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少しずつ変わる日常

翌日。


教室の扉を開けた瞬間、俺は思わず足を止めた。


「……何だこれ」


そこに広がっていたのは、いつもの教室じゃなかった。


段ボール箱。


木の板。


大量の布。


ポスター用の紙。


ペンキ。


そして、なぜか大量のガムテープ。


机と椅子の間を縫うように、それらがあちこちに積み上げられていた。


もはや教室というより、倉庫だった。


「誰だよ、こんなに注文したの」


呆れながらそう聞くと、教室の真ん中で作業をしていた結衣が、何事もないように振り返った。


「私たちだよ」


「『私たち』って誰だよ」


「クラス全員」


「絶対嘘だろ」


俺は近くに置かれていた大きな布のロールを指差した。


「そもそも、何でこんなに布が必要なんだ?」


「安かったから」


「それ、質問の答えになってないよな?」


「細かいことは気にしない!」


気にするだろ。


というか、気にしないといけない量だった。


四つも五つも布のロールが転がっている。


どう考えても使い切れない。


「文化祭って、こんな大掛かりなものだったのか……」


思わず呟く。


すると、後ろから松が肩をすくめた。


「まだ序の口だぞ」


「嘘だろ?」


「来週になったら、もっと増える」


「もう教室として機能しなくなるんじゃないか?」


「その頃には誰も気にしなくなる」


恐ろしいことを言うな。


周りを見渡すと、クラスメイトたちはすでに作業を始めていた。


段ボールを運ぶ者。


ポスターを描く者。


机を移動させる者。


みんな、意外なほど真面目に動いている。


数日前まで、文化祭なんてただの面倒事だと思っていた。


なのに、気づけば教室全体が、その準備の空気に包まれていた。


「本当にやるんだな……」


そんなことを考えながら、自分の席へ向かう。


そして、その途中。


教室の一番奥で、何かを確認している舞夜の姿が目に入った。


大量の資料を片手に、何かを書き込みながら、クラスメイトたちに指示を出している。


その姿は、昨日の制服姿とはまるで違っていた。


真剣で。


落ち着いていて。


そして――。


誰よりも、この文化祭のことを考えているように見えた。


「……朝から働きすぎだろ」


思わずそう呟く。


すると、まるで聞こえていたかのように、舞夜がこちらを振り向いた。


俺たちの視線がぶつかる。


舞夜は小さく会釈をした。


俺も軽く手を上げる。


それだけ。


たったそれだけのやり取りだった。


なのに、なぜか昨日までとは少し違って感じた。


そして、その時の俺はまだ知らなかった。


今日一日だけで、俺と八神舞夜の距離が、また少し変わることになるなんて。

放課後。


ホームルームが終わると同時に、教室の空気が一変した。


「ポスター班、こっち手伝って!」


「机を後ろに下げてー!」


「誰かガムテープ持ってない?」


あちこちから声が飛び交う。


さっきまで授業を受けていた場所とは思えないほどの騒がしさだった。


文化祭の準備が、本格的に始まったのだ。


あるグループは看板を作り。


別のグループは机の配置を変える。


接客担当の連中は、客への挨拶を練習していた。


そして――。


「何で俺だけ力仕事なんだよ……」


俺は大きな机を持ち上げながら、小さく文句を言った。


「諦めろ」


向かい側で同じように机を運んでいた松が、当然のように言う。


「どうして俺なんだ?」


「身長が高いから」


「理不尽だろ」


「世の中なんてそんなもんだ」


納得できるわけがない。


重たい机を運びながらため息をつくと、松が急にニヤリと笑った。


「まあ、お前には別の仕事もあるけどな」


「何だよ、それ」


「後ろを見てみろ」


「は?」


嫌な予感しかしない。


俺は振り返る。


すると、教室の一番奥で、舞夜が何かのリストを確認していた。


資料を片手に、クラスメイトたちへ指示を出している。


