もし、そばにいてほしいと言ったら
翌朝、僕は目覚ましが鳴る数分前に目を覚ました。
こんなことは珍しい。
まだ起きるには早い時間なのに、どうしてこんなに目が覚めているんだろう。
天井を見つめながら考えているうちに、前日の会話を思い出した。
舞夜は、僕が一緒に帰ろうと誘ったとき、嬉しそうに笑ってくれた。
そして、そのあとに言ったのだ。
僕が誘ってくれるのを待っていた、と。
ただ、それだけの言葉だった。
なのに、一晩中、頭から離れなかった。
「……もう駄目だ、僕」
枕に顔を埋める。
このままじゃ、身が持たない。
舞夜が少し優しいことを言ってくれるたびに、僕は何時間もその言葉を思い返してしまう。
そして、自分から素直な気持ちを伝えられたときには、まるで難しい試験に合格したかのように、何度もその場面を思い返してしまうのだ。
これを松に知られたら、一週間はからかわれ続けるだろう。
……いや、結衣ならもっとひどい。
きっと僕が告白する前に、勝手にお祝いの会を開いてしまうに違いない。
僕は頭を振った。
まずは起きる。
それから朝ご飯を食べて、学校へ行く。
朝の八時前から、自分の恋愛事情をすべて解決しようとする必要はない。
少なくとも、そう自分に言い聞かせた。
学校に着くと、舞夜はすでに来ていた。
昇降口の近くで、秋山里奈と話している。
濃い紫色の髪は片側にまとめられ、ホワイトデーに僕が贈ったペンダントが胸元で揺れていた。
僕に気づいた舞夜が、片手を上げる。
「大樹!」
二人のところへ近づいた。
「おはよう」
「おはよう、大樹くん」
里奈が僕と舞夜を交互に見た。
「……私、お邪魔だった?」
「そんなことないよ」
「そんなことないよ」
舞夜と僕の声が、ぴったり重なった。
里奈はにっこりと笑った。
「なるほどね」
「何が?」
僕が尋ねると、里奈は首を振った。
「何でもないよ。じゃあ、私は教室に行くね」
舞夜に手を振り、里奈は廊下の向こうへ歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、僕は首を傾げた。
「僕、何か変なこと言ったかな?」
舞夜は小さく首を振る。
「ううん。ただ、里奈は私たちのことが気になるみたい」
「僕たちのこと?」
思わず聞き返してしまった。
舞夜はくすくすと笑った。
「大樹くん、私の言ったことをいちいち繰り返さなくてもいいんだよ?」
「繰り返してなんか……!」
「今、繰り返したよ?」
反論できなかった。
舞夜は笑顔のまま、階段へ向かって歩き始めた。
「ほら、行こ。遅れたら、次の休み時間まで大樹くんに会えなくなっちゃう」
「それは困るね」
自然と、そんな言葉が口から出た。
舞夜が嬉しそうに振り返る。
「でしょ?」
僕たちは並んで歩いた。
そして、別々の教室へ向かうために離れなければならない場所が近づくにつれ、僕は気づいた。
舞夜もまた、僕たちが会える時間を大切にしているのだ。
一瞬でも長く一緒にいたいと思っているのは、僕だけじゃない。
そう思うと、言葉にできないほど嬉しかった。
昼休み前の休み時間は、思っていたよりも早くやってきた。
メッセージを送ってから、僕は二人だけの秘密の場所へ向かった。
舞夜はベンチに座り、膝の上に思い出リストのノートを広げていた。
「またリストを作ってるの?」
僕が隣に座ると、舞夜は顔を上げた。
「うん。いくつか追加しようと思って」
「どんなこと?」
舞夜はノートを開き、新しいページを見せてくれた。
そこには、いくつものアイデアが書かれていた。
まだ行ったことのないカフェに行く。
桜が散ってしまう前に、桜の木の下で写真を撮る。
時計を気にせず、一日ゆっくり過ごす。
そして、一番下には、ほかの文字より少し小さな字で、こんな言葉が書かれていた。
『何年経っても、二人で思い出せるものを見つける』
僕はその一文を二度読み返した。
「いいね、それ」
