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君の一言が欲しくて

まだ、出てこない。


俺が更衣室の前で待ち始めてから、もう何分経っただろう。


五分どころじゃない。


十分近くは経っている気がする。


「八神さん?」


実行委員の女子生徒が、もう一度扉をノックした。


「本当に大丈夫ですか?」


返事はない。


静寂だけが廊下を包む。


さっきまで聞こえていた生徒たちの声も、今は妙に遠く感じられた。


「困ったな……」


女子生徒が心配そうに呟く。


すると、数秒後。


扉の向こうから、小さな声が聞こえてきた。


「……大丈夫です」


かろうじて聞き取れるくらいの声だった。


だけど――。


嘘だ。


俺には分かった。


なぜか分からないけど、分かってしまった。


あいつが本当に平気な時は、もっと淡々としている。


今の返事は違う。


何かを隠している時の声だった。


昨日だってそうだった。


『分かりません』


そう言いながら、本当は小説家になりたいと思っていた。


『大丈夫です』


そう言いながら、本当は全然大丈夫じゃなかった。


だから、今の「大丈夫」も、きっと同じだ。


俺は小さく息を吐いた。


「おい、八神」


思わず声をかける。


すると、扉の向こうで何かが揺れたような気がした。


まるで、俺の声が聞こえてくるなんて思っていなかったみたいに。


「……何でしょうか」


いつもより少しだけ慌てた声。


「本当に大丈夫か?」


聞いた瞬間、自分でも驚いた。


昨日の俺なら、こんなことは聞かなかったはずだ。


面倒事には関わりたくない。


それが今までの俺だった。


なのに、今は違う。


理由は分からない。


ただ、気になってしまう。


扉の向こうにいる八神舞夜のことが。


数秒の沈黙。


そして――。


「……大丈夫です」


また同じ返事だった。


だけど、その声は震えていた。


俺は苦笑する。


「嘘だな」


「……え?」


「お前、何か隠してる時、そういう声になるだろ」


扉の向こうが静まり返る。


図星だったらしい。


しばらくして、小さなため息が聞こえた。


「南くんは、変なところで鋭いですね」


「褒め言葉として受け取っておく」


「褒めていません」


「知ってる」


いつものやり取り。


なのに、なぜだろう。


今の俺には、それが妙に心地よく感じられた。


そして、その時だった。


更衣室の向こうから、ゆっくりと鍵が外れる音が聞こえた。

カチャッ。


静かな廊下に、小さな音が響いた。


更衣室の鍵が外れる音。


俺も、実行委員の女子生徒も、同時に扉へ視線を向ける。


ゆっくりと。


本当にゆっくりと。


ドアノブが回った。


そして、少しずつ扉が開いていく。


最初に見えたのは、白い袖だった。


その次に、細い指先。


そして――。


八神舞夜が、姿を現した。


「……」


誰も何も言わなかった。


いや、言えなかった。


黒を基調とした、落ち着いたカフェの制服。


白いエプロンは綺麗に整えられ、胸元には小さなリボンがついている。


派手さはない。


露出が多いわけでもない。


どこにでもありそうな、ごく普通の制服だった。


なのに――。


似合いすぎていた。


いや、そんな言葉じゃ足りない。


驚くほど自然だった。


まるで、最初からその制服のために用意されていたみたいだった。


長い黒髪はいつも通り肩まで流れ、制服の落ち着いた雰囲気と不思議なくらい合っている。


数秒間。


廊下には沈黙だけが流れていた。


最初に口を開いたのは、実行委員の女子生徒だった。


「わあ……!」


小さな歓声。


その声で、俺もようやく現実に引き戻される。


「八神さん、すごく似合ってます!」


別の女子生徒も、慌てて立ち上がった。


「本当に可愛い……。まるでオーダーメイドみたい」


「絶対人気出ますよ、これ!」


次々と飛んでくる褒め言葉。


だけど、その中心にいる舞夜本人は、嬉しそうな顔をしていなかった。


むしろ逆だった。


視線は床へ落ちたまま。


両手でエプロンの端をぎゅっと握り締めている。


