君が知らない君
昼食の時間は、それ以上大きな騒ぎもなく終わった。
けれど、喫茶店の忙しさは少しも変わらない。
教室の中は再び満席になり、生徒たちは慌ただしく走り回っていた。
楽しそうな話し声。
カップが触れ合う音。
あちこちから聞こえる笑い声。
文化祭独特の賑やかな空気が、教室全体を包んでいる。
それなのに――。
俺は、どうしても八神たちの席から目を離せなかった。
舞夜は、もういつもの調子を取り戻していた。
客に笑顔を向け、丁寧に注文を取り、何事もなかったかのように働いている。
さっきまでの緊張した様子が嘘だったかのようだった。
でも、今の俺には分かる。
あの落ち着いた表情の裏で、どれだけ気を張っていたのか。
どれだけ無理をしていたのか。
きっと、俺が想像している以上なのだろう。
そんなことを考えていると、ようやく八神家のテーブルの会計が終わった。
俺は伝票を手に取り、二人のもとへ向かう。
「こちら、お会計になります」
「ありがとう」
久那さんは穏やかに笑いながら伝票を受け取った。
金額を確認することもなく、そのまま財布を取り出す。
会計を済ませたあと、ふと俺のほうを見上げた。
「南くん」
「はい?」
「少し、時間をもらえるかな?」
……え?
思わず瞬きをする。
「俺ですか?」
「ああ」
反射的に舞夜のほうを見る。
舞夜も、驚いたように目を丸くしていた。
その隣では、千代子さんまでもが、不思議そうに夫へ視線を向けている。
「えっと……分かりました」
戸惑いながらも、俺はそう答えるしかなかった。
俺と久那さんは、教室を出て廊下へ向かった。
文化祭の賑わいは、外へ出ても変わらない。
遠くから聞こえる子供たちの笑い声。
吹奏楽部の演奏。
校内放送のアナウンス。
祭りの空気が、校舎全体を包んでいた。
久那さんは廊下の手すりに軽く手を置くと、そのまま中庭を眺めた。
俺も何となく隣に立つ。
けれど、何を話せばいいのか分からなかった。
しばらく、沈黙が続く。
やがて、久那さんは小さく息を吐き、穏やかに笑った。
「ありがとう」
突然の言葉に、俺は思わず聞き返した。
「……え?」
「舞夜のことを気にかけてくれて、ありがとう」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
「い、いや、俺は別に……」
「そんなに慌てなくてもいいよ」
久那さんは苦笑しながら首を横に振る。
「君は気づいていないかもしれないけど、舞夜は君と出会ってから変わったんだ」
「変わった……?」
思わず、その言葉を繰り返す。
久那さんは静かに頷いた。
「ああ」
そして、どこか懐かしそうな目で空を見上げる。
「前より、よく笑うようになった」
俺は何も言えなかった。
「家でも、少しだけ話すようになったんだ」
短い沈黙。
そのあと、久那さんは優しく続ける。
「それに、最近は学校へ行くのを楽しみにしているように見える」
胸の奥が、妙にざわついた。
俺は、特別なことなんて何もしていない。
少なくとも、自分ではそう思っている。
ただ、毎日一緒に過ごしていただけだ。
それだけのはずだった。
それなのに――。
舞夜が変わったと言われても、俺には何と返せばいいのか分からなかった。
久那さんは、小さく笑った。
「舞夜は昔から、何でも一人で抱え込もうとするんだ」
そう言いながら、中庭へ視線を向ける。
「子供の頃から、ずっとそうだった」
「……」
「人に迷惑をかけるのが嫌いで、困っていても自分から助けを求めない」
その言葉を聞いて、俺は思わず舞夜の顔を思い浮かべた。
――『できません』
――『必要なんです』
――『他に選択肢がないので』
今まで何度も聞いてきた言葉だった。
舞夜は、いつだって自分のことを後回しにしてきた。
つらくても、苦しくても、誰かに頼ろうとはしなかった。
むしろ、自分一人で何とかしようとしていた。
それは責任感が強いからなのか。
それとも、誰かに弱さを見せるのが怖いからなのか。
俺には、まだ分からない。
「本当は、もっと人を頼ってもいいんだけどね」
久那さんは苦笑しながら言った。
「でも、あの子は昔から不器用だから」
「……確かに、そうかもしれません」
俺がそう答えると、久那さんは少し驚いたように笑った。
「君は、舞夜のことをよく見ているんだね」
「いや、そんなことは……」
慌てて否定しようとしたが、言葉が続かなかった。
久那さんは気にした様子もなく、再び校庭へ視線を向ける。
「舞夜は強い子だよ。でも、強い子ほど、一人で頑張りすぎてしまう」
その言葉は、どこか寂しそうに聞こえた。
父親だからこそ分かることが、きっとあるのだろう。
俺は何も言えず、ただ黙って久那さんの横顔を見つめていた。
「久那」
教室の扉のほうから、落ち着いた声が聞こえてきた。
振り返ると、そこには千代子さんが立っていた。
相変わらず、表情はほとんど変わらない。
静かな視線を俺たちに向けている。
「そろそろ行きましょう」
「ああ、そうだね」
久那さんは穏やかに笑いながら答えた。
どうやら、帰る時間らしい。
久那さんは手すりから手を離し、教室へ戻ろうとする。
だが、その前に、もう一度だけ俺のほうを振り返った。
「南くん」
「はい」
久那さんは少しだけ目を細めて、優しく笑った。
「これからも、舞夜の友達でいてあげてほしい」
友達。
