君だけが知らない人気者
今まで、一つだけ理解できなかったことがある。
どうして人は、自分から進んで行列に並ぶのだろうか。
――でも、今なら分かる。
その行列の先に、俺たちの喫茶店があるからだ。
そして、それは大問題だった。
本当に、とんでもない大問題だった。
「七番テーブル、できた!」
「今行く!」
「三番テーブル、コーヒーが一つ足りない!」
「すぐ持っていく!」
「南!」
「何だ!」
「もう少し笑って!」
「笑ってる!」
「それ、脅してるようにしか見えないよ!」
……確かに、その通りかもしれない。
教室の中は、完全に戦場だった。
席はすべて埋まり、空いているテーブルは一つもない。
廊下には、順番を待つ人たちの列までできていた。
「こんなに人が来るなんて思わなかったな……」
俺は二つのカップをテーブルに置きながら呟いた。
すると、隣で皿を運んでいた松が肩をすくめる。
「噂のおかげだろ」
「噂?」
俺が聞き返すと、松は呆れたような顔をした。
「お前、本気で言ってるのか?」
「何のことだよ」
「二年で一番かわいい女子が、この喫茶店で働いてるって噂だよ」
……は?
俺はゆっくりと後ろを振り返った。
そこには、別のテーブルを接客している舞夜の姿があった。
「ありがとうございました」
小さく頭を下げながら、料理を運んでいる。
優しい声。
落ち着いた仕草。
そして、自然な笑顔。
その笑顔を見た客たちは、みんな嬉しそうな顔をしていた。
まあ、確かに。
理由は分からなくもない。
「……お前、全然自覚ないだろ」
松が呆れたように言う。
「何が?」
「だから、お前の隣にいる八神のことだよ」
「いや、別に俺は――」
言いかけた瞬間、
「南くん」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、注文票を持った舞夜が立っていた。
「五番テーブル、紅茶を二つお願いします」
「了解」
「あと、笑顔もお願いします」
「お前まで言うのかよ」
「結衣さんからの伝言です」
「絶対、本人もそう思ってるだろ」
俺がそう言うと、舞夜は少しだけ考え込み、
「……否定はしません」
真顔でそう言った。
「ひどくないか?」
「事実なので」
「冷たいな」
「忙しいので」
即答だった。
そんなやり取りをしている間にも、次々と客が入ってくる。
どうやら今日は、本当に休む暇なんてなさそうだった。
忙しさは、まったく途切れる気配がなかった。
新しい客が来ては席へ案内し、注文を受け、料理を運ぶ。
気づけば、開店してから一時間以上が経っていた。
「南、二番テーブルお願い!」
「了解!」
返事をしながら、俺はコーヒーカップを手に取る。
その途中、ふと視線を上げた。
教室の奥。
舞夜が、年配の夫婦に料理を運んでいるところだった。
「お待たせしました。ブレンドコーヒー二つです」
そう言って、静かに頭を下げる。
「ありがとう」
「いえ、こちらこそ、ご来店ありがとうございます」
柔らかい笑顔。
落ち着いた声。
丁寧な仕草。
それだけで、客の表情が一瞬で和らいでいく。
夫婦は顔を見合わせながら、小さく笑っていた。
「……なるほどな」
思わず、そんな言葉が漏れる。
「何がだ?」
後ろから声をかけてきたのは松だった。
「いや、何でもない」
「どうせ、八神が人気な理由を考えてたんだろ」
「別に考えてない」
「嘘つけ」
松は呆れたように笑った。
「まあ、そりゃ人気も出るよな。かわいいし、成績いいし、性格もいいし」
「お前、本人の前で言ったら絶対怒られるぞ」
「八神は怒るっていうより、困りそうだけどな」
確かに、その通りかもしれない。
舞夜は、誰かに褒められても素直に受け取るタイプじゃない。
むしろ、本気で不思議そうな顔をするだろう。
そんなことを考えていると、
「南くん」
また舞夜の声が聞こえた。
「今度は何だ?」
「七番テーブルのお客様がお水を頼んでいます」
「了解」
「あと、六番テーブルがお会計です」
「分かった」
俺が返事をすると、舞夜は小さく頷く。
そして、また別の客のところへ向かっていった。
その後ろ姿を見ながら、松がぼそりと呟く。
「……完全に看板娘だな」
「そうか?」
「そうだよ。お前、本当に鈍感だな」
鈍感と言われても、正直よく分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
教室中の視線が、自然と舞夜に集まっているということだ。
そして――。
その中心にいる本人だけが、それに気づいていないのかもしれなかった。
昼が近づいても、喫茶店の忙しさは変わらなかった。
むしろ、人はどんどん増えている気がする。
