表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/84

雨の向こうの君

文化祭の準備は、その週ずっと続いていた。


放課後になるたびに、教室には人が残る。


机を動かす者。


看板を作る者。


飾りつけを考える者。


そして、その中心には、いつも八神舞夜がいた。


授業が終わる。


文化祭の準備をする。


家に帰る。


寝る。


そして、また学校へ来る。


気づけば、そんな毎日が当たり前になっていた。


ほんの数週間前まで、放課後なんてまっすぐ帰るだけだったのに。


今では、ホームルームが終わると自然と教室に残っている自分がいる。


「……慣れるものなんだな」


誰に言うでもなく呟きながら、俺は段ボール箱を机の上に置いた。


その瞬間。


「南くん」


聞き慣れた声が聞こえてくる。


振り向くと、舞夜がクリップボードを片手に立っていた。


相変わらず真面目な顔だ。


「どうした?」


「今日の作業ですけど、あと一つだけ残っています」


「あと一つ?」


舞夜は手元のリストを確認しながら、小さく頷いた。


「最後の看板です」


「看板?」


「教室の入り口に飾る、一番大きなものです」


言われて、教室の隅に立てかけられている巨大な板が目に入った。


俺は数秒、黙ってそれを見つめる。


そして、率直な感想を口にした。


「……でかすぎないか?」


縦も横も、どう考えても普通の看板のサイズじゃない。


むしろ、店の看板と言われたほうが納得できる。


「誰がこんなの作ったんだ?」


すると、少し離れた場所で作業していた結衣が、勢いよく手を挙げた。


「私です!」


「お前か」


「どう? 力作でしょ?」


「いや、まず聞きたいんだけど、何でこんなに大きいんだ?」


結衣は胸を張った。


「そのほうが目立つから!」


「小学生みたいな発想だな」


「褒め言葉として受け取っておくね!」


「褒めてない」


俺が呆れてため息をつくと、舞夜が苦笑した。


「でも、確かに目立つとは思います」


「お前まで肯定するのかよ」


「せっかくですから、目立ったほうがいいでしょう?」


「まあ、それはそうだけど……」


もう何を言っても無駄な気がしてきた。


俺が諦めかけた、その時。


教室の後ろの扉が勢いよく開いた。


「持ってきたぞー!」


そう言いながら現れたのは、大きな脚立を押している松だった。


教室中の視線が、一斉にそちらへ向く。


「……どこから持ってきたんだ、それ」


俺が尋ねると、松はなぜか誇らしげに笑った。


「企業秘密だ」


「絶対ろくでもない場所だろ」


「細かいことは気にするな」


嫌な予感しかしない。


俺は脚立と巨大な看板を見比べながら、小さく息を吐いた。


――どう考えても、嫌な予感しかしなかった。

「じゃあ、南くん。お願いします」


舞夜にそう言われ、俺は目の前の脚立を見上げた。


「いや、何で当然みたいに俺がやる流れになってるんだ?」


「身長が一番高いから」


舞夜が即答する。


「昨日も同じ理由で机を運ばされた気がするんだけど」


「気のせいです」


「絶対違うだろ」


すると、後ろから結衣が笑いながら口を挟んだ。


「大丈夫だよ、落ちても私たちが笑ってあげるから!」


「助ける気ゼロじゃねえか!」


「冗談冗談!」


全然冗談に聞こえない。


俺は大きくため息をつきながら、巨大な看板を持ち上げた。


思っていたより重い。


「これ、本当に教室に飾るんだよな?」


「もちろんです」


舞夜は真剣な顔で頷く。


「文化祭の顔になる看板ですから」


「責任重大だな……」


そう呟きながら、俺は脚立に足をかけた。


一段。


二段。


三段。


少しずつ視界が高くなっていく。


下を見ると、結構怖い。


「南ー、落ちるなよー」


松が気楽な声を飛ばしてくる。


「縁起でもないこと言うな!」


「冗談だって」


「お前の冗談は信用できないんだよ!」


教室のあちこちから笑い声が上がる。


そんな中、舞夜だけは真剣な表情で看板を見つめていた。


「もう少し右です」


