自分の意思で選ぶこと
最後の授業が終わった。
その日、僕は初めて、時計を確認したいという気持ちにならなかった。
舞夜が待っていてくれると分かっていたからだ。
一緒に帰る約束をしている。だから、彼女を待たせるつもりはなかった。
教科書をしまい、鞄を肩に掛けて教室を出る。
「大樹!」
声をかけられて足を止めると、結衣が廊下を走ってきた。
その後ろから松も歩いてきたが、こちらは結衣とは対照的に、ずいぶんとのんびりしている。
「どうしたの?」
結衣は僕の前に立ち、真剣な顔を作った。
「大事な質問があるの」
「その言い方で、いいことがあった試しがないんだけど」
「舞夜と一緒に帰るの?」
「うん。前から約束してたから」
結衣は顎に手を当て、考え込むふりをした。
「なるほどね。じゃあ、もし私たちが放課後に何か食べに行こうって誘ったら、断る?」
「時間によるかな」
「じゃあ、今からなら?」
「今日は無理だよ」
結衣は勝ち誇った顔で松を振り返った。
「ほら、やっぱり!」
「何が?」
「最近、私たちの友情が舞夜に負けてるってこと!」
「そんなこと言ってないだろ」
「でも、今、私たちの誘いを断ったじゃない!」
松が僕の肩をぽんと叩いた。
「気にするな。俺たちは潔く受け入れるさ」
「お前はずいぶん満足そうだな」
「だって、こうやってからかい続けてれば、いつか結婚式に招待してもらえるかもしれないだろ?」
僕は思わず唾を飲み込み、むせそうになった。
「け、結婚式!?」
結衣が大げさに目を見開いた。
「松! まだそこまで話を進めちゃ駄目でしょ!」
「どうしてだよ。未来のことを考えてるだけだろ?」
「二人とも、勝手なことばっかり言うな!」
二人は顔を見合わせて笑い出した。
これ以上話がひどくなる前に、僕はその場を離れた。
けれど、歩きながらも松の言葉が頭から離れなかった。
結婚式。
そんなことを考えるには、まだ早すぎる。
そもそも、僕はまだ舞夜に告白すらしていないのだ。
それなのに、彼女と一緒にいる未来を想像すること自体は、数か月前に思っていたほど不自然ではなくなっていた。
それが、少し怖かった。
そして同時に、どうしようもなく嬉しかった。
昇降口の近くまで行くと、舞夜が僕を待っていた。
僕を見つけると、彼女は笑顔で近づいてくる。
「ちょうどいいタイミングだね」
「今日は誰にも引き止められなかったからね」
「誰にも?」
「結衣と松が邪魔しようとしてきたんだ」
舞夜は小さく吹き出した。
「何となく想像できるよ」
二人で学校を出た。
空はよく晴れていて、心地よい風が街を吹き抜けていた。
駅へ向かって歩きながら、今週中に終わらせなければならない課題の話や、思い出リストに追加したいことについて話した。
それでも、僕の頭の片隅には、昼休みに交わした会話が残っていた。
舞夜が僕にした質問。
そして、僕がようやく答えられたこと。
僕は、舞夜だからそばにいたい。
彼女に頼まれたからでもない。
約束を守らなければならないと思っているからでもない。
これから先の日々を想像するとき、一緒に過ごしたいと思う相手が彼女なのだ。
「大樹くん」
顔を上げる。
「うん?」
「何だか静かだね」
「そうかな?」
「うん。いつもなら、クラスであったこととか話してくれるのに」
「今日は特に面白いことがなかったから」
舞夜は僕を見つめ、微笑んだ。
「じゃあ、何を考えてるの?」
思わず、何でもないと答えそうになった。
それが一番簡単な返事だった。
そう言えば、余計なことを話さずに歩き続けられる。
けれど、ふと思い出した。
もう、曖昧な返事で自分の気持ちを隠し続けたくない。
「……昼休みに話したことだよ」
舞夜の歩く速度が、ほんの少しだけ緩んだ。
「未来の話?」
「うん」
彼女は数秒、黙っていた。
「私が聞いたこと、気になっちゃった?」
「そういうわけじゃないよ」
僕は言葉を探した。
「ただ、今までとは違う考え方をするようになったんだ」
「どんなこと?」
僕は前を向いたまま答えた。