ほんの小さな仕草。


だけど、それだけで彼女が緊張していることは十分伝わってきた。


そして、しばらくして。


舞夜は消え入りそうな声で呟いた。


「……変じゃ、ありませんか?」


今にも消えてしまいそうな声だった。


その瞬間、実行委員たちは一斉に首を横に振る。


「全然変じゃないです!」


「むしろ、すごく似合ってます!」


「本当に綺麗ですよ!」


次々と返ってくる言葉。


舞夜は小さく頭を下げる。


「……ありがとうございます」


そう言いながらも、彼女はまだ一度も俺のほうを見ようとしなかった。


まるで、何かを恐れているみたいに。


そして、その理由を。


俺はまだ、知らなかった。

「南くん」


不意に、実行委員の女子生徒に声をかけられた。


「え?」


間の抜けた返事をしてしまう。


女子生徒は、にこにこと笑いながら俺を見た。


「どうですか?」


「どうって?」


「八神さんの制服姿です」


「……は?」


嫌な予感しかしなかった。


というか、嫌な予感そのものだった。


気づけば、周りにいた全員の視線が俺に集まっている。


実行委員たち。


そして――。


八神舞夜。


ほんの一瞬だけ、彼女と目が合った。


すぐに逸らされたけど、確かに俺を見ていた。


「いや、俺に聞くなよ」


思わずそう言う。


「代表なんですから、感想くらい言ってあげてくださいよ」


「そんな無茶な……」


無茶だろ。


こんなの、どう答えても地雷じゃないか。


頭の中で必死に考える。


落ち着け。


変なことを言うな。


正直に言いすぎるのも駄目だ。


だからといって、適当に答えるのも違う。


どうする。


どうする、俺。


「……南くん?」


舞夜が、不安そうな声で俺の名前を呼ぶ。


その声で、俺は我に返った。


目の前には、制服姿の八神舞夜。


さっきまで、更衣室から出てこられないほど悩んでいた本人。


そんな顔をされたら、適当なことなんて言えるわけがなかった。


俺は小さく息を吸う。


そして――。


「……似合ってると思う」


言った。


ついに言ってしまった。


廊下が静まり返る。


実行委員たちまで、なぜか黙っている。


なんだ、この空気。


恥ずかしくなった俺は、慌てて言葉を付け足した。


「いや、その……普通に似合ってるって意味だからな」


完全に言い訳だった。


自分でも何を言っているのか分からない。


すると、舞夜は少しだけ目を見開いた。


「……そうですか」


小さな声。


だけど、その直後。


彼女は本当にわずかに、口元を緩めた。


「ありがとうございます」


たった一言。


それだけだった。


なのに、その「ありがとうございます」は、いつもとは少し違って聞こえた。


柔らかくて。


どこか嬉しそうで。


そして――。


まるで、その言葉をずっと待っていたかのようだった。


俺は、なぜか急に落ち着かなくなって、思わず視線を逸らした。


すると、隣で実行委員の女子生徒たちが、小さな声で何かを話しているのが聞こえてきた。


「絶対、両思いだよね……」


「うん、あれはもう確定でしょ……」


「聞こえてるぞ」


俺がそう言うと、彼女たちは慌てて口を押さえた。


一方、舞夜はというと――。


耳まで真っ赤になりながら、黙って俯いていた。

穏やかな空気が続いたのは、ほんの数秒だった。


――バンッ!


突然、勢いよく扉が開かれる。


「見に来たよー!」


聞き覚えしかない声だった。


「……嫌な予感が当たった」


先頭にいたのは、もちろん田中結衣。


その後ろには、松、浅見、水子の三人が並んでいた。


「お前ら、何でここにいるんだよ!」


思わず叫ぶ。


すると、結衣は胸を張って答えた。


「情報網を甘く見ないでほしいね」


「怖いこと言うな」


「褒め言葉として受け取っておくよ」


「褒めてない」


「知ってる」


こいつ、本当に厄介だ。


その横で、松が俺の制服姿を上から下まで眺める。


「へえ、意外と似合ってるじゃないか」


「どうも」


「まあ、お前は普通だな」


「一言余計なんだよ」


「事実だからな」


最近、みんなその言い訳ばっかり使ってないか?


