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君が笑う文化祭

土曜日は、あまりにも早くやって来た。


少なくとも、俺にはそう感じられた。


ゆっくりと目を開ける。


見慣れた天井が視界に入る。


数秒間、何も考えずにぼんやりしていたが、すぐに現実を思い出した。


――今日は文化祭当日だ。


「……」


できることなら、もう一度寝たい。


むしろ、昨日の夜に戻りたい。


そんな現実逃避をしていると、一階から母さんの声が響いた。


「大樹ー!」


家中に聞こえるんじゃないかと思うほどの大声だった。


「文化祭の責任者が遅刻したら殺されるわよー!」


「責任者じゃない!」


俺は布団の中から叫び返した。


「それに殺されるって何だよ!」


「細かいことはいいから、早く起きなさい!」


「分かったよ!」


結局、二度寝作戦は開始五秒で失敗した。


諦めてベッドから起き上がり、カーテンを開ける。


窓の外には、雲ひとつない青空が広がっていた。


絶好の文化祭日和。


なのに、俺の気分はあまり晴れていない。


理由は簡単だ。


緊張しているからだ。


もちろん、表向きには認めない。


認めたら負けな気がする。


だけど、昨日の夜、なかなか寝つけなかったのは事実だった。


「はぁ……」


小さくため息をつきながら制服に着替える。


鏡の前で寝癖を確認し、適当に髪を整えた。


リビングへ降りると、母さんが朝食を並べているところだった。


「おはよう、大樹」


「おはよう」


「すごい顔してるわね」


「朝だからな」


「緊張してるの?」


「してない」


即答した。


すると、母さんは楽しそうに笑った。


「そういう時は、だいたい緊張してるのよ」


「違うって」


「はいはい」


絶対に信じてない顔だった。


俺は無言でトーストを口に運ぶ。


すると、母さんが思い出したように言った。


「そういえば、八神さんも今日は制服を着るのよね?」


危うくパンを落としかけた。


「……何で知ってるんだよ」


「佳澄から聞いたの」


犯人は妹だった。


「文化祭の喫茶店なんだから、当然でしょう?」


「まあ、そうだけど」


「楽しみねえ」


「何がだよ」


「いろいろ」


そう言って、母さんは意味深な笑みを浮かべた。


嫌な予感しかしない。


というか、今日、絶対に何かやらかす気がする。


「母さん、変なことするなよ」


「失礼ね。しないわよ」


こういう時の「しない」は、信用してはいけない。


俺は心の中でそう結論づけながら、残っていた朝食を急いで食べ終えた。


そして、玄関で靴を履く。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい。頑張ってね」


母さんの声を背中に受けながら、俺は家を出た。


秋の朝の空気は少し冷たくて、思わず肩をすくめる。


空を見上げる。


今日は、文化祭当日。


数週間前までは、ただの学校行事だと思っていた。


なのに、今は妙に落ち着かない。


その理由を、俺はまだよく分かっていなかった。


ただ一つ、確かなことがあるとすれば――。


今日は、いつもとは違う一日になる。


そんな予感だけが、胸の奥に残っていた。

学校に着いた瞬間、俺は思わず立ち止まった。


「……本当に、うちの学校か?」


目の前に広がっていた光景は、いつもの学校とはまるで違っていた。


校門には色とりどりの看板。


廊下の窓には飾りつけ。


あちこちに風船や旗が吊るされている。


スピーカーからは明るい音楽が流れ、生徒たちが慌ただしく走り回っていた。


さらに、校門の前にはすでに多くの人が集まっている。


保護者。


卒業生。


小さな子供たち。


文化祭の開始時間までは、まだ少しあるはずなのに、校内はすでにお祭りのような雰囲気だった。


「人、多すぎだろ……」


思わず呟く。


すると、後ろから聞き慣れた声がした。


「まだ始まってもいないぞ」


振り向くと、段ボール箱を運んでいる松がいた。


「嘘だろ? もう十分多いじゃないか」


「あと一時間もしたら、こんなの比じゃなくなる」


「聞きたくなかった情報だな」


「現実を受け入れろ」


「できれば受け入れたくない」


松は呆れたように笑った。