そして、ちょうどその瞬間。


舞夜が顔を上げた。


目が合う。


ほんの一瞬。


彼女は小さく頭を下げると、何事もなかったかのように再び作業へ戻っていった。


「……別に普通だろ」


俺がそう言うと、松は呆れたように肩をすくめた。


「いや、絶対お前のこと見てただろ」


「気のせいだ」


「お前、本当に鈍いな」


「鈍くない」


「いや、鈍い」


「違う」


「違わない」


「違う」


「……少しは認めろよ」


「認めない」


松は深いため息をついた。


「重症だな」


「その言葉、最近流行ってるのか?」


「少なくとも俺たちの間では流行ってる」


全然うれしくない。


そんなくだらない会話をしているうちに、ようやく机を運び終えた。


俺は肩を回しながら、もう一度教室の奥を見る。


舞夜は相変わらず忙しそうに動き回っていた。


あっちの机を少し動かして。


こっちの看板の位置を直して。


誰かに頼まれる前に、次の仕事を見つけている。


「働きすぎじゃないか、あいつ……」


思わず呟く。


すると、近くにいた浅見が笑った。


「舞夜って、何かを任されると完璧にやろうとするんだよ」


「完璧主義ってやつか」


「うん。でも、そのおかげで助かってる人も多いんだよ」


そう言って、浅見は嬉しそうに舞夜のほうを見た。


俺も何となく視線を向ける。


その時だった。


「南くん」


聞き慣れた声が、教室の奥から聞こえてきた。

「南くん」


教室の奥から聞こえてきた声に、俺は振り返った。


そこには、クリップボードを抱えた舞夜が立っていた。


「何だ?」


「窓際の机、あと少し右に動かせますか?」


俺は言われた方向を見る。


確かに、机と机の間が少し狭い。


「これくらいか?」


机を軽く押す。


舞夜は数歩後ろへ下がり、真剣な表情で全体を見渡した。


「……あと五センチです」


「いや、細かすぎるだろ」


「大事です」


即答だった。


「お客さんが通る場所なので、少しでも広いほうがいいです」


「そこまで考えてたのか」


「当然です」


そう言いながら、舞夜は手元のメモに何かを書き込んだ。


そのまま別のグループのところへ向かう。


「その看板、少し傾いています」


「え、本当?」


「左を少し上げれば大丈夫です」


「あ、直った!」


「ありがとうございます」


さらに別の場所へ。


「そちらの箱、カップが三つ足りません」


「えっ、何で分かったの?」


「さっき確認しました」


「すごい……」


教室のあちこちから、感心した声が上がる。


俺は思わず、その様子をぼんやり眺めていた。


「怖いな、八神さん」


近くにいた男子が苦笑しながら呟く。


すると、その隣にいた浅見が首を横に振った。


「怖くないよ」


「いや、絶対怖いだろ」


「違うって。舞夜がいると安心するんだよ」


「安心?」


「うん。舞夜が何かを任されたら、絶対に成功するってみんな思ってるから」


その言葉を聞いて、周りの何人かも頷いていた。


確かに、その通りかもしれない。


文化祭の準備が始まって、まだ一時間も経っていない。


それなのに、さっきまで倉庫みたいだった教室が、少しずつカフェらしくなってきている。


机の配置。


飾りつけ。


看板。


全部が、少しずつ形になっていく。


その中心にいるのは、間違いなく舞夜だった。


「……働きすぎだろ、あいつ」


思わず呟く。


松が隣で笑った。


「真面目だからな」


「真面目ってレベルじゃないだろ」


「でも、お前も結構見てるよな」


「見てない」


「いや、見てる」


「見てない」


「……少しは認めろ」


「認めない」


「頑固だな」


そう言われた瞬間――。


「南くん」


また、聞き慣れた声がした。


気づけば、舞夜がすぐ目の前に立っていた。


両手で、小さな段ボール箱を抱えている。


「少し、手伝ってもらえますか?」


俺は箱を見下ろし、小さくため息をついた。


「……嫌な予感しかしないな」