そんなことを考えていると、松の視線がゆっくりと舞夜へ向いた。


そして――。


「……」


黙った。


完全に黙った。


「おい、松?」


返事がない。


「生きてるか?」


「……兄弟」


「何だよ」


松は真剣な顔のまま、俺の肩にそっと手を置いた。


「もし、お前が八神さんに惚れないなら――」


嫌な予感しかしない。


「俺が直接、病院に連れて行ってやる」


「何でだよ!」


「目に重大な異常があるとしか思えない」


「失礼すぎるだろ!」


周りから笑い声が上がる。


結衣なんて、腹を抱えて笑っていた。


「松くん、それは言いすぎ!」


「いや、事実だ」


「お前もその言葉を覚えたのか」


「最近の流行だからな」


流行ってほしくない。


ふと、舞夜のほうを見る。


彼女は片手で口元を隠しながら、顔を真っ赤にしていた。


耳まで赤い。


完全に赤い。


浅見が慌てて舞夜に近づく。


「ま、舞夜、大丈夫?」


「……大丈夫ではありません」


「まだ言ってる!」


結衣が楽しそうに机を叩く。


「八神さん、顔真っ赤だよ!」


「気のせいです」


「いや、絶対気のせいじゃないから!」


「気のせいです」


「押し切る気!?」


いつもなら冷静に言い返す舞夜が、今日は明らかに調子を崩していた。


そんな彼女を見て、みんなはますます面白がっている。


そして俺は、なぜかそんな舞夜から目を離せなくなっていた。

「それにしても、本当に似合ってるね」


結衣が感心したように腕を組みながら言った。


「まるで最初からその制服を着るために生まれてきたみたい」


「さすがに大げさでしょ」


俺がそう突っ込むと、結衣は真顔で首を横に振った。


「いや、本気で言ってる」


「田中さんの言う通りです」


実行委員の女子生徒まで頷く。


「八神さんが歩いていたら、絶対にお客さんが集まりますよ」


「そ、そうでしょうか……」


舞夜は戸惑ったように視線を泳がせる。


相変わらず落ち着かない様子だった。


その隣で、水子が静かに口を開く。


「舞夜、すごく綺麗」


「……ありがとう」


「でも、さっきから全然落ち着いてないね」


浅見が苦笑しながら言う。


すると、舞夜は少しだけ肩を震わせた。


「そ、そんなことはありません」


「いや、あるでしょ」


結衣が即座に否定する。


「さっきから五回くらいエプロン触ってるよ?」


「……」


舞夜は無言で自分の手元を見下ろした。


気づいていなかったらしい。


その反応を見た結衣は、ますます楽しそうに笑う。


「もしかして、誰かさんに見られるのが恥ずかしいとか?」


「ぶっ!」


危うく咳き込みそうになった。


一方、舞夜は完全に固まっている。


「え、図星?」


「ち、違います」


「今の間は怪しいなあ」


「怪しくありません」


「でも顔真っ赤だよ?」


「気のせいです」


「さっきも聞いた、そのセリフ」


結衣はニヤニヤしながら俺のほうを見る。


嫌な予感しかしない。


「南くんはどう思う?」


「何がだよ」


「八神さん、何でこんなに照れてると思う?」


「知らない」


即答した。


というか、知りたくなかった。


知ってしまったら、何かが変わってしまう気がしたからだ。


「へえー?」


結衣は明らかに疑っている顔をしていた。


その時だった。


隣で黙っていた松が、真面目な顔で口を開く。


「兄弟」


「今度は何だよ」


「お前、本当に分かってないのか?」


「だから何がだよ」


松は深いため息をついた。


そして、俺の肩を軽く叩く。


「……重症だな」


「だから何なんだよ!」


周りから笑い声が上がる。


舞夜は恥ずかしそうに俯いたまま、小さくため息をついていた。


騒がしい。


本当に騒がしい。


なのに、不思議と嫌じゃなかった。


