小さな距離
翌朝、僕はいつもより数分早く学校に到着した。
三年生になって、舞夜が同じ教室にいないことを意識しているからだろうか。
それとも、新しい生活のリズムに、まだ慣れていないからだろうか。
自分でもよく分からなかった。
教室に入ると、結衣はすでに自分の席に座っていた。
「おはよう、大樹」
「おはよう」
「ちゃんと眠れた?」
「うん。普通にね」
結衣は僕の顔をじっと見つめた。
「……さっきから廊下のほうを見てない?」
「見てないよ」
「見てたじゃん」
「ちょっと考え事をしてただけ」
「舞夜のこと?」
「……」
結衣は満足そうに笑った。
「やっぱり舞夜のことじゃん」
「何でそんなに楽しそうなんだよ……」
「だって、前はもっと簡単にからかえたんだもん」
近くの席にいた松が、会話に割り込んできた。
「いや、今でも十分からかいやすいぞ」
「お前は黙ってろ」
「ひどいな。せっかく応援してやってるのに」
「どこが応援なんだよ!」
結衣が吹き出し、松も笑い始めた。
僕もつられて笑った。
けれど、しばらくすると、また視線が教室のドアへ向かっていた。
もちろん、舞夜がここに来るとは思っていない。
彼女は今、別の教室にいる。
そんなことは、ちゃんと分かっている。
それでも、彼女が教室に入ってくる姿を、どこかで当たり前のように待ってしまう自分がいた。
そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
こっそり取り出して画面を見る。
舞夜からだった。
『おはよう、大樹くん。もう教室にいる?』
思わず笑みがこぼれる。
僕はすぐに返信した。
『うん。舞夜ももう教室にいる?』
返事はすぐに届いた。
『うん。凛奈ちゃんも一緒だよ』
そのあと、もう一通。
『同じ教室じゃないのって、やっぱり変な感じだね』
僕は画面を見つめた。
少し考えてから、文字を打つ。
『僕も同じことを思ってたよ』
数秒後、またメッセージが届いた。
『でも、休み時間には会えるよね』
『放課後もね』
『じゃあ、そんなに遠くないね』
僕は微笑んだ。
そして、最後に返信した。
『最初から、そんなに遠くなかったよ』
送信したあと、自分の言葉を見つめる。
……ちょっと、ロマンチックすぎただろうか。
そう思ったけれど、嘘ではなかった。
教室が別々になったからといって、これまで二人で積み重ねてきたものが変わるわけじゃない。
僕たちの教室の間にある距離なんて、この一年で築いてきた関係に比べれば、たいしたものではなかった。
僕はスマートフォンをしまった。
「今の、舞夜?」
結衣がすかさず尋ねてくる。
「うん」
「何て言ってたの?」
「同じ教室じゃないのが、変な感じだって」
結衣は優しく微笑んだ。
「じゃあ、二人とも同じことを考えてるんだね」
「みたいだね」
「それって、いいことだと思うよ」
「どうして?」
結衣は肩をすくめた。
「だって、二人とも離れたくないってことでしょ?」
僕は何も言えなかった。
……確かに、その通りだった。
◇
休み時間になると、僕は再び廊下へ出た。
今回は飲み物を買っていない。
ただ、舞夜に会いたかった。
それだけだった。
彼女の教室に着くと、舞夜は凛奈と話していた。
僕の姿を見つけた瞬間、彼女は嬉しそうに笑った。
「大樹くん」
「やあ」
「また来てくれたんだね」
「うん」
「ここまで歩くの、面倒じゃない?」
「全然」
「本当に?」
「本当だよ」
僕が即答すると、舞夜は楽しそうに笑った。
「じゃあ、これからは大樹くんが教室に来てくれるのにも、慣れないとね」
「そうしてくれると助かるよ」
すると、凛奈が横から口を挟んだ。
「もう、慣れ始めてると思うけど?」
「凛奈ちゃん……」
「え、何?」
「……何でもない」
凛奈はにやりと笑い、僕たちから少し離れた。
……絶対に、あとで何か言うつもりだ。
そんな気がした。
舞夜が僕のほうへ近づいてくる。
「今日の調子はどう?」
「普通だよ」
「授業は?」
「それも普通」
「結衣ちゃんは?」
「相変わらず僕をからかってる」
「ふふっ。じゃあ、いつも通りだね」
「そういうこと」
僕たちは顔を見合わせて笑った。
それから、舞夜が自分の首元に目を落とした。
「今日も、ちゃんとつけてきたよ」
そこには、星と花のペンダントがあった。
「気づいてたよ」
「本当?」
「うん」
舞夜はペンダントを指先でそっと持ち上げた。
「これをつけるの、習慣にしたいんだ」
「どうして?」
舞夜は顔を上げ、僕の目を見つめた。
「だって、これを見ると、クラスが別々でも大丈夫だって思えるから」
「……ペンダントを見ると?」
「うん」
彼女は小さな星にそっと触れた。
「変わらないものもあるんだって、思い出せるの」
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
「舞夜……」
「なあに?」
「ありがとう」
舞夜は少し驚いたあと、柔らかく微笑んだ。
「お礼なんていらないよ」
そう言って、彼女はペンダントを胸元に戻した。
「私は、自分が嬉しいからそうしてるだけだもん」
その言葉が、心に残った。
舞夜は僕に何かを証明しようとしているわけじゃない。
ただ、自分にとって大切なものを、大切にしているだけなのだ。
そして、その中に僕との思い出がある。
……それが、何よりも嬉しかった。
そのとき、次の授業を知らせるチャイムが鳴った。
舞夜が残念そうに息を吐く。
「また離れ離れだね」
「次の休み時間までだけどね」
「そうだった」
彼女は小さく笑った。
「大樹くん」
「ん?」
教室へ戻る前に、舞夜が僕を呼び止めた。
「いなくならないでね?」
僕は微笑んだ。
「いなくなるつもりなんてないよ」
舞夜も安心したように笑った。
「……よかった」
それから、僕たちはそれぞれの教室へ戻った。
廊下を歩きながら、僕は考えていた。
もしかしたら、この小さな距離が、僕たちに教えてくれることもあるのかもしれない。
今までは、同じ教室にいるのが当たり前だった。
顔を見たければ、少し視線を動かせばよかった。
話したくなれば、いつでも声をかけられた。
けれど、これからは違う。
会いたいなら、自分から会いに行かなければならない。
相手が何をしているのか、すぐには分からないこともあるだろう。
それでも、会いたいと思う。
だからこそ、会いに行く。
今までのように、同じ教室にいるから一緒にいるのではなく。
一緒にいたいから、自分たちで会う時間を作っていく。
……そう考えると。
これからの休み時間も、放課後も、今までとは少し違った意味を持つのかもしれない。
ほんの少しの距離。
でも、その距離を越えて会いに行くことには、きっと意味がある。
僕はそう思いながら、自分の教室へと戻っていった。
第309話を読んでくださって、ありがとうございます!
別々のクラスになっても、会いたい気持ちは変わらない大樹と舞夜。
だからこそ、自分から会いに行くことが、以前よりも特別になっていくのかもしれません。
二人が少しずつ築いていく新しい日常を、これからも見守っていただけたら嬉しいです!
次回もよろしくお願いします!




