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君にだけ見せたくない

眠れなかった。


最悪なほど、眠れなかった。


試験のせいじゃない。


宿題のせいでもない。


文化祭のせいでもない。


原因は、たった一つの言葉だった。


――『……南くんが、見るからです』


「どういう意味なんだよ、それ……」


天井を見つめながら、小さく呟く。


分からない。


いや、違う。


分からないんじゃない。


何度考えても、答えにたどり着けないんだ。


考えれば考えるほど、新しい疑問が浮かんでくる。


結局、俺は夜中まで布団の上で悩み続けていた。


「最高だな……」


乾いた笑いが漏れる。


「最近は寝てる間まで八神のことを考えるのか、俺は」


誰に聞かせるでもない独り言は、静かな部屋に消えていった。


そして――。


翌朝。


「大樹ー!」


一階から母さんの声が響く。


「遅刻するわよー!」


「今行く!」


慌てて時計を見る。


「……やばい」


完全に寝坊していた。


俺はベッドから飛び起き、そのまま階段を駆け下りる。


危うく最後の数段で転びかけながら、なんとかリビングへたどり着いた。


そんな俺を見て、母さん――美波香澄は苦笑した。


「すごい顔してるわね」


「どんな顔だよ」


「ゾンビみたい」


「朝からひどくない?」


「事実だから仕方ないわ」


容赦がない。


俺が席に座ると、向かいにいた妹の多恵子がトーストをかじりながら口を開いた。


「昨日、彼女と遅くまで話してたの?」


思わず飲んでいたお茶を吹き出した。


「は?」


「お母さんが言ってた」


「母さん!?」


俺が勢いよく振り向くと、香澄は悪びれる様子もなく肩をすくめた。


「私は近所の人が言ってたことを、そのまま伝えただけよ」


「近所!?」


「あと、学校のお母さんたちも」


「増えてるじゃねえか!」


絶望した。


噂が学校の外にまで広がっている。


終わりだ。


完全に終わった。


俺の平穏な高校生活は、もう戻ってこないのかもしれない。


そんなことを考えながら、俺は冷めかけた朝食を口に運んだ。


……そして、その時の俺はまだ知らなかった。


今日が、昨日以上に疲れる一日になることを。

いつもより少し重い足取りで学校へ向かう。


寝不足のせいか、それとも別の理由か。


正直、自分でもよく分からなかった。


ただ、一つだけ確かなことがある。


今日は、八神舞夜と顔を合わせなければならない。


しかも、昨日のあの会話の後で。


「最悪だ……」


小さくため息をつきながら、教室の扉を開ける。


まだ始業の十分前。


教室には数人しかいなかった。


そして――。


予想通り、彼女はもう席に座っていた。


八神舞夜。


窓際の席で、本を読んでいる。


いつも通りの光景。


静かで、落ち着いていて、誰も近寄りがたい雰囲気をまとっている。


……なのに。


昨日のことを知っているせいか、なぜか少し違って見えた。


『小説を書いてみたいんです』


ふと、昨日の放課後に聞いた言葉を思い出す。


誰にも話したことのない夢。


恥ずかしそうに語っていた、あの横顔。


気づけば、俺は小さく笑っていた。


その瞬間。


舞夜が本から顔を上げる。


視線がぶつかった。


「おはようございます」


いつも通りの声。


だけど、ほんの少しだけ緊張しているようにも聞こえた。


「……お、おはよう」


危うく噛みそうになりながら返事をする。


沈黙。


気まずい。


ものすごく気まずい。


昨日の最後のやり取りを、お互いにはっきり覚えているからだ。


『……南くんが、見るからです』


思い出した瞬間、俺は慌てて視線を逸らした。


――すると。


ほぼ同じタイミングで、舞夜も視線を逸らした。


「……」


「……」


なんだこれ。


気まずすぎるだろ。


数秒前まで、普通に話せていたはずなのに。


昨日のたった一言で、すべてがおかしくなっている。


そんな空気に耐えきれなくなった俺は、何とか話題を探した。


「ね、寝不足か?」


言った瞬間、もっとましな話題はなかったのかと後悔した。


舞夜は少し驚いたように瞬きをしたあと、小さくうなずく。


「南くんも、そう見えます」


「まあ、いろいろ考え事してたからな」


「そうですか」


短い返事。


だけど、その直後。


舞夜は本を閉じ、小さな声で付け加えた。


「……私もです」


「え?」


聞き返した時には、もう彼女は窓の外を見ていた。