「これくらいか?」


「いえ、あと少し」


俺は言われた通りに看板を動かす。


「今度は?」


「少し左です」


「さっき右って言ったよな?」


「今は左です」


「注文が多すぎるんだよ」


すると、舞夜は悪びれる様子もなく言った。


「完璧にしたいので」


「お前、本当に完璧主義だな」


「自覚しています」


「褒めてないぞ」


「知っています」


即答だった。


俺は思わず苦笑する。


「そういうところだけ素直なんだな」


「そうでしょうか?」


「間違いなくそうだ」


そんなやり取りを続けながら、俺は少しずつ看板の位置を調整していく。


そして、数分後。


「……はい、完璧です」


舞夜が満足そうに頷いた。


俺は大きく息を吐く。


「やっと終わった……」


肩の力を抜いた、その瞬間だった。


――ギシッ。


足元から、不吉な音が響いた。

――ギシッ。


足元から聞こえた不吉な音に、俺は思わず動きを止めた。


「……ん?」


嫌な予感がした。


ものすごく嫌な予感が。


ゆっくりと足元を見る。


すると、脚立がわずかに揺れていた。


「おい、何か揺れてないか?」


俺が下に向かって叫ぶと、結衣が首を傾げた。


「気のせいじゃない?」


「絶対気のせいじゃない!」


その瞬間。


脚立が再び小さく軋んだ。


ギシッ。


そして、ほんの少しだけ傾く。


「え、ちょっと待て」


「南くん、動かないでください!」


下から舞夜の声が飛んできた。


言われなくても動ける状況じゃない。


俺は慌てて脚立を両手で掴んだ。


「いやいやいや、何で今なんだよ!」


「落ち着いてください!」


「落ち着けるか!」


さらに脚立が揺れる。


ほんの数センチ。


たったそれだけなのに、上にいると恐ろしいほど大きく感じる。


「南、顔真っ青だぞ」


松が笑いを堪えながら言った。


「笑ってる場合か!」


「大丈夫だって、多分」


「その『多分』が一番怖いんだよ!」


すると、舞夜が脚立の前まで駆け寄ってきた。


そして、何も言わずに両手で脚立の土台をしっかり押さえる。


「南くん、絶対に動かないでください」


「いや、だから動いてない!」


「松くん、反対側をお願いします!」


「あいよ」


松も慌てて駆け寄り、反対側を支えた。


二人のおかげで、揺れは少しずつ収まっていく。


俺は恐る恐る息を吐いた。


「……助かった」


「まだです」


舞夜は真剣な顔のまま言った。


「ゆっくり降りてきてください」


「了解……」


一段ずつ、慎重に足を下ろしていく。


さっきまでは何とも思わなかった高さなのに、今はやけに遠く感じる。


そして、ようやく最後の段を降りた。


両足が床についた瞬間、全身の力が抜ける。


「はぁ……死ぬかと思った」


大きく息を吐きながら呟く。


すると、結衣がケラケラ笑いながら近づいてきた。


「大げさだなあ」


「じゃあ、お前が代わりに登れ」


「嫌」


即答だった。


「何でだよ」


「怖いから」


「お前、自分で言ってておかしいと思わないのか?」


「思う」


「思うのかよ」


「でも、怖いものは怖いし」


「とんでもない理論だな」


教室中から笑い声が上がる。


その横で、舞夜はまだ脚立を押さえたまま、小さく息を吐いていた。


「……本当に、無事でよかったです」


いつもの冷静な声。


だけど、どこか少しだけ安心したようにも聞こえた。


俺は苦笑しながら頭をかいた。


「心配しすぎだろ」


すると、舞夜は一瞬だけ黙り込み――。


「……心配くらいします」


小さな声で、そう答えた。


「え?」


聞き返そうとした、その時。


――ゴロゴロ。


遠くの空から、低い雷鳴が響いた。

――ゴロゴロ。


遠くから聞こえてきた雷の音に、教室中の視線が一斉に窓へ向かった。


「うわ、何か暗くない?」


結衣が窓の外を見ながら呟く。


俺も何となく顔を上げた。


さっきまで夕焼けが見えていた空は、いつの間にか厚い雲に覆われていた。


灰色の雲が空一面に広がっている。


「これは降るな」


松がそう言った直後だった。


ザーッ。