そして、その騒ぎの中で――。


舞夜だけが、時々こちらを見ては、すぐに視線を逸らしていることに。


その時の俺は、まだ気づいていなかった。

騒がしかった部屋も、気づけば少しずつ静かになっていた。


結衣は実行委員たちと楽しそうに話し、浅見と水子は舞夜の制服を褒め続けている。


松は相変わらず、「兄弟は重症だ」と意味の分からないことを呟いていた。


そんな中、俺は何となく窓の外へ視線を向ける。


夕日が校庭をオレンジ色に染めていた。


文化祭まで、あと三週間。


少し前までの俺なら、こんな面倒事に巻き込まれるなんて想像もしていなかった。


代表になって。


噂が広まって。


放課後を一緒に過ごして。


そして今、俺は八神舞夜の制服姿を見ている。


「……変な感じだな」


思わず、小さく呟いた。


その時だった。


「南くん」


不意に名前を呼ばれる。


振り向くと、少し離れた場所に舞夜が立っていた。


「ん?」


「その……」


珍しく、言葉を探しているようだった。


さっきまでのみんなの騒ぎのせいか、耳はまだ少し赤い。


舞夜は一度視線を下げる。


そして、ゆっくりと顔を上げた。


俺たちの視線が重なる。


ほんの数秒。


だけど、なぜかその時間だけ、周りの声が遠くなった気がした。


「……ありがとうございます」


「え?」


「さっきの言葉です」


小さな声だった。


だけど、今度ははっきりと聞こえた。


『似合ってる』


たった一言。


俺にとっては、深い意味なんてなかった。


思ったことを、そのまま口にしただけだった。


なのに――。


舞夜は、本当に嬉しそうに笑っていた。


今まで見たことのないくらい、優しい笑顔だった。


「そんなに気にしてたのか?」


何気なく聞く。


すると、舞夜は一瞬だけ驚いた顔をした後、困ったように微笑んだ。


「……秘密です」


「またそれか」


「秘密だからです」


「便利な言葉だな」


「便利なんです」


そう言って、舞夜は小さく笑った。


つい数十分前まで、更衣室から出ることさえできなかったとは思えないほど、穏やかな表情だった。


そして俺は、そんな彼女を見ながら、ふと思う。


もしかしたら。


本当に少しだけ。


俺の言葉が、彼女を安心させたのかもしれない、と。


……もちろん、本人に言うつもりはない。


絶対に。


すると、その瞬間。


「おーい!」


結衣の声が部屋中に響いた。


「二人とも、さっきからいい雰囲気すぎない?」


「違う!」


「違います!」


また同時だった。


部屋中に笑い声が広がる。


舞夜は恥ずかしそうに顔を背け、俺は大きくため息をついた。


だけど――。


彼女が制服を着ていることを、もう気にしていないように見えたのは、きっと気のせいじゃなかった。


そして、その時の俺はまだ知らなかった。


文化祭が終わる頃には、この制服姿を見慣れてしまうくらい、八神舞夜の隣にいることになるなんて。

第二十三話『君の一言が欲しくて』を読んでいただき、ありがとうございました。


制服の試着という何気ない出来事でしたが、舞夜にとっては決して小さな問題ではありませんでした。


誰にどう思われるかではなく、たった一人――大樹にどう見られるのか。


それこそが、彼女をあれほど緊張させていた理由だったのかもしれません。


一方の大樹も、まだ自分の気持ちに気づいてはいません。


けれど、舞夜の表情や言葉一つひとつを、以前よりもずっと気にするようになっています。


たった一言の「似合ってる」。


その何気ない言葉が、二人の距離を少しだけ縮めました。


文化祭まで残された時間は、あとわずか。


これから二人の関係は、どのように変わっていくのでしょうか。


それでは、また第二十四話でお会いしましょう。

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