「四番テーブル、ナポリタン一つお願い!」
「了解!」
返事をしながら料理を運んでいると、教室の扉が開いた。
入ってきたのは、若い母親と、小学校に入ったばかりくらいの女の子だった。
女の子は教室の中をきょろきょろと見回している。
まるで別世界に来たみたいな顔だ。
そして――。
舞夜の姿を見つけた瞬間、ぱっと目を輝かせた。
「ママ!」
女の子は母親の服を引っ張る。
「ん?」
「あのお姉ちゃん、お姫様みたい!」
その声は、教室中に聞こえるほど大きかった。
近くにいた舞夜も、思わず動きを止める。
「え……?」
驚いたように瞬きをする舞夜。
女の子はそんなことを気にする様子もなく、じっと彼女を見つめていた。
舞夜は少し戸惑いながらも、ゆっくりとしゃがみ込み、女の子と同じ目線になる。
「こんにちは」
「こんにちは!」
元気いっぱいの返事。
その様子を見て、舞夜は小さく微笑んだ。
「ここは初めてですか?」
「うん!」
女の子は大きく頷く。
そして、舞夜の制服を指差した。
「その服、すっごくかわいい!」
「ありがとうございます」
舞夜は少し照れくさそうに視線を落とした。
すると、女の子は満面の笑みで言った。
「私、大きくなったらお姉ちゃんみたいにかわいくなりたい!」
――その瞬間。
舞夜は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を丸くしていた。
やがて、優しく微笑みながら口を開く。
「きっと、素敵な人になれますよ」
「ほんと?」
「はい」
「やったー!」
女の子は嬉しそうに笑った。
隣にいた母親は、申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、急に話しかけてしまって」
「いえ、大丈夫です」
舞夜は穏やかに首を横に振った。
二人が席へ向かうのを見届けたあと、俺は舞夜の隣に立った。
「意外だな」
「何がですか?」
「お前、結構お姉さんっぽいんだな」
そう言うと、舞夜は少し驚いたような顔をした。
「そうですか?」
「ああ。子供の相手、慣れてる感じだった」
舞夜は少しだけ考え込む。
そして、小さな声で言った。
「……子供は好きですから」
「へえ、そうなんだ」
俺がそう返すと、舞夜は静かに頷いた。
「子供って、素直じゃないですか」
「まあ、確かに」
「だから、一緒にいて楽しいんです」
その答えを聞いて、俺は思わず笑ってしまった。
いかにも、舞夜らしい理由だった。
女の子たちが帰ったあとも、喫茶店の忙しさは変わらなかった。
俺たちは休む暇もなく、次々とやってくる客の対応を続けていた。
そんな中――。
教室の入り口のあたりで、何やら落ち着かない様子の三人組が目に入った。
全員、一年生の女子だ。
教室の中をちらちらと見ながら、小声で何かを話している。
「おい、あの子たち、さっきからずっと入口にいるぞ」
俺がそう言うと、松は一瞬だけそちらを見て、すぐに笑った。
「ああ、たぶん八神目当てだな」
「は?」
「いや、だから見てれば分かるって」
そう言った直後だった。
三人のうちの一人が、意を決したように前へ出た。
「あ、あの……!」
突然声をかけられ、舞夜が顔を上げる。
「はい?」
一年生の女子は、一瞬言葉に詰まった。
顔を真っ赤にしながら、何度も友達のほうを振り返る。
後ろの二人も緊張した様子で頷いていた。
「あの、八神先輩……!」
「はい」
「い、一緒に写真を撮ってもらえませんか?」
――その瞬間。
教室の時間が止まったような気がした。
「…………え?」
舞夜は完全に固まっていた。
まるで、今聞いた言葉の意味を理解できていないようだった。
「も、もし迷惑だったら大丈夫です!」
「すみません、変なこと言って!」
一年生たちは慌てて頭を下げる。
しかし、舞夜は何も答えない。
ただ、困ったような顔で周囲を見回していた。
そして――なぜか、俺のほうを見る。
「……南くん」
「何で俺を見るんだよ」
「その……どうすればいいでしょうか」
「知らないよ」
「知っていてください」
「無茶言うな」
小声でそんなやり取りをすると、舞夜はさらに困ったような顔になった。
俺は小さくため息をつき、軽く笑う。
「別に、撮ってあげればいいんじゃないか?」
「……いいんでしょうか」
「むしろ、断ったら泣くんじゃないか?」
ちらりと一年生たちを見る。
三人とも、今にも心臓が飛び出しそうなくらい緊張していた。
舞夜もそれに気づいたのか、小さく息を吐いた。
そして、静かに頷く。
「……分かりました」
舞夜は一年生たちのほうへ向き直った。
「もちろんです。一緒に撮りましょう」
一瞬の静寂。
次の瞬間、
「ほ、本当ですか!?」