まるで合図を待っていたかのように、大粒の雨が一気に降り始めた。


「うわっ!」


「すごっ!」


「本降りじゃん!」


教室のあちこちから驚きの声が上がる。


窓ガラスを激しく叩く雨音が、さっきまでの賑やかな空気を一変させた。


それは、ただの雨じゃなかった。


まるでバケツをひっくり返したような土砂降りだった。


「あー、終わった」


自転車通学の男子が机に突っ伏す。


「傘持ってきてないんだけど……」


「俺もだ」


「帰れないじゃん」


そんな会話が次々と聞こえてくる。


浅見も窓の外を見ながら、小さくため息をついた。


「しばらく待つしかなさそうだね」


確かに、この雨の中を帰るのは無理だろう。


自転車組はもちろん、歩きでも厳しい。


結局、クラス全員が教室に残ることになった。


「よし、暇だからトランプやろう!」


結衣がどこからともなくカードを取り出す。


「何で持ってるんだよ」


「文化祭の備品箱に入ってた!」


「絶対違うだろ」


そんな俺たちを無視して、結衣は次々と仲間を集めていく。


「浅見、松、こっち来て!」


「え、私も?」


「もちろん!」


数分後には、教室の半分近くがトランプ大会に巻き込まれていた。


楽しそうな笑い声が響く。


俺はその輪には入らず、窓際へ向かった。


窓ガラスを叩く雨粒をぼんやりと眺める。


校庭には誰もいない。


聞こえるのは、絶え間なく降り続く雨音だけだった。


「……すごい雨だな」


思わず呟いた、その時。


「きれいですね」


すぐ隣から、静かな声が聞こえた。


振り向くと、そこには舞夜が立っていた。


彼女もまた、窓の外を見つめていた。


「八神、お前も残ってたのか」


「この雨では帰れませんから」


当然の答えだった。


しばらく、二人で黙って雨を眺める。


教室の賑やかな声が、どこか遠くに感じた。


やがて、舞夜が小さく口を開く。


「私、雨の日って好きなんです」


意外な言葉だった。


「へえ、そうなのか?」


舞夜は静かに頷く。


「雨が降ると、何だか世界が静かになる気がして」


俺は窓の外を見る。


確かに、いつも騒がしいグラウンドには誰もいない。


雨音だけが、一定のリズムを刻んでいる。


「……確かに、少し静かかもな」


そう言うと、舞夜は小さく微笑んだ。


その横顔を見ながら、俺はふと思った。


もしかしたら、こうして何気ない話をすること自体が、少し前の俺たちには想像できなかったことなのかもしれない、と。

「私、雨の日って好きなんです」


舞夜の言葉に、俺は少し驚いた。


「意外だな」


「そうですか?」


「ああ。何となく、もっと晴れてる日のほうが好きそうなイメージだった」


舞夜は窓の外を見つめたまま、小さく首を横に振った。


「昔から、雨の日は特別だったんです」


「特別?」


「はい」


窓ガラスを流れる雨粒を目で追いながら、舞夜は静かに続けた。


「小さい頃、雨が降ると、よく窓際に座っていました」


「窓際に?」


「外を眺めるのが好きだったんです」


その答えは、いつもの舞夜らしくない気がした。


勉強や成績の話ではない。


クラス委員としての責任感の話でもない。


ただ、幼い頃の思い出を話している。


そんな姿を見るのは、初めてだった。


「何を見てたんだ?」


俺が尋ねると、舞夜は少しだけ懐かしそうに笑った。


「いろいろ想像していました」


「想像?」


「はい。雨の中を歩いている人が、どこへ向かっているのかとか」


舞夜はそう言いながら、窓の向こうへ視線を向ける。


「何を探しているのかとか、誰に会いに行くのかとか……そんなことばかり考えていました」


「へえ……」


「今思えば、変な子だったかもしれません」


「いや、そんなことないだろ」


少なくとも、俺にはそうは思えなかった。


むしろ、今の話をしている舞夜は、いつもよりずっと自然に見えた。


「だから、小説を書きたいって思ったのか?」


俺がそう聞くと、舞夜は少しだけ驚いたようにこちらを見た。


そして、ゆっくりと頷く。


「……たぶん、そうなんだと思います」


その声は、とても穏やかだった。