「少し前までは、舞夜と一緒に過ごすために、いつも何かしら理由があったんだ。修学旅行とか、文化祭とか、休みの日のお出かけとか。何か一緒にできることがあった」
小さく笑う。
「でも、今は特別な予定がなくても、舞夜に会いたいと思うんだ」
舞夜は何も言わなかった。
僕は、勇気がなくなる前に続けた。
「例えば、一日中、特に面白いことが起きなかったとしてもいい。退屈な話をしたり、いつもと同じ道を歩いたり、二人だけの場所で何も話さずに座っていたり」
僕は彼女のほうを向いた。
「それでも、きっと僕は幸せだと思う」
舞夜が足を止めた。
僕も立ち止まる。
数秒間、僕たちは互いの顔を見つめていた。
「……大樹くん」
いつもより柔らかな声だった。
「どうして急に、そんなことを言うの?」
うまく答えられなかった。
だって、別に新しいことを言ったつもりはなかったから。
ただ、ずっと心の中で育っていた気持ちを、隠さずに伝えようとしているだけだ。
「……知っておいてほしかったんだ」
舞夜は視線を落とした。
胸元のペンダントに、そっと指先を触れる。
「そういうことを言ってくれると、すごく嬉しいよ」
僕の心臓が、また速くなった。
舞夜は顔を上げる。
「でも、ちょっと緊張する」
「舞夜も?」
「もちろん!」
彼女は照れくさそうに笑った。
「大樹くんだけが緊張してると思ったの?」
思わず、僕も笑ってしまった。
「だって、舞夜はいつも自信がありそうだから」
「そう見えるように頑張ってるだけだよ」
舞夜は鞄の肩紐をそっと握った。
「最初に大樹くんを好きにさせようって決めたときは、ただ近づいていけばいいと思ってたの」
少し間を置いてから、続ける。
「でも、自分がこんなに怖くなる日が来るなんて、思わなかった」
「怖いって、何が?」
舞夜の紫色の瞳が、まっすぐに僕を見つめた。
「今の私たちの関係が、私にとってすごく大切なものになっちゃったこと。もし、いつか何かが変わったら、どうしたらいいんだろうって思うの」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
彼女の言葉が嫌だったわけじゃない。
むしろ、言いたいことが痛いほど分かったからだ。
僕だって怖い。
うまく言葉を選べなかったらどうしよう。
舞夜を困らせてしまったらどうしよう。
告白しても、自分の気持ちをすべて伝えきれなかったらどうしよう。
そんなことばかり考えてしまう。
けれど、少しずつ分かり始めていた。
すべてが永遠に変わらないと約束することはできない。
僕にできるのは、自分の気持ちをどうしたいのか、自分で選ぶことだけだ。
そして、それなら僕にもできる。
僕は舞夜に少し近づいた。
「何も変わらないって約束することはできないよ」
舞夜はゆっくりとうなずいた。
「うん。分かってる」
「でも、何かが変わったからって、それだけで舞夜から離れたいとは思わない」
舞夜が目を見開く。
「大樹くん……」
「これからも、舞夜のことをもっと知りたいんだ。何をすると嬉しいのか、何を心配してるのか、将来どんなことをしたいのか」
僕は彼女の手を優しく握った。
「それに、舞夜にも僕のことをもっと知ってほしい。自分でも、まだうまく説明できないような部分も含めて」
舞夜は、しばらく僕を見つめていた。
やがて、少しだけ震えるような、温かい笑顔を浮かべた。
「……それが、私の一番望んでることだよ」
彼女の指が、僕の指に絡む。
「今すぐ、全部の答えを持ってなくてもいいの」
舞夜は少し声を落とした。
「ただ、これからも私に正直でいてほしい」
僕はうなずいた。
「そうするよ」
「ううん」
舞夜は優しく首を振った。
「そうしてほしいの」
僕は驚いて彼女を見た。
すると、舞夜はいたずらっぽく笑った。
「それと、これからも一緒に帰ろうって誘ってね」
思わず吹き出してしまった。
「それなら、いくらでもできるよ」
「よかった。私も、いくらでも誘いに乗るから」
僕たちは再び歩き始めた。
今度は、しばらくどちらも話さなかった。
けれど、気まずさはなかった。