朝日が横顔を照らしている。


その表情が何を考えているのか、今の俺には全く分からなかった。


そして、その答えを知ることになるのは、もう少し後のことだった。

一時間目が終わり、二時間目が終わる。


気まずい空気は相変わらずだった。


いや、正確には少し違う。


俺たちは普通に会話をしている。


授業中にプリントを回したり、先生からの連絡を確認したり、文化祭の資料について話したり。


表面上は、いつも通りだ。


なのに、昨日までとは何かが違っていた。


原因は分かっている。


分かっているけど、考えたくなかった。


昼休み。


俺が机に突っ伏して現実逃避をしていると、教室の扉が勢いよく開いた。


「代表ー!」


嫌な予感しかしない声だった。


担任だ。


俺はゆっくり顔を上げる。


「何ですか……」


「今日の放課後、文化祭実行委員会の部屋に来い」


嫌な予感が、確信に変わった。


「何でですか?」


一応、聞くだけ聞いてみる。


すると先生は、あまりにも軽い口調で言った。


「制服の試着だ」


「……は?」


教室が一瞬静まり返る。


そして次の瞬間――。


「やったあああ!」


結衣が机を叩きながら立ち上がった。


「ついに来た!」


「何でお前がそんなに喜んでるんだよ」


「だって絶対面白いじゃん!」


「面白いのはお前だけだ」


「その通り!」


胸を張って言うことじゃない。


隣を見ると、舞夜は無言で固まっていた。


いや、正確には、ほんの少しだけ顔色が悪い。


「八神?」


「……何でしょうか」


「大丈夫か?」


「大丈夫ではありません」


即答だった。


「そんなにはっきり言う?」


「はっきり言わない理由がありません」


珍しく余裕がない。


というか、完全に動揺している。


その時、後ろから誰かが俺の肩に腕を回してきた。


「兄弟」


「何だよ、松」


松は真剣な顔で、ゆっくりとうなずいた。


「お前のために祈ってる」


「いらない」


「そうか」


松は静かに目を閉じる。


そして、数秒後。


「祈りじゃ足りないな」


「何がだよ」


「必要なのは奇跡だ」


「縁起でもないこと言うな」


「安心しろ。もし何かあったら、俺が遺言を伝えてやる」


「俺は死ぬ前提なのか?」


「もちろん」


「もちろんじゃねえよ!」


教室のあちこちから笑い声が上がる。


結衣なんて涙が出るほど笑っていた。


ひどすぎる。


そんな騒ぎの中、俺は何となく隣を見た。


舞夜は黙ったまま、自分の机を見つめている。


その横顔は、昨日の放課後よりも、さらに落ち着かないように見えた。


……そんなに嫌なのか。


制服を着ることが。


いや。


もしかすると、嫌なのは――。


そこまで考えた瞬間、俺は慌てて頭を振った。


「いやいや、考えすぎだろ」


小さく呟く。


すると、隣から静かな声が聞こえた。


「何がですか?」


「いや、何でもない」


「そうですか」


舞夜はそれ以上何も聞かなかった。


だけど、その返事のどこかが、いつもより少しだけ寂しそうに聞こえた。

放課後。


いつもなら真っ先に帰っているはずの俺は、重い足取りで校舎の廊下を歩いていた。


隣には、もちろん舞夜がいる。


昨日までは、それほど気にならなかった。


いや、正確には気になっていたけど、ここまで意識することはなかった。


だけど今は違う。


昨日の言葉が、頭から離れない。


『……南くんが、見るからです』


思い出すたびに、意味が分からなくなっていく。


「南くん」


「ん?」


「さっきから三回ため息をついています」


「数えてたのかよ」


「暇だったので」


「そんな理由で数えるな」


「四回目です」


「今のも入るのか?」


「入りました」


「厳しいな、お前」


「客観的な事実です」


そんなくだらない会話をしているうちに、俺たちは文化祭実行委員会の部屋の前に着いていた。


扉には、大きく紙が貼られている。


『文化祭実行委員会』


その文字を見ただけで帰りたくなった。


「逃げるか?」


冗談半分でそう言うと、舞夜は即答した。


「先生に捕まります」


「現実的だな」


「現実ですから」


夢も希望もない返事だった。


俺が観念して扉を開けると、部屋の中には段ボール箱やハンガーラックが所狭しと並べられていた。


色とりどりの布。


積み上げられた小道具。


そして、壁には大きなポスターが貼られている。


『文化祭』


改めて見ると、本当に大事になってきたんだなと思う。