「気のせいです」


「お前が言うと、全然安心できないんだけど」

「少し、手伝ってもらえますか?」


舞夜が抱えている段ボール箱を見て、俺は眉をひそめた。


「何が入ってるんだ?」


「食器です」


「なるほど。重そうなわけだ」


見た目以上に大きい箱だった。


俺が片側を持ち上げると、予想通り、ずっしりとした重みが腕に伝わってくる。


「これ、どこまで運ぶんだ?」


「あちらのテーブルです」


舞夜が教室の奥を指差した。


意外と遠い。


「分かった。落とさないように気をつけろよ」


「南くんこそ、気をつけてください」


「信用ないな、俺」


「少しだけです」


「少しだけなのかよ」


そんなことを話しながら、俺たちはゆっくりと歩き始めた。


教室の中は相変わらず騒がしい。


誰かが看板を作り、誰かが机を運び、結衣の笑い声がどこかから聞こえてくる。


そんな中、俺たちは人を避けながら進んでいた。


そして――。


悲劇は突然やってきた。


「あ」


床に落ちていた布のロール。


誰かが使ったまま、その場に放置していたらしい。


気づいた時には、もう遅かった。


俺の足が、その布に引っかかる。


「うわっ――!」


体勢が崩れる。


当然、箱も傾いた。


「危ない!」


舞夜がとっさに箱を支える。


俺も慌てて持ち直そうとした。


しかし、勢いを止めきれない。


結局、二人とも前のめりになりながら、何とか箱を落とさないように踏ん張ることになった。


「っ……!」


「……!」


食器の入った箱が、俺たちの間に挟まっている。


あと少しバランスを崩していたら、間違いなく全部床に落ちていただろう。


数秒後。


ようやく体勢を立て直し、俺は小さく息を吐いた。


「危なかった……」


「そうですね……」


舞夜も、ほっとしたように呟く。


だが、その瞬間。


俺はようやく、自分たちが今どんな状態なのかを理解した。


俺と舞夜の距離は――。


驚くほど近かった。

「危なかった……」


俺がそう呟いた直後だった。


目の前にある光景を理解して、言葉を失う。


近い。


いや、近すぎる。


俺と舞夜は、食器の入った箱を挟んだまま、ほとんど顔が触れそうな距離で向かい合っていた。


「……」


「……」


お互い、何も言わない。


いや、言えなかった。


舞夜も驚いているのか、大きな瞳を何度か瞬かせている。


その紫色の瞳が、すぐ目の前にあった。


近い。


本当に近い。


こんな距離で誰かと向かい合ったことなんて、今まであっただろうか。


心臓の音が、やけにうるさく聞こえる。


舞夜も同じことを考えているのか、頬が少し赤くなっているように見えた。


時間が止まったような感覚だった。


ほんの数秒のはずなのに、妙に長く感じる。


――その時。


「二人とも、大丈夫?」


浅見の声が、教室の空気を一瞬で現実に引き戻した。


「あっ……!」


「……っ!」


俺たちは同時に体を離した。


そして、同時に答える。


「だ、大丈夫だ」


「だ、大丈夫です」


また同時だった。


教室の反対側から、結衣の楽しそうな声が飛んでくる。


「二人とも、息ぴったりだね~」


「うるさい」


「うるさいです」


また同時。


数秒の沈黙の後――。


教室中が笑い声に包まれた。


「いや、もう完全にカップルじゃん!」


「毎日シンクロ率が上がってない?」


「文化祭が終わる頃には結婚してそう」


「話が飛躍しすぎだろ!」


思わず叫ぶ。


しかし、誰も聞いていない。


むしろ松まで拍手を始めた。


「おめでとう、南。ここまで来たら、もう認めろ」


「何をだよ」


「八神さんとの関係を」


「だから違うって言ってるだろ!」


すると、舞夜も少し頬を赤くしながら首を横に振った。


「違います」


俺たちはまた、ほとんど同時に否定した。


すると今度は、クラス全員が声を揃えた。


「いや、絶対違わない!」


「何で全員そっち側なんだよ!」


「多数決だよ!」