「お前、文化祭の実行委員みたいな仕事してるくせに、やる気なさすぎだろ」


「誰が好きで朝から働くんだよ」


「まあ、それは同意する」


そんなことを言いながら、俺たちは校舎へ向かって歩き出した。


校庭では、運動部が出店の準備をしている。


中庭では、吹奏楽部が楽器の音を合わせていた。


普段なら静かな土曜日の学校が、今日はまるで別世界だった。


「何か、変な感じだな」


「何が?」


「学校じゃないみたいだ」


俺がそう言うと、松は少しだけ考えるような顔をした。


そして、小さく笑う。


「一年に一回だけ、学校じゃなくなる日だからな」


「……それ、ちょっと格好つけてるだろ」


「バレたか」


「バレバレだ」


くだらない会話をしながら、俺たちは教室の前までやって来た。


扉の向こうからは、すでに誰かの話し声が聞こえてくる。


どうやら、俺たちより先に来ている人もいるらしい。


俺は深呼吸を一つして、教室の扉を開けた。


そして、その瞬間――。


数週間かけて作り上げてきた「喫茶店」が、俺たちを迎えた。

教室の扉を開けた瞬間、俺は思わず足を止めた。


「……すごいな」


数週間前まで、ただの教室だった場所。


そこにはもう、いつもの机も黒板もなかった。


整然と並べられたテーブル。


真っ白なテーブルクロス。


小さな花瓶。


壁には手作りの装飾が飾られ、教室全体にコーヒーの香りが漂っている。


本当に、別の場所に来てしまったような気分だった。


「おはよう、南」


松が段ボールを机の上に置きながら言った。


「おはよう」


「どうだ? 俺たちの店は」


「予想以上だな」


「だろ?」


松は満足そうに笑った。


俺は改めて教室を見渡す。


毎日放課後に残って準備してきたものが、ようやく形になった。


そう思うと、少しだけ不思議な気分になる。


その時――。


「おはようございます」


静かな声が聞こえた。


振り返る。


教室の入り口には、舞夜が立っていた。


「……おはよう」


自然と返事が少し遅れる。


舞夜はすでに喫茶店の制服に着替えていた。


白いブラウスに黒いエプロン。


丁寧に整えられた髪。


胸元には、クラス全員分と同じ手作りの名札。


数日前の試着会でも見たはずなのに、改めて見ると印象が違った。


文化祭当日という特別な空気のせいかもしれない。


「どうしました?」


舞夜が不思議そうに首を傾げる。


「いや、何でもない」


慌てて視線を逸らした。


「そうですか」


舞夜は小さく頷く。


相変わらず落ち着いているように見えた。


――いや、違う。


よく見ると、少しだけ表情が硬い。


普段よりも、ほんの少しだけ緊張しているようだった。


「昨日、ちゃんと寝られたか?」


俺が何気なく聞く。


舞夜は数秒考えてから、小さく首を横に振った。


「……あまり寝られませんでした」


「やっぱりか」


「南くんは?」


「俺も無理だった」


そう答えると、舞夜は少し驚いたように目を瞬かせた。


「南くんでも緊張するんですね」


「お前、俺を何だと思ってるんだよ」


「何があっても動じない人かと」


「そんなわけないだろ」


思わず苦笑する。


すると、舞夜は少しだけ視線を落とした。


「実は、私も少し緊張しています」


「へえ」


「失敗したらどうしようとか、ちゃんとお客さんが来てくれるのかとか、いろいろ考えてしまって」


珍しい。


八神舞夜が、こんな弱音みたいなことを口にするなんて。


俺は思わず笑ってしまった。


「何ですか?」


「いや、安心した」


「安心?」


「ああ。お前もちゃんと人間なんだなって」


舞夜は数秒黙り込み――。


「……今まで人間じゃないと思っていたんですか?」


「たまにそう思うことはあった」


「ひどいですね」


「否定できないだろ?」


「否定します」


珍しく少しだけ頬を膨らませる舞夜。


その姿が妙におかしくて、俺はまた笑ってしまった。


すると、舞夜も小さく息を吐き――。


ふっと、笑った。


ほんの一瞬。


だけど、確かに笑った。


「おーい、お前ら!」


その時、教室の奥から結衣の大声が響く。


「開会式まであと十分! ぼーっとしてる暇ないよー!」


その言葉と同時に、教室の空気が一気に慌ただしくなった。


いよいよ、文化祭が始まる。

キーンコーンカーンコーン――。