「物語を考えている時間が好きだったんです」


舞夜は小さく笑う。


「雨の日は、いろんなことを想像できるから」


俺は返事をしなかった。


いや、できなかった。


目の前にいるのは、いつも完璧で、冷静で、何でもそつなくこなす八神舞夜だったはずなのに。


今、俺の隣にいる彼女は、まるで別人のようだった。


好きなものを語る時の表情。


夢を話す時の声。


そして、何より――。


その紫色の瞳は、今まで見たことがないほど輝いていた。


俺は、そんな舞夜の横顔をぼんやりと見つめる。


すると、舞夜が不思議そうに首を傾げた。


「どうかしましたか?」


「……いや」


俺は慌てて視線を窓の外へ戻した。


「何でもない」


そう答えたものの、本当は違った。


何でもなくなんて、なかった。


ただ――。


八神舞夜は、本当に小説を書くことが好きだったんだ。


そのことを、俺は今になってようやく理解した気がした。

それから三十分ほど経った頃。


激しかった雨音が、少しずつ静かになり始めた。


さっきまで窓を激しく叩いていた雨粒も、今ではぽつり、ぽつりと落ちるだけになっている。


「止んできたな」


俺がそう呟くと、舞夜も窓の外を見ながら小さく頷いた。


「そうですね」


教室のあちこちからも、安堵したような声が聞こえてくる。


「やっと帰れそう!」


「自転車、無事だといいけど……」


「絶対びしょ濡れだろ」


そんな会話が飛び交う中、雲の隙間から、わずかに夕日が差し込んできた。


オレンジ色の光が、雨上がりの校庭を静かに照らしている。


その時だった。


「あ」


思わず声が漏れた。


「どうしました?」


「ほら、あそこ」


俺は窓の外を指差した。


舞夜がその方向へ視線を向ける。


そして、数秒後――。


「……きれい」


小さく呟いた。


雨雲の向こう。


薄く広がる空の中に、一本の虹がかかっていた。


はっきりとしたものではない。


消えてしまいそうなほど淡い虹。


それでも、確かにそこにあった。


舞夜は窓のすぐそばまで近づき、静かにその景色を見つめていた。


紫色の瞳が、夕日に照らされている。


「虹なんて、久しぶりに見ました」


「俺もだ」


「何だか、不思議ですね」


「何が?」


舞夜は少し考えるように視線を落とした。


「さっきまであんなに激しく雨が降っていたのに、今はこんな景色が見えるんですから」


「……確かにな」


そう答えると、舞夜は小さく微笑んだ。


それは、誰かに見せるための笑顔じゃなかった。


クラスメイトに向ける、優等生らしい笑顔でもない。


無理をして作ったものでもない。


ただ純粋に、目の前の景色を見て、自然にこぼれた笑顔だった。


穏やかで。


優しくて。


そして、どこか幼い。


俺は、その横顔から目を離せなかった。


――毎日、あんなふうに笑っていてほしい。


ふと、そんなことを思った。


だけど、その考えが頭に浮かんだ瞬間、胸の奥が妙にざわついた。


どうして、そんなことを願ってしまったのか。


どうして、八神舞夜の笑顔をこんなにも気にしているのか。


その答えは、まだ分からない。


いや、もしかしたら――。


分かりたくなかったのかもしれない。


「そろそろ帰りましょうか」


舞夜の声で、我に返る。


「あ、ああ」


俺は慌てて窓の外から視線を逸らした。


教室では、みんなが帰る準備を始めている。


文化祭まで、あと少し。


そして、八神舞夜と過ごす時間も、少しずつ増えていく。


その時の俺は、まだ知らなかった。


この何気ない放課後の記憶が、いつか特別なものになることを。

第二十五話『雨の向こうの君』を読んでいただき、ありがとうございました。


文化祭の準備が続く中、大樹は少しずつ、舞夜の知らなかった一面を知り始めます。


雨の日の思い出、小説への憧れ、そして彼女の素直な笑顔。


その気持ちが何なのか、大樹自身もまだ分かっていません。


文化祭まで残された時間はあと少し。


それでは、また第二十六話でお会いしましょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