「すみません」


部屋の奥から、一人の女子生徒が近づいてきた。


胸には実行委員の腕章がついている。


「美波大樹くんと八神舞夜さんですか?」


「はい」


「はい」


また同時だった。


俺と舞夜は顔を見合わせる。


実行委員の女子は、小さく笑った。


「仲がいいんですね」


「違います」


「違います」


また同時だった。


数秒の沈黙。


そして、舞夜が小さく咳払いをする。


「……少しだけです」


「認めるのかよ」


思わず突っ込むと、舞夜は真顔のまま答えた。


「最近は否定しきれなくなってきました」


「怖いこと言うな」


俺の高校生活は、いったいどこで道を間違えたんだろう。


そんなことを考えていると、実行委員の女子が二つの袋を俺たちに差し出した。


「こちらが当日の制服になります」


俺は袋を見下ろす。


そして、隣の舞夜を見る。


舞夜も、まったく同じタイミングで俺を見ていた。


……嫌な予感しかしない。


「何か問題でもありますか?」


実行委員が首をかしげる。


「あります」


「あります」


また同時だった。


女子生徒は、くすっと笑う。


「本当に仲がいいですね」


「違います」


「違います」


「……少しだけです」


「お前、さっきからそれ好きだな」


舞夜は何も答えなかった。


ただ、制服の入った袋をぎゅっと抱きしめる。


その横顔は、朝からずっと見てきたどの表情よりも、緊張しているように見えた。

「では、更衣室はこちらになります」


実行委員の女子生徒に案内され、俺たちは部屋の奥へと向かった。


廊下の突き当たりには、男子用と女子用の更衣室が並んでいる。


その前で足を止めると、彼女は笑顔のまま言った。


「五分くらいで着替え終わると思いますので、終わったら出てきてくださいね」


「五分で終わればいいですけどね……」


思わずそう呟く。


隣を見ると、舞夜は制服の入った袋をじっと見つめていた。


まるで、その中に世界の終わりでも入っているかのような顔だった。


「八神、大丈夫か?」


声をかけると、舞夜はゆっくり顔を上げる。


「……大丈夫ではありません」


「朝からずっとそれ言ってないか?」


「事実なので」


「便利な言葉だな」


「便利です」


そう言いながらも、舞夜の表情はどこか硬いままだった。


本当にそんなに嫌なのか。


いや、昨日の反応を考えれば、当然なのかもしれない。


「じゃあ、五分後な」


俺がそう言うと、舞夜は小さくうなずいた。


「……はい」


その返事は、いつもより少しだけ弱々しく聞こえた。


俺は男子更衣室の扉を開け、大きく息を吐く。


「頼むから、変なのだけはやめてくれ……」


祈るような気持ちで袋を開く。


中から出てきたのは――。


白いシャツ。


黒いベスト。


黒いネクタイ。


そして、腰に巻くエプロン。


「……普通だな」


思わず拍子抜けした。


もっとこう、変な衣装を想像していた。


猫耳とか、妙な飾りとか、そういうものを覚悟していたのに。


どうやら杞憂だったらしい。


「よかった……」


心の底から安心する。


制服に袖を通し、鏡の前に立つ。


いつもの制服より少し大人っぽいくらいで、特に問題はない。


「思ってたより悪くないな」


そう呟きながら、ネクタイを整える。


そして、五分後。


俺は更衣室の外へ出た。


待っていた実行委員の女子生徒が、満足そうにうなずく。


「すごく似合ってますよ」


「ありがとうございます」


「カフェの雰囲気にもぴったりです」


「それはよかったです」


正直、心配していたほどではなかった。


これなら、何とか乗り切れるかもしれない。


そう思いながら、俺は自然と女子更衣室のほうへ視線を向ける。


扉は、まだ閉まったままだった。


「……遅いな」


時計を見る。


もう五分は過ぎている。


いや、七分くらいか。


実行委員の女子生徒も、不思議そうに首をかしげた。


「八神さん、どうしたんでしょう?」


「さあ……」


そう答えたものの、嫌な予感が頭をよぎる。


昨日からずっと様子がおかしかった。


朝も、教室でも、ここに来てからも。


まさか、本当に体調でも悪いんじゃ――。


そんなことを考えていると、実行委員の女子生徒が、更衣室の扉を軽くノックした。


「八神さん? 大丈夫ですか?」


返事はない。


部屋の中は静まり返っていた。


「八神?」


俺も思わず声をかける。


すると、数秒後。


扉の向こうから、かすかな声が聞こえてきた。


