を聞き、久那は優しく微笑んだ。


「舞夜なら、きっといつか書けるさ」


「……そうだといいんですけど」


 舞夜は視線を落とし、紅茶のカップを両手で包み込んだ。


 部屋の中に、再び静寂が訪れる。


 やがて、久那は静かな声で言った。


「一人で全部背負い込むなよ」


 舞夜の指先が、わずかに強くカップを握る。


「努力はしています」


「いや、していない」


 久那は悲しそうに笑った。


「お前はいつも、『努力している』って言う。でも、結局は何でも一人で抱え込んでしまうんだ」


 舞夜は何も答えなかった。


 答えられなかった。


 父の言葉が、間違っていないことを知っていたからだ。


 久那はドアの前まで歩き、そこで足を止めた。


「何があっても、自分が誰なのかだけは忘れないでくれ」


 そう言い残し、静かに部屋を出ていく。


 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


 舞夜はしばらく動かなかった。


 やがて、机の一番下の引き出しをゆっくりと開ける。


 中には、小さな木箱が入っていた。


 慎重に蓋を開ける。


 その中には、何冊もの手書きの原稿が収められていた。


 どの表紙にも、同じ名前が書かれ、そして黒く線で消されている。


 そして、どの物語も、まったく同じページで終わっていた。


 まるで、最後だけがどうしても書けなかったかのように。


 舞夜は、一冊のノートをそっと撫でる。


 そして、誰にも聞こえないほど小さな声でつぶやいた。


「今度こそ……」


「今度こそ、違う結末にしないと」


 その瞬間、机の上のスマートフォンが震えた。


 画面には、短い文章が表示されている。


『自分の目的を忘れるな』


 差出人の名前は表示されていなかった。


 舞夜は目を閉じ、深く息を吐く。


 そして、返信画面を開き、短く文字を打ち込んだ。


『わかっています』


 だが――。


 送信ボタンを押すことはできなかった。


 指先は、そのまま止まっていた。


 文化祭の日々が脳裏をよぎる。


 帰り道の夕焼け。


 何気ない会話。


 そして、南大樹の笑顔。


 気づけば、舞夜も小さく笑っていた。


 本当に、一瞬だけ。


 次の瞬間には、その笑みは消えていた。


 舞夜は静かにスマートフォンの画面を閉じる。


 そして、窓辺へと歩み寄った。


 雨は、今も変わらず降り続いている。


「南くん……」


 窓の向こうを見つめながら、舞夜はつぶやいた。


「あなたが全部を知ったとき……」


「それでも、笑っていてくれたらいいのに」


 雨音だけが、静かな部屋を満たしていた。


 そして――。


 生まれて初めて。


 八神舞夜は、心の底から願っていた。


 どうか、この計画が失敗しますように、と。

第三十二話『嘘の向こう側』を読んでいただき、ありがとうございました。


文化祭が終わり、学校は再び穏やかな日常を取り戻しました。


しかし、大樹と舞夜の関係は、少しずつ確かに変わり始めています。


距離は縮まり、互いを知っていく一方で、新たな疑問も生まれていきます。


舞夜が隠している秘密。


彼女が背負う「計画」。


そして、その先に待つ真実とは何なのか。


まだ誰も、その答えを知りません。


それでも、二人の日常は続いていきます。


次の物語では、新しい季節とともに、二人の関係もまた新たな一歩を踏み出していくでしょう。


それでは、第三十三話でお会いしましょう。

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