舞夜は僕の手を握ったままで、ときどき歩調がそろうたびに肩が触れ合った。
不思議と、心が落ち着いていた。
悩みがすべて解決したわけではない。
それでも、初めて自分の考えを取り繕わずに話せた気がした。
そして、これもまた大切な一歩なのだと思った。
一日で完璧な告白を用意する必要はない。
でも、今から少しずつ、本当の気持ちを伝えることはできる。
一つずつ。
少しずつ。
いつか、心の奥にしまっているすべてを言葉にできる日まで。
駅に着くと、入口の前で足を止めた。
舞夜は、まだ僕の手を離していなかった。
「大樹くん」
「うん?」
「今日は、いい一日だったね」
僕は微笑んだ。
「特別なことは何もしてないのに?」
舞夜は楽しそうな顔をした。
「だからだよ」
そして、少しだけ僕に近づく。
「何でもない日に、大樹くんと一緒にいられるのが好きなの」
胸の奥に、温かなものが広がった。
「……僕もだよ」
舞夜はようやく手を離した。
それでも、別れる直前まで指先がかすかに触れ合っていた。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
彼女は駅の入口へ向かって歩き出した。
けれど、途中で一度振り返った。
「大樹くん!」
「どうしたの?」
「思い出リストのこと、忘れないでね!」
僕は笑った。
「忘れないよ!」
「本当かなあ?」
「本当だって!」
「じゃあ、よろしくね!」
そう言って、舞夜は人の流れの中へ消えていった。
僕はしばらくその姿を見つめてから、ようやく自分のホームへ向かった。
歩きながら、ここ数日の出来事を思い返す。
結衣との会話。
松にからかわれたこと。
二人で撮った写真。
思い出リスト。
舞夜が未来について尋ねてきたこと。
そして、帰り道で僕が口にした言葉。
僕は少しずつ、以前なら説明できなかったことを理解し始めていた。
舞夜を好きになるというのは、彼女と一緒にいるための特別な理由を見つけることではない。
毎日を、忘れられない出来事に変えることでもない。
何でもない一日の中でも、彼女と一緒にいることを選びたいと思うことなのだ。
休み時間になれば、彼女に会いに行きたい。
放課後になれば、隣を歩きたい。
彼女の話を聞いて、自分の悩みも話して、これからどんな人間になっていくのかを一緒に見つけていきたい。
そして、それは舞夜が僕に恋をしてほしいと言ったからではない。
今はもう、僕自身がそうしたいと思っている。
あの日、バレンタインに舞夜が口にした言葉を思い出す。
『私に恋をしてもらわなくちゃ』
あの言葉は、彼女にとって挑戦であり、約束であり、僕との距離を縮めるためのきっかけだった。
けれど、僕の答えは、少しずつ違う形になり始めていた。
舞夜に言われたから好きになるんじゃない。
僕が自分で選んで、これからも舞夜を好きでいたいんだ。
たくさんの人と出会い、一緒に時間を過ごすことができる中で、それでも毎日会いたいと思う相手は、舞夜だった。
まだ、その言葉を本人に伝えたわけではない。
それでも初めて、もう自分の気持ちから逃げなくてもいいのだと思えた。
いつ告白することになるのかは、まだ分からない。
けれど、そのときは、ただ約束を守るために言うのではない。
自分の気持ちから生まれた、新しい約束を伝えたい。
自分の選択で守っていける約束を。
そして、その約束が、僕たちの高校最後の一年が終わったあとも、二人で思い出を作り続けるきっかけになってくれたらいい。
今なら、分かる気がする。
舞夜を未来に思い描くだけで、これからの日々が少しだけ素敵なものに感じられる。
だからこそ、もう否定したくなかった。
僕は、自分の意思で舞夜の隣を選びたい。
今回も読んでくださって、ありがとうございます!
大樹は少しずつ、自分の気持ちを言葉にできるようになってきました。
二人の何気ない日常が、これからどんな未来へつながっていくのか。
引き続き、見守っていただけたら嬉しいです。
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