「……ま、まだです」


その声を聞いた瞬間、俺は眉をひそめた。


怒っているわけじゃない。


困っているわけでもない。


どちらかというと――。


緊張している。


それも、今まで聞いたことがないくらいに。


そして、なぜか分からない。


分からないのに――。


俺は、必要以上に八神舞夜のことを心配していた。

「八神さん? 本当に大丈夫ですか?」


実行委員の女子生徒が、もう一度扉をノックする。


しかし、返事はない。


静寂。


廊下の向こうから聞こえてくる生徒たちの声だけが、妙に遠く感じられた。


「……おい、八神」


今度は俺が声をかける。


すると、数秒後。


扉の向こうから、小さな声が返ってきた。


「……大丈夫です」


どう聞いても大丈夫な声じゃなかった。


むしろ、今にも消えてしまいそうなくらい弱々しい。


実行委員の女子生徒も、それを察したのか、心配そうな表情を浮かべる。


「本当に体調が悪いなら、今日はやめても――」


「いえ、大丈夫です」


今度は少しだけ強い声だった。


だけど、その直後。


再び沈黙が落ちる。


俺は無意識のうちに、更衣室の扉を見つめていた。


どうして、そこまで嫌がるんだ。


制服を着ること自体が嫌なのか。


それとも――。


『……南くんが、見るからです』


昨日の言葉が、また頭の中によみがえる。


「まさか、本当に俺が原因なのか……?」


思わず、小さく呟いた。


もちろん、答えなんて分からない。


分からないはずなのに。


なぜか、その可能性を否定できない自分がいた。


すると、その時。


ガチャッ。


更衣室の中から、小さな音が聞こえた。


俺も、実行委員の女子生徒も、同時に扉のほうを見る。


「八神さん?」


女子生徒が声をかける。


扉は、ほんの少しだけ開いた。


だけど、次の瞬間。


バタン。


すぐに閉まった。


「……え?」


思わず間の抜けた声が漏れる。


そして、扉の向こうから、今までで一番小さな声が聞こえてきた。


「……やっぱり、無理です」


「何が無理なんだよ」


反射的に聞き返してしまう。


数秒の沈黙。


そして――。


「……南くんが、外にいるので」


「は?」


頭が真っ白になった。


隣の実行委員の女子生徒も、きょとんとしている。


「えっと、それはどういう――」


「あっ、いえ、違うんです!」


珍しく慌てた声が扉の向こうから響く。


「違わないだろ、今のは」


「違います!」


「いや、絶対違わないだろ!」


「違います!」


「そんなに強く否定されても困る!」


扉一枚を挟んだまま、よく分からない言い合いが始まる。


実行委員の女子生徒は、なぜか楽しそうに笑っていた。


「二人とも、本当に仲がいいですね」


「違います!」


「違う!」


また同時だった。


数秒後。


更衣室の向こうから、小さなため息が聞こえる。


「……もう嫌です」


「俺も嫌だよ」


「南くんは嫌じゃありません」


「いや、嫌だろ」


「嫌じゃありません」


「何でお前が決めるんだよ」


「私が分かるので」


「怖いこと言うな」


思わずそう返した、その時だった。


更衣室の向こうで、舞夜が小さく息を吐く音が聞こえた。


そして――。


「……あと、一分だけ待ってください」


今までで一番小さな声だった。


「分かった」


俺がそう答えると、扉の向こうは静かになった。


あと一分。


たった一分。


なのに、なぜかものすごく長く感じる。


そして、その時の俺は、まだ知らなかった。


次の瞬間、扉が開いた時――。


俺の知っている八神舞夜が、少しだけ変わって見えることを。

第二十二話『君にだけ見せたくない』を読んでいただき、ありがとうございました。


文化祭の準備が本格的に始まり、大樹と舞夜は、これまで以上に一緒の時間を過ごすことになりました。


しかし、昨日の出来事を引きずったままの二人にとって、それは決して簡単なことではありません。


いつも冷静な舞夜が見せた、今までにない緊張。


そして、その理由が自分にあるかもしれないと気づき始める大樹。


少しずつ変わっていく二人の距離は、文化祭の準備とともに、さらに近づいていくのかもしれません。


果たして、舞夜は無事に更衣室から出てくることができるのでしょうか。


そして、大樹は彼女の言葉の本当の意味を知ることができるのでしょうか。


それでは、また第二十三話でお会いしましょう。

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