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君が求めていた言葉

時計の針は、昼を少し過ぎたところを指していた。


 それでも、喫茶店の忙しさはまったく変わらない。


「四番テーブルお願い!」


「今行く!」


「南、二番テーブルのお会計!」


「分かった!」


 教室の端から端まで走り回りながら、俺はふと思った。


 人生で、こんなに教室の中を歩き回ったことがあっただろうか。


 たぶん、ない。


 文化祭というのは、思っていた以上に重労働らしい。


 注文を運び終え、ようやく一息つこうとした、その時だった。


 ふと周りを見渡す。


 珍しいことに、新しい注文が入っていない。


 開店してから初めて訪れた、ほんのわずかな静寂だった。


「はぁ……」


 思わず、大きく息を吐く。


「疲れましたか?」


 声をかけてきたのは、カップを片付けていた舞夜だった。


「めちゃくちゃ疲れた」


「まだ午後がありますよ」


 舞夜はそう言って、小さく微笑む。


「今、それを思い出させる必要あったか?」


「現実逃避はよくないと思います」


「お前、たまに容赦ないよな」


「気のせいです」


 絶対に気のせいじゃない。


 そう言い返そうとした、その瞬間。


 チリン――。


 入口のベルが鳴った。


「またお客さんか……」


 反射的に顔を上げる。


 すると、隣にいた舞夜が、不自然なほどぴたりと動きを止めていた。


「……八神?」


 返事はない。


 舞夜はただ、入口のほうを見つめている。


 まるで、何か信じられないものを見てしまったかのように。


 俺も、その視線の先を追った。


 そして――。


 教室の入口に立つ二人の姿を見て、思わず息をのんだ。

舞夜の視線の先。


 教室の入口に立っていたのは、一組の男女だった。


 黒いスーツを着た男性。


 上品な服装に身を包んだ女性。


 見覚えのある顔だった。


 いや、一度しか会ったことはない。


 それでも、忘れるはずがなかった。


 八神久那。


 そして――八神千代子。


 舞夜の両親だった。


「……」


 一瞬、教室の音が遠くなった気がした。


 もちろん、そんなはずはない。


 周りでは相変わらず食器の音が鳴り、クラスメイトたちの声も聞こえている。


 それなのに、俺の意識は完全に入口の二人へ向いていた。


 隣を見る。


 さっきまで客に笑顔を向けていた舞夜が、まるで別人のようになっていた。


 表情が消えている。


 背筋はぴんと伸び、肩には力が入っていた。


 まるで、誰かが突然スイッチを切り替えたみたいだった。


「おはよう、舞夜」


 最初に口を開いたのは千代子さんだった。


 いつも通りの落ち着いた声。


 けれど、その声にはどこか張り詰めた空気があった。


「……お母さん、お父さん」


 舞夜は小さく頭を下げる。


「来てくれたんですね」


「ああ。せっかくだから、見に来たよ」


 久那さんは優しく笑った。


 その笑顔に、舞夜も小さく頷く。


 だが、千代子さんは教室の中を静かに見回していた。


 飾り付け。


 机。


 忙しそうに動く生徒たち。


 そして――。


 その視線が、俺のところで止まった。


「……っ」


 思わず、背筋が伸びる。


 何も言われていない。


 自己紹介すらしていない。


 それなのに、なぜか試験を受けているような気分になった。


 いや、正確には――。


 値踏みされているような感覚だった。


「南くん?」


 舞夜の声で、はっと我に返る。


「え、ああ。すみません」


「どうしました?」


「いや、何でもない」


 絶対に何でもなくはなかった。


 でも、そんなことを正直に言えるはずもない。


 その時、久那さんが穏やかな笑みを浮かべながら言った。


「席、空いているかな?」


「あ、はい! こちらへどうぞ!」


 俺は慌てて二人を席へ案内した。


 けれど、その間もずっと、舞夜の表情は硬いままだった。

俺は二人を空いている席へ案内した。


「こちらへどうぞ」


「ありがとう」


 久那さんは穏やかに微笑みながら席に着く。


 一方で、千代子さんは静かに頷くだけだった。


 その隣では、舞夜がまだ少し緊張した表情を浮かべている。


「八神?」


 小声で呼びかけると、舞夜ははっとしたようにこちらを見た。


「……すみません」


「いや、謝る必要はないだろ」