その言葉に、俺は思わず黙り込んだ。
恋人でもない。
クラスメイトでもない。
ただ、一言。
友達。
なのに、不思議なくらい、その言葉は重かった。
「……俺なんかでいいんですか?」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
久那さんは少し驚いたように目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「君だから頼むんだよ」
「……」
「舞夜は、人を頼るのが苦手だからね」
そう言って、久那さんは教室の中へ視線を向けた。
そこには、別の客を案内している舞夜の姿があった。
「だから、あの子が困っていたら、少しだけ隣にいてあげてほしい」
俺は、すぐには返事ができなかった。
ただ、窓の向こうで笑っている舞夜を見つめることしかできなかった。
「……分かりました」
ようやくそう答えると、久那さんは満足そうに頷いた。
「ありがとう」
その時だった。
「本当に、そろそろ行くわよ」
千代子さんの声が、再び廊下に響いた。
「ああ、今行くよ」
久那さんは苦笑しながらそう返すと、最後にもう一度だけ俺を見た。
その優しい笑顔が、なぜだか妙に印象に残った。
舞夜は、両親を校門まで見送るために教室を出ていった。
俺は、窓際からその様子をぼんやりと眺めていた。
校庭には、文化祭を楽しむ人たちの姿があふれている。
楽しそうな笑い声。
遠くから聞こえてくる音楽。
そんな賑やかな景色の中で、舞夜たち三人だけが、まるで別の時間を過ごしているように見えた。
久那さんは、何かを話しながら歩いている。
舞夜は小さく頷き、ときどき短く返事をしていた。
すると、不意に久那さんが舞夜の頭に手を伸ばした。
くしゃり、と優しく髪を撫でる。
「ちょっと、お父さん」
舞夜は少しだけ眉をひそめながら、髪を押さえた。
その仕草は、普段の学校で見せる八神舞夜とはまるで違っていた。
どこにでもいる、普通の娘みたいだった。
思わず、俺は目を見開く。
そんな表情をすることもあるんだな。
そう思った。
やがて、三人は校門の前で立ち止まった。
久那さんが車のドアを開く。
千代子さんは舞夜のほうを向き、小さく頭を下げた。
「また家で会いましょう」
「はい、お母さん」
短いやり取りだった。
それでも、舞夜はしっかりと母親の目を見て答えていた。
二人が車に乗り込む。
エンジン音が響き、ゆっくりと車が動き出した。
舞夜は、その場から動かなかった。
車が小さくなっていく。
見えなくなる、その瞬間まで。
そして――。
「ふぅ……」
長い息を吐いた。
まるで、今までずっと息を止めていたかのように。
その後ろ姿を見ながら、俺は何も言えなかった。
ただ、あいつは本当に頑張っていたんだな、と。
そんなことを考えていた。
舞夜が教室に戻ってきたのは、両親の車が見えなくなってから数分後のことだった。
俺が窓際から離れると、舞夜は何事もなかったかのようにカップを片づけ始める。
さっきまでの出来事なんて、最初から存在しなかったかのように。
けれど、そんなはずがない。
「八神」
俺が声をかけると、舞夜は手を止めることなく答えた。
「何ですか?」
「お父さん、何て言ってたんだ?」
すると、今度は舞夜の手がぴたりと止まった。
ほんの一瞬だけ。
本当に、一瞬だけ。
「……南くんには?」
「お前のことを頼むって言われた」
正確には少し違う。
でも、今はそれで十分な気がした。
舞夜は数秒ほど黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「そうですか」
そして、ほんの少しだけ笑った。
「それは、お父さんらしいですね」
「そうなのか?」
「はい。昔から、心配性なんです」
そう言いながら、舞夜は再びカップを並べ始める。
しばらく沈黙が続いた。
教室の中では、相変わらず楽しそうな声が響いている。
文化祭はまだ終わっていない。
けれど、俺たちの周りだけ、少し違う時間が流れているような気がした。
「あと、お前が前より笑うようになったって言ってた」
その言葉に、舞夜の指先が止まる。
「……え?」
「家でも前より話すようになったって」
舞夜は何も言わなかった。
ただ、机の上に置かれたカップを見つめている。
十秒ほどの沈黙。
やがて、誰に聞かせるわけでもないような小さな声で呟いた。
「……本当に、そうなんでしょうか」
俺は舞夜を見る。
けれど、その言葉は俺に向けられたものではなかった。
まるで、自分自身に問いかけているみたいだった。
舞夜自身、自分の変化に気づいていないのかもしれない。
いや――。
一番、八神舞夜のことを知らないのは、本人なのかもしれなかった。
そんなことを考えながら、俺は窓の外へ視線を向けた。
文化祭の空は、少しずつ夕暮れの色へと変わり始めていた。
第二十九話『君が知らない君』を読んでいただき、ありがとうございました。
文化祭の喧騒の中で、大樹は舞夜の家族との関係を少しだけ知ることになりました。
優しい父の言葉。
厳しい母の視線。
そして、舞夜自身も気づいていない小さな変化。
人は、自分のことを一番理解しているようで、実はそうではないのかもしれません。
文化祭は、まだ終わりません。
それでは、また第三十話でお会いしましょう。