「でしょ?」
舞夜はノートを膝の上に戻した。
「高校最後の一年を、テストと課題だけで終わらせたくないんだ。卒業したあとに振り返ったとき、二人でいろんなことをしたねって笑えるようにしたいの」
「僕もそう思う」
「もちろん、勉強をおろそかにするつもりはないけどね」
「それは困るからね」
「だから、ちゃんと計画を立てなきゃ」
僕は笑いながら彼女を見た。
「もう一年分の予定を考えてるの?」
舞夜は少し考え込んだ。
「……ちょっとだけ?」
「ちょっとだけ?」
「うん。かなり」
二人で笑い合った。
そのあと、舞夜はノートを閉じ、庭を囲む木々を見つめた。
「ねえ、大樹くん。もう一つ聞いてもいい?」
「もちろん」
「もし、私たちが毎日会えなくなったら、どうなるんだろうって考えたことある?」
予想していなかった質問に、僕は少し驚いた。
「毎日会えなくなる?」
「例えば、卒業したあと。違う大学に進んだり、生活の時間が合わなくなったり、遠くに住むことになったりするかもしれないでしょ?」
舞夜は穏やかな口調で話していた。
けれど、その表情には、いつもと少し違うものが感じられた。
僕は真剣に考えてから答えた。
「……うん。考えたことはあるよ」
舞夜が視線を落とした。
「私も」
短い沈黙が流れた。
「きっと、変な感じがすると思う」
僕は言った。
「学校に行けば舞夜に会えるのが、当たり前になってるから」
「私も、大樹くんを探すのが当たり前になっちゃった」
舞夜は小さく笑った。
「でも、未来がどうなるかなんて、今は分からないよね」
「そうだね」
舞夜はしばらく黙っていた。
それから、再び僕のほうを向いた。
「……もし、いつか私が大樹くんに、そばにいてほしいってお願いしたら?」
心臓が、一瞬止まったような気がした。
「……え?」
「その場にいてほしいって意味じゃないよ」
舞夜は少し慌てたように付け加えた。
頬が、ほんのり赤くなっている。
「例えば、いつか私たちの進む道が別々になりそうになったとき……それでも私が、これからもそばにいてほしいって言ったら、大樹くんはどうする?」
僕はすぐには答えられなかった。
簡単な質問のようでいて、胸の奥にある、もっと深い部分を揺さぶられた気がした。
初めて舞夜と話した日のことを思い出す。
僕がどう思っているのか分からないまま、それでも一生懸命に近づこうとしていた彼女。
修学旅行。
文化祭。
クリスマスとお正月。
僕が逃げられないようにと、舞夜が手を握ってくれたあの日。
そして、今も彼女の胸元で輝いているペンダント。
もう少しだけそばにいたいと、僕が何度も願ってきた時間。
もし舞夜に、そばにいてほしいと言われたら。
答えは、すぐに浮かんでいた。
けれど、それを口にすることは、また別の問題だった。
「僕は……」
そこで言葉が途切れた。
舞夜は急かすことなく、僕の答えを待っていた。
僕は深く息を吸った。
「たぶん、お願いされなくても、そうすると思う」
舞夜の目が、わずかに見開かれた。
「……どういうこと?」
僕は膝の上で両手を握った。
「舞夜のそばにいたいと思うなら、そうするのは僕自身がそうしたいからだよ。舞夜に頼まれたからじゃなくて」
舞夜は黙って僕を見つめていた。
「卒業したあと、どこで何をしているのかは分からない。今と同じように会えるかどうかも分からないし、変わることだってたくさんあると思う」
僕は彼女の目を見つめ返した。
「でも、舞夜と一緒に過ごせる方法があるなら、僕はそれを見つけたい。だから、僕にそばにいてほしいってお願いしなきゃいけないなんて、思わないでほしいんだ」
そのあとに訪れた沈黙は、今までとは少し違っていた。
舞夜はうつむいた。
濃い紫色の髪が、その表情を半分ほど隠している。
「……それ、ちょっとずるいよ、大樹くん」
僕は戸惑った。
「ずるい? どうして?」
舞夜は小さく笑った。