 そう言ったものの、舞夜は小さく頭を下げると、急いで注文用のメモを手に取った。


 そして、両親の前に立つ。


「ご注文はお決まりでしょうか」


 その声を聞いた瞬間、俺は違和感を覚えた。


 丁寧なのはいつも通りだ。


 けれど、どこか距離がある。


 いや、いつも以上に他人行儀だった。


 まるで、客として接しているというより、面接官を相手にしているみたいだった。


 久那さんはメニューを閉じ、優しく笑う。


「舞夜のおすすめをお願いしようかな」


「おすすめ、ですか?」


「ああ。せっかく来たんだから、君が一番自信のあるものを食べてみたい」


 舞夜はほんの一瞬だけ考え込んだ。


「……それなら、特製メニューをおすすめします」


「じゃあ、それにしよう」


「かしこまりました」


 メモを取ろうとしたその時、今まで黙っていた千代子さんが口を開いた。


「私も同じものでいいわ」


「分かりました」


 舞夜が頷く。


 すると、千代子さんは静かにメニューを閉じた。


「あなたの判断を信じます」


 たった、それだけだった。


 けれど、その言葉は褒め言葉には聞こえなかった。


 むしろ、試験の採点を待つ受験生に向けられた言葉のようだった。


「……はい」


 舞夜は小さく返事をする。


 その横顔は、さっきまでクラスメイトと話していた時とはまるで違っていた。


 いつもの舞夜なら、もう少し自然に笑っていたはずだ。


 もう少し、肩の力が抜けていたはずだ。


 だが今の彼女は、ほんの少しも気を緩めていない。


 そんな舞夜を見ながら、俺は改めて思った。


 八神舞夜にとって、両親という存在は、俺が想像しているよりずっと特別で、ずっと難しいものなのかもしれない。

注文を受けたあと、舞夜は小さく頭を下げると、厨房代わりのスペースへ戻ってきた。


 俺もその後を追いかける。


「特製メニュー、二つね」


「分かった」


 そう返事をしたものの、俺の視線は自然と舞夜へ向いていた。


 何かがおかしい。


 さっきから、明らかに様子が違う。


 そして、それはすぐに分かった。


 舞夜の手が、わずかに震えていた。


 本当に、ほんの少しだけ。


 注意して見なければ気づかないほどの小さな震え。


 きっと、結衣も松も気づいていない。


 でも、俺には分かった。


 この数か月で、俺は少しだけ八神舞夜という人間を知ったからだ。


「……八神」


 俺が小声で呼びかける。


 舞夜はびくりと肩を震わせた。


「え?」


「大丈夫か?」


 一瞬、舞夜は言葉を失った。


 それから、いつものように小さく笑おうとして――失敗した。


「だ、大丈夫です」


 どう見ても大丈夫じゃない。


 けれど、本人がそう言う以上、無理に聞き出すこともできなかった。


 俺はカップを並べながら、できるだけ自然な声で言う。


「そんなに緊張しなくてもいいだろ」


「緊張なんて、していません」


「いや、手が震えてる」


 その言葉に、舞夜ははっとしたように自分の手を見下ろした。


 そして、慌てて両手を握る。


「……気のせいです」


「絶対、気のせいじゃない」


 舞夜は何も答えなかった。


 ただ、視線を落としたまま黙っている。


 しばらくして、俺は静かに口を開いた。


「大丈夫だよ」


「……え?」


「全部、うまくいってる」


 店は大盛況だ。


 客も楽しそうにしている。


 舞夜だって、誰より頑張っている。


 だから、心配する必要なんてない。


 そう伝えたかった。


 舞夜は驚いたように俺を見つめる。


 数秒間、何も言わなかった。


 やがて――。


「……そう、ですね」


 本当に小さな声で、そう答えた。


 そして、ほとんど分からないくらい小さく頷いた。


 だけど、その表情から緊張が消えたわけではなかった。


 むしろ、俺はその時、初めて気づいたのかもしれない。


 八神舞夜は、両親の前では、いつもの八神舞夜ではいられないのだと。

特製メニューが完成し、舞夜は慎重にトレーを持ち上げた。


 コーヒーが二つ。


 ケーキが二つ。


 さっきまで震えていた手も、今はどうにか落ち着きを取り戻しているように見えた。


「じゃあ、持っていきます」


「ああ、気をつけろよ」


「子供じゃないんですから、大丈夫です」


「さっきまで緊張してたやつの言葉とは思えないな」


「……聞こえませんでした」


「絶対聞こえてただろ」


 舞夜は何も言い返さず、そのまま歩き出した。