「やったー!」
「ありがとうございます!」
三人は嬉しそうに顔を見合わせた。
その様子を見て、舞夜は少しだけ驚いたように目を丸くしていた。
「じゃあ、撮りますよー!」
一年生の一人がスマートフォンを構える。
舞夜は、三人の女子生徒の真ん中に立っていた。
……とはいえ、その表情はどこかぎこちない。
「八神先輩、もう少しこっちです!」
「え、あ、はい」
「もっと笑ってください!」
「わ、笑っています」
どう見ても緊張していた。
隣の松が、呆れたように肩をすくめる。
「あいつ、接客は完璧なのに、写真は苦手なんだな」
「意外だな」
「いや、八神らしいだろ」
確かに、その通りかもしれない。
舞夜は人前に立つことには慣れていても、自分自身が注目されることには慣れていない。
「いきますよー! 三、二、一!」
カシャッ。
シャッター音が教室に響いた。
「撮れました!」
「ありがとうございます!」
「家宝にします!」
「いや、それは大げさじゃない?」
思わず俺が突っ込むと、一年生たちは慌てて首を振った。
「大げさじゃないです!」
「八神先輩、本当にかわいいので!」
「私たち、ずっと憧れてたんです!」
次々と飛んでくる言葉に、舞夜は完全に固まっていた。
「えっと、その……ありがとうございます」
少し頬を赤くしながら、小さな声でお礼を言う。
一年生たちは何度も頭を下げると、嬉しそうに写真を確認しながら席へ戻っていった。
その背中を、舞夜はしばらく黙って見つめていた。
「……大丈夫か?」
俺が声をかける。
舞夜はすぐには答えなかった。
教室の入口を見つめたまま、数秒ほど黙り込む。
そして、ようやく小さく口を開いた。
「……不思議です」
「何が?」
舞夜はゆっくりと俺のほうを見る。
「私と写真を撮りたい人がいるなんて、考えたこともありませんでした」
その声には、本当に驚いているような響きがあった。
冗談でも、謙遜でもない。
本気でそう思っているのだと、すぐに分かった。
だからこそ、俺は何も言えなかった。
ただ――。
目の前で戸惑っている八神舞夜と、周りのみんなが見ている八神舞夜は、きっと全然違う存在なんだろう。
そんなことを、ぼんやりと考えていた。
舞夜の言葉を聞いて、俺はすぐには返事ができなかった。
「私と写真を撮りたい人がいるなんて、考えたこともありませんでした」
その声には、冗談や謙遜なんてものは一切混じっていなかった。
本気で、そう思っているのだ。
俺は思わず、さっきの一年生たちのほうを見る。
三人は席に座り、撮ったばかりの写真を嬉しそうに眺めていた。
「かわいい……」
「本当に八神先輩と撮れたんだ……」
「今日、一生忘れないかも」
そんな声が、かすかに聞こえてくる。
その様子を見れば、誰だって分かる。
八神舞夜は、みんなの憧れの存在だ。
勉強もできて、運動もできて、容姿だって整っている。
男子だけじゃない。
女子からだって人気がある。
そんなこと、今さら説明するまでもない。
だけど――。
本人だけは、それをまったく理解していないらしい。
「……そんなに不思議か?」
俺が尋ねると、舞夜は少し考え込んだあと、小さく頷いた。
「はい」
「どうして?」
「だって、私は普通ですから」
「いや、全然普通じゃないだろ」
思わず即答してしまった。
舞夜は驚いたように瞬きをする。
「そうでしょうか」
「そうだよ」
「南くんの基準は、よく分かりません」
「俺の基準がおかしいみたいに言うな」
「少なくとも、一般的ではないと思います」
「ひどい言われようだな」
そう言うと、舞夜は小さく笑った。
本当に、小さな笑みだった。
窓から差し込む午後の日差しが、その横顔を照らしている。
教室の中は相変わらず騒がしい。
笑い声。
食器の音。
楽しそうに話す人たちの声。
そんな賑やかな空間の中心に、舞夜はいた。
みんなが彼女を見て、憧れて、笑顔になる。
なのに――。
当の本人だけが、自分の特別さを何も知らない。
いや。
もしかしたら、知らないふりをしているだけなのかもしれない。
楽しそうに写真を見返している一年生たちを横目に、俺はもう一度、隣に立つ舞夜を見た。
そして、ふと思う。
八神舞夜は、自分がどれほど特別なのかを、まだ何も知らない。
そのことを、一番分かっていないのは――。
きっと、彼女自身なんだ。
第二十七話『君だけが知らない人気者』を読んでいただき、ありがとうございました。
文化祭の賑わいの中で、舞夜は少しだけ、自分が周りからどう見られているのかを知ることになりました。
けれど、一番大切なことには、まだ気づいていません。
文化祭は、まだ終わりません。
それでは、また第二十八話でお会いしましょう。