「そんなことを言っておいて、自分が何を言ったのか分かってないみたいな顔をするんだもん」
「何がいけないの?」
舞夜が顔を上げた。
紫色の瞳が、朝の光を受けてきらきらと輝いている。
「……もっと好きになっちゃうから」
僕は身動きが取れなくなった。
胸の奥で、心臓が激しく音を立てている。
舞夜は少し照れくさそうに微笑み、僕の手を取った。
「最初はね、大樹くんに私のことを好きになってもらいたかったの」
つないだ手に視線を落とす。
「もっと近づいて、二人でたくさん思い出を作れば、いつかきっと好きになってくれるって思ってた」
舞夜の声が、少しだけ柔らかくなった。
「でも、今は……大樹くんが自分の意思で私のそばにいたいって言ってくれることが、すごく嬉しいんだ」
僕は何も答えられなかった。
本当は、僕も伝えたいことがあった。
もう、舞夜が頑張って僕を振り向かせようとしなくてもいいのだと。
一緒にいるための口実を考えなくてもいいのだと。
特別な予定を立てたり、僕に近づく理由を探したりしなくてもいいのだと。
僕自身が、彼女のそばにいたいと思っているのだから。
会いたい。
声を聞きたい。
一緒に帰りたい。
高校を卒業したあとも、たくさんの思い出を作り続けたい。
そして、そう思うのは、誰かにそうしてほしいと頼まれたからではない。
僕自身の気持ちが、そう願っているからだ。
けれど、そのことを心の中で理解するのと、正しい言葉にして伝えることの間には、まだ少し距離があった。
舞夜が、僕の手を優しく握った。
「もう、これ以上答えなくてもいいよ」
僕は彼女を見た。
「でも……」
「大丈夫だよ、大樹くん」
舞夜は微笑んだ。
「もうちょっとだけ、待てるから」
その言葉に、僕は安堵と決意の両方を感じた。
いつまでも待たせたくない。
黙っているせいで、僕の気持ちが伝わっていないと思わせたくもない。
ちゃんと答えたい。
もう、迷いようのない答えを。
そのためには、あと少しだけ勇気が必要だった。
やがて、予鈴が鳴った。
舞夜はノートを鞄にしまい、立ち上がった。
僕も立ち上がったけれど、つないだ手は、すぐには離れなかった。
「戻らなきゃね」
舞夜が言った。
「うん」
二人で校舎へ向かって歩き始める。
そして、別々の教室へ向かうために離れる直前、舞夜が背伸びをして、僕の耳元に顔を近づけた。
「そういえば、大樹くん」
「何?」
舞夜は少しだけ間を置いた。
「いつか私が、本当にそばにいてほしいってお願いしたら……」
そこで一度、言葉を切る。
「今みたいに答えてくれると嬉しいな」
そう言い残して、舞夜は僕が返事をする前に離れていった。
彼女が教室へ入っていくのを見送りながら、僕は廊下に立ち尽くしていた。
それから、胸に手を当てる。
心臓は、まだ速く鼓動していた。
そして僕は、初めて気づいた。
舞夜が僕に尋ねたことは、未来の話だけではなかったのだ。
今、この瞬間に何を選びたいのか。
何を認める覚悟があるのか。
学校の廊下も、休み時間も、二人だけの秘密の場所もなくなったあと、それでも誰と一緒に人生を歩いていきたいのか。
舞夜の質問は、そんなことまで僕に考えさせた。
もし、そばにいてほしいと言われたら、どうするのか。
僕は、もう答えを知っている。
舞夜に頼まれたから、そばにいるんじゃない。
舞夜だから、そばにいたいんだ。
その違いがはっきりと分かるほど、僕はずっと胸の奥にしまっていた言葉を、彼女に伝えられる日へと近づいていた。
今回も読んでくださって、ありがとうございます!
舞夜の問いかけによって、大樹の気持ちはさらに確かなものになってきました。
二人がそれぞれの未来を思い描くとき、その隣には誰がいるのでしょうか。
これからも二人の物語を見守っていただけたら嬉しいです。
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次回もよろしくお願いします!