校内中にチャイムの音が響き渡る。


さっきまで慌ただしく動き回っていた生徒たちも、思わず動きを止めた。


そして、数秒後。


校内放送から校長先生の声が聞こえてくる。


『ただいまより、今年度文化祭を開催します。皆さん、本日は最後まで楽しんでください』


その言葉と同時に――。


校舎全体が歓声に包まれた。


「始まったな」


俺が呟くと、隣にいた舞夜も静かに頷いた。


「はい」


教室の外からは、すでにたくさんの話し声や足音が聞こえてくる。


さっきまでとは比べものにならないほどの賑わいだった。


すると、入口の近くにいた結衣が大声を上げる。


「来たよ! 最初のお客さん!」


その瞬間、教室の空気が一気に引き締まった。


「全員、配置について!」


「了解!」


クラスメイトたちが慌ただしく動き始める。


そして、次々とお客さんが教室へ入ってきた。


家族連れ。


他のクラスの生徒。


卒業生。


先生たち。


数分もしないうちに、店内の席はほとんど埋まってしまった。


「嘘だろ、こんなに来るのか……」


思わず呟く。


「言ったでしょう?」


舞夜は注文票を手にしながら、落ち着いた声で言った。


「今さら逃げられませんよ」


「逃げる気はないけど、心の準備ができてない」


「私もです」


そう言いながらも、舞夜の手は止まらない。


「三番テーブル、コーヒー二つとチーズケーキ一つです」


「了解」


「五番テーブル、お水をお願いします」


「分かった」


俺たちは次々と飛んでくる注文をさばいていく。


不思議なことに、ほとんど言葉はいらなかった。


舞夜が注文を取れば、俺が料理を運ぶ。


俺が別の客を案内している間に、舞夜がお会計を済ませる。


気づけば、お互いの動きを自然に理解していた。


「……すごいね」


近くで様子を見ていた浅見が、小さく呟いた。


「何が?」


俺が聞き返す。


すると、浅見は楽しそうに笑った。


「二人とも、息ぴったりじゃん」


「そんなことないだろ」


俺がそう言うと、舞夜も同時に口を開いた。


「そんなことありません」


ぴたりと重なった声。


俺と舞夜は、同時にお互いの顔を見る。


そして、その様子を見ていた浅見は吹き出した。


「ほら、そういうところだよ」


「違う」


「違います」


また同時だった。


浅見は肩を震わせながら笑う。


「もう否定しても無駄だと思うよ?」


「何がだよ」


「秘密」


そう言って、浅見は楽しそうに去っていった。


俺はため息をつきながら、隣の舞夜を見る。


舞夜も困ったように小さく息を吐いていた。


「……今日は、何回言われるんだろうな」


俺が呟くと、舞夜は真顔のまま答えた。


「数えるのを諦めたほうが早いと思います」


「だろうな」


そう言った瞬間――。


教室の扉が勢いよく開いた。


そして、聞き慣れた声が響き渡る。


「大樹ー!」


その声を聞いた瞬間、俺は嫌な予感しかしなかった。

「大樹ー!」


その声を聞いた瞬間、俺は思わず顔をしかめた。


聞き間違えるはずがない。


むしろ、聞き間違いであってほしかった。


ゆっくりと入口のほうを見る。


「やっぱりか……」


満面の笑みを浮かべながら手を振っているのは、母さんだった。


その後ろには、父さんと佳澄、そして妙に楽しそうな多恵子の姿もある。


「来たわよー!」


「見れば分かる」


俺がため息混じりに答えると、佳澄が不満そうに頬を膨らませた。


「何その反応。せっかく応援しに来てあげたのに」


「絶対、応援以外の目的もあるだろ」


「失礼ね」


そう言ったのは母さんだった。


しかし、その笑顔を見れば、俺の予感が間違っていないことくらいすぐに分かる。


「へえ、本当に喫茶店になってるのね」


母さんは興味深そうに教室を見回した。


「結構頑張ったじゃない」


「まあ、それなりにな」


「大樹がこんなに真面目に準備するなんて、お母さん感動しちゃう」


「余計なお世話だ」


すると、多恵子が俺の横を通り過ぎ、教室の奥を見て突然声を上げた。


「あっ、舞夜ちゃん!」


「え?」


舞夜が驚いたように顔を上げる。


多恵子は嬉しそうに駆け寄っていった。


「おはよう!」


「お、おはようございます」


舞夜は少し戸惑いながらも、丁寧に頭を下げる。