「そんな多数決、認めるか!」


完全に負け戦だった。


俺は大きくため息をつく。


隣を見ると、舞夜も小さく肩を落としていた。


どうやら、諦めているらしい。


……まあ、この状況で言い返しても、余計にからかわれるだけなんだけどな。

それから数時間。


気づけば、窓の外はオレンジ色に染まり始めていた。


「終わったぁー!」


結衣が大きく伸びをしながら叫ぶ。


その声を合図にしたかのように、教室のあちこちから疲れ切ったため息が聞こえてきた。


「腰が痛い……」


「もう一歩も動けない……」


「文化祭って、こんなに大変だったんだな……」


みんな、それぞれ机や椅子に座り込みながら、今日の作業の成果を眺めていた。


俺も近くの椅子に腰を下ろし、教室を見回す。


朝、ここへ入ってきた時とは、まるで別の場所だった。


壁には手作りのポスター。


窓際には飾りつけ。


机も、カフェらしい配置に並べ替えられている。


もちろん、まだ終わってはいない。


細かい作業は山ほど残っている。


それでも――。


文化祭は、もうただの行事じゃなかった。


少しずつ、本物になり始めていた。


「意外と、それっぽくなってきたな」


俺が何気なく呟くと、隣にいた松が笑った。


「だろ?」


「最初は絶対無理だと思ってた」


「俺も」


「お前もかよ」


「全員そう思ってたんじゃないか?」


確かに、そうかもしれない。


数週間前までは、文化祭なんてただ面倒なイベントだと思っていた。


なのに、今は少しだけ違う。


教室の空気も。


クラスの雰囲気も。


そして――俺自身も。


帰る準備を始めるクラスメイトたちをぼんやり眺めていると、不意に視線が止まった。


教室の一番奥。


窓際に立つ舞夜の姿だった。


舞夜は、一人静かに教室を見渡していた。


完成しかけた装飾。


並べられた机。


楽しそうに話すクラスメイトたち。


その光景を見つめながら、彼女は小さく微笑んでいた。


噂のせいでもない。


制服のことでもない。


俺がいるからでもない。


ただ純粋に。


みんなと一緒に作業をした、この時間そのものを楽しんでいるようだった。


その笑顔は、いつもの冷静な八神舞夜とは少し違って見えた。


柔らかくて。


穏やかで。


そして、どこか楽しそうだった。


俺は、そんな横顔をぼんやり見つめる。


すると、その瞬間。


舞夜がこちらを振り向いた。


視線が合う。


数秒の沈黙。


だが、今度はどちらも慌てて目を逸らさなかった。


舞夜は小さく首を傾げる。


俺は何でもないふりをして、窓の外へ視線を向けた。


――もっと。


もっと、あんなふうに笑ってくれればいいのに。


そんなことを考えた。


もちろん、口に出したりはしない。


いや、できるわけがない。


だから俺は、その気持ちを胸の奥に押し込めたまま、静かに立ち上がった。


文化祭まで、あと少し。


そして俺たちの関係も、きっと少しずつ変わっていく。


その時の俺は、まだ知らなかった。


この文化祭が、俺と八神舞夜の日常を大きく変えていくことになるなんて。

第二十四話『少しずつ変わる日常』を読んでいただき、ありがとうございました。


文化祭の準備が本格的に始まり、教室は少しずついつもの姿を失っていきます。


段ボールや飾り付けに囲まれながら、大樹と舞夜もまた、今までとは違う時間を過ごすようになっていきました。


ほんの少し近づいた距離。


何気ない会話。


偶然重なった視線。


そして、誰にも気づかれない小さな変化。


本人たちはまだ認めようとしませんが、二人の関係は確実に変わり始めています。


一方で、文化祭の準備はまだ始まったばかり。


クラス全員で作り上げる特別な時間の中で、大樹と舞夜はどんな思い出を重ねていくのでしょうか。


そして、大樹が見つめた舞夜の笑顔には、どんな意味が込められているのでしょうか。


それでは、また第二十五話でお会いしましょう。

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