 その時だった。


 教室の外から、小さな男の子が勢いよく走ってきた。


「待ってー!」


 母親の声が聞こえる。


 だが、男の子は止まらない。


 そして――。


 ガタンッ。


 通路に置かれた椅子にぶつかった。


「きゃっ――」


 舞夜の体が大きく揺れる。


 傾くトレー。


 今にも落ちそうになるカップ。


「八神!」


 考えるより先に、体が動いていた。


 俺はとっさに駆け出し、落ちかけたトレーを片手で支える。


 だが、一つのカップだけが宙に浮いた。


「うわっ!」


 反射的にもう片方の手を伸ばす。


 次の瞬間――。


 カップは、俺の手の中に収まっていた。


 ……静寂。


 一瞬だけ、教室中の時間が止まったような気がした。


 そして、


「おおーっ!」


「すごい!」


「ナイスキャッチ!」


 あちこちから拍手が起こった。


 俺は慌ててカップをテーブルに戻す。


「いや、ただの偶然だから……」


 顔が熱い。


 こんなに注目されるなんて聞いていない。


 後ろでは結衣が大笑いしていた。


「南、かっこいいじゃん!」


「うるさい!」


「今の、完全にヒーローだったよ!」


「やめろ、恥ずかしい!」


 周りからも笑い声が上がる。


 そんな中、舞夜だけは黙ったまま俺を見つめていた。


「……八神?」


 名前を呼ぶと、舞夜ははっとしたように瞬きをした。


 そして、誰にも聞こえないくらい小さな声で、


「……ありがとうございます」


 と呟いた。


「別に、大したことじゃない」


「それでも、ありがとうございます」


 そう言って、舞夜は少しだけ微笑んだ。


 さっきまでの張り詰めた表情とは違う。


 ほんの少しだけ、いつもの舞夜が戻ってきたような気がした。

 ようやく料理が運ばれ、舞夜はそっとトレーをテーブルに置いた。


「お待たせしました」


「ありがとう」


 久那さんは優しく微笑みながら、コーヒーカップを手に取る。


 一口飲んだあと、満足そうに頷いた。


「おいしいな」


 その言葉を聞いた瞬間、舞夜の肩から少しだけ力が抜けたように見えた。


「本当ですか?」


「ああ。すごくおいしいよ」


「……ありがとうございます」


 舞夜は小さく頭を下げる。


 その横顔には、ほんのわずかな安堵の色が浮かんでいた。


 けれど――。


 舞夜が本当に気にしているのは、きっと別のことだった。


 静かにカップを持ち上げた千代子さんは、何も言わずにコーヒーを口にする。


 舞夜は、まるで試験の結果を待つ受験生みたいに、じっと母親を見つめていた。


 数秒。


 いや、実際にはもっと短かったのかもしれない。


 それでも、俺にはずいぶん長く感じられた。


 やがて、千代子さんは静かにカップを皿へ戻した。


 教室の喧騒が、妙に遠く感じる。


 そして――。


「悪くないわ」


 たった、それだけだった。


 三文字。


 たった三文字の言葉。


 それなのに、俺は隣にいる舞夜の変化を見逃さなかった。


 わずかに揺れる瞳。


 ほんの少しだけ緩んだ表情。


 それは悲しみじゃない。


 安心だった。


 まるで、ずっと欲しかったものを、ようやく手に入れた子供みたいな顔だった。


「ありがとうございます」


 舞夜は静かに頭を下げる。


 その声は、いつもより少しだけ優しかった。


 千代子さんはそれ以上何も言わない。


 久那さんも、ただ穏やかに微笑んでいる。


 だけど、俺には分かってしまった。


 きっと舞夜は、昔からずっと、母親のその一言を待ち続けていたのだ。


 褒められたかった。


 認めてもらいたかった。


 たった一言でいいから、「よく頑張った」と言ってほしかった。


 それなのに――。


 たった三文字で、こんなにも安心した顔をしてしまう。


 その事実が、どうしようもなく悲しかった。


 そして俺は、八神舞夜という人間のことを、まだ何も知らないのかもしれないと思った。

第二十八話『君が求めていた言葉』を読んでいただき、ありがとうございました。


文化祭の賑わいの中で、大樹は舞夜の新しい一面を知ることになります。


普段は完璧に見える彼女も、家族の前ではただの娘でした。


そして、たった一言が、人を救うこともあるのだと知ります。


文化祭はまだ続きます。


それでは、また第二十九話でお会いしましょう。

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