そんな彼女を見て、母さんは優しく微笑んだ。


「その制服、とても似合ってるわね」


「……ありがとうございます」


舞夜は小さくお礼を言いながら、わずかに視線を落とした。


その白い頬が、ほんのり赤く染まっている。


佳澄はそれを見逃さなかった。


「お兄ちゃん、見とれてる」


「見とれてない」


「いや、絶対見てたよね?」


「見てない」


「さっきから否定しかしてないじゃん」


「事実だからな」


俺が即答すると、佳澄は呆れたように肩をすくめた。


その横で、父さんが静かに口を開く。


「大樹」


「何?」


「頑張ってるな」


短い言葉だった。


でも、その一言だけで十分だった。


「……まあ、今日は特別だからな」


照れ隠しのようにそう言うと、父さんは小さく笑った。


すると、母さんが楽しそうに手を叩いた。


「よし、それじゃあ注文しましょう!」


「急に元気だな」


「せっかくだもの。全部食べるわよ」


「勘弁してくれ……」


俺が頭を抱えると、舞夜が小さく吹き出した。


その笑顔を見た瞬間――。


今日一日、きっと騒がしい日になる。


俺は、そんな確信を抱いてしまった。

昼を過ぎた頃。


さっきまで満席だった教室も、ようやく少し落ち着きを取り戻していた。


「はあ……」


俺は小さく息を吐きながら、窓際へ向かう。


数時間立ちっぱなしだったせいで、足が少し重い。


「疲れましたか?」


後ろから聞こえてきた声に振り返る。


舞夜だった。


「まあ、少しな」


「私もです」


そう言って、舞夜も俺の隣に並んだ。


窓の外を見る。


校庭には、たくさんの人がいた。


屋台の前で笑う子供たち。


楽しそうに写真を撮る生徒たち。


遠くから聞こえてくる吹奏楽部の演奏。


いつもの学校とは、まるで別の場所みたいだった。


「思っていたより、すごいですね」


舞夜が小さく呟く。


「ああ」


「最初は、こんなにうまくいくとは思っていませんでした」


「俺もだよ」


数週間前までは、文化祭なんてただ面倒な行事だと思っていた。


放課後の準備も、最初は早く終わってほしいとしか思っていなかった。


でも、今は違う。


大変だった準備も。


騒がしかった放課後も。


気づけば、悪くないと思えるようになっていた。


「でも――」


舞夜が静かに言った。


「頑張ってよかったです」


そう言いながら、彼女は教室の中へ視線を向ける。


楽しそうに話しているクラスメイトたち。


忙しく動き回る結衣。


注文を運ぶ松。


みんな、それぞれ文化祭を楽しんでいた。


そして、舞夜は優しく微笑んだ。


穏やかな笑顔だった。


噂を気にしている時の笑顔でもない。


無理をして作った笑顔でもない。


ただ、この時間を心から楽しんでいる笑顔。


その横顔を見た瞬間、俺はふと、雨の日のことを思い出した。


窓際で話した、小説の夢。


「もう無理かもしれません」と言っていた舞夜。


だけど、今の彼女は違う。


少なくとも、この瞬間だけは。


何かを諦めているようには見えなかった。


むしろ――。


今を、誰よりも大切にしているように見えた。


「南くん?」


気づけば、舞夜が不思議そうにこちらを見ていた。


「……何でもない」


慌てて視線を逸らす。


すると、舞夜は小さく笑った。


「変な人ですね」


「お前にだけは言われたくない」


「失礼ですね」


そんな他愛のないやり取りをしながら、俺たちは再び窓の外を見た。


文化祭は、まだ始まったばかりだ。


これから、もっと忙しくなるだろう。


もっと騒がしくなるだろう。


それでも――。


気づけば俺は、この時間がもう少しだけ続けばいいと思っていた。


そして、八神舞夜が笑っているこの瞬間を、もう少しだけ見ていたいと思っていた。


その気持ちの正体を、俺はまだ知らない。


いや、本当は――。


気づかないふりをしていただけなのかもしれない。

第二十六話『君が笑う文化祭』を読んでいただき、ありがとうございました。


ついに始まった文化祭。


賑やかな一日の中で、大樹は今まで知らなかった舞夜の笑顔を見つけます。


この特別な一日は、まだ始まったばかりです。


それでは、また第二十七話でお会いしましょう。

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