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君だけには見られたくない

普通の人間なら、放課後の会議なんて終われば、そのまま家に帰る。


夕飯を食べて、風呂に入って、寝る。


そして次の日を迎える。


少なくとも、少し前までの俺はそうだった。


だけど、残念ながら、最近の俺の日常は普通とはほど遠い。


原因はたった一人。


八神舞夜。


その存在だった。


学校を出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。


街灯が道を照らし、昼間の喧騒はもうどこにもない。


ほとんどの生徒は、とっくに帰宅している。


そんな静かな夜道を、俺たちは並んで歩いていた。


少し前の俺なら、絶対に嫌がっていただろう。


なのに――。


今は、それほど悪くないと思っている。


それが一番問題だった。


かなり問題だった。


「……何ですか?」


隣から、舞夜の声が聞こえる。


気づけば、俺は彼女の顔を見ていたらしい。


「別に」


「さっきから見ていますよね」


「見てない」


「見ていました」


「見てない」


「見ていました」


「見てない」


「……少しだけです」


「認めるのかよ」


思わず笑ってしまう。


すると、舞夜は平然とした顔で言った。


「もう隠す必要がありませんから」


「それ、結構ひどいこと言ってるぞ」


「事実です」


「急に自信満々だな」


「南くんは分かりやすいので」


「全然うれしくない」


「そうですか」


相変わらず、こいつは容赦がない。


だけど、不思議だった。


こんな他愛のない会話をしながら歩くことが、いつの間にか当たり前になり始めている。


そして、それを嫌だと思わなくなっている自分がいる。


……本当に、まずい。


かなりまずい。


でも、その理由を考えるのは、なんとなく怖かった。

その日の夜。


時刻は二十一時十四分。


ベッドに寝転がりながら、俺はぼんやりと天井を眺めていた。


文化祭のこと。


舞夜の夢のこと。


そして、これから始まる面倒な準備のこと。


考えたくないことばかりが頭の中を回っていた、その時だった。


ブルルッ。


スマホが震える。


「ん?」


画面を確認した瞬間――。


再び震えた。


ブルルッ。


ブルルルッ。


ブルルッ。


「……何だこれ」


嫌な予感しかしない。


恐る恐る画面を見る。


『文化祭二年B組』


その文字を見た瞬間、すべてを察した。


「終わった……」


間違いない。


面倒事の匂いしかしない。


俺は深いため息をつきながら、グループチャットを開いた。


そして、すぐに後悔した。


未読五十三件。


多すぎる。


絶対におかしい。


犯人は誰だ。


確認するまでもなかった。


四十八件。


田中結衣。


「やっぱりお前かよ!」


思わずベッドの上で叫んでしまった。


メッセージを遡る。


意味のないスタンプ。


意味のない写真。


意味のない雑談。


本当に意味がない。


なんでこいつはこんなに元気なんだ。


そんな混沌の中、ようやく重要なメッセージを見つけた。


『先生:提案を確認した結果、二年B組の出し物はメイドカフェに決定した』


「……は?」


思わず固まる。


メイドカフェ?


いや、待て。


嫌な予感がする。


俺は急いで添付されていたファイルを開いた。


そして、そこに書かれていた文字を見て、頭を抱えた。


『採用企画:コンセプトカフェ』


『企画責任者:八神舞夜』


「裏切り者……」


昼間、あれだけ反対していたはずなのに。


なぜ採用されているんだ。


その瞬間。


ブルルッ。


またスマホが震えた。


画面を見る。


送り主は――。


八神舞夜。


短いメッセージが一つだけ届いていた。


『すみません』


「いや、なんで今送ってくるんだよ!」


タイミングが完璧すぎる。


怖い。


もしかして、こいつは本当に人の心が読めるんじゃないのか。


そんな馬鹿なことを考えながら、俺はもう一度スマホの画面を見つめた。

結衣のせいで荒れ果てたグループチャットを閉じようとした、その時だった。


ふと、先生のメッセージの続きを見つける。


嫌な予感がした。


ものすごく嫌な予感だ。


そして、そういう予感ほど、だいたい当たる。


俺はゆっくりと画面をスクロールした。


『なお、文化祭代表としての働きを評価し、南大樹と八神舞夜を企画の責任者とする』


「……は?」


一度、画面から目を離した。


そして、もう一度見た。


何も変わっていない。


いや、変わるわけがない。


現実だからだ。


『南大樹と八神舞夜を企画の責任者とする』


「いやいやいや、待て待て待て」


おかしいだろ。


絶対におかしい。


俺たちはまだ代表になって数日しか経っていない。


なのに、もう責任者?


早すぎるだろ。


というか、そもそも俺は一度も引き受けた覚えがない。


スマホを握りしめながら、ベッドの上で頭を抱える。


終わった。


完全に終わった。


文化祭が終わるまで、俺は八神舞夜と毎日一緒に仕事をしなければならないらしい。


想像しただけで疲れる。


いや、疲れるだけならまだいい。


問題は――。


最近、それを以前ほど嫌だと思わなくなっている自分がいることだった。


「……いや、違う」


俺は慌てて首を横に振る。


違う。


そうじゃない。


これは単純に、諦めただけだ。


決して、舞夜と一緒にいることに慣れてきたわけじゃない。


絶対に違う。


そう自分に言い聞かせた、その瞬間。


ブルルッ。


またスマホが震えた。


画面には、新しいメッセージが表示されている。


送り主は、もちろん――。


八神舞夜。


『明日もよろしくお願いします』


「……断りたい」


そう呟きながら、俺は返信画面を開いた。


しばらく考えて、短く打ち込む。


『嫌だ』


数秒後。


すぐに返事が返ってきた。


『知っています』


「何なんだ、こいつは……」


思わず天井を見上げる。


そして、ため息をついた。


文化祭まで、あと三週間。


どう考えても、平穏な日々は戻ってきそうになかった。

次の日。


俺は、人生で初めて「学校に行きたくない」と本気で思いながら教室の扉を開けた。


理由は簡単だ。


昨日のメッセージ。


そして、文化祭の責任者。


どう考えても、ろくなことにならない。


「おはようございます」


席に向かおうとした瞬間、聞き慣れた声が飛んできた。


「……おはよう」


八神舞夜だった。


当たり前のように俺を待っていた。


最近、本当に当たり前になってきているのが怖い。


「文化祭の件ですが――」


「嫌だ」


「まだ何も言っていません」


「どうせ面倒な話だろ」


「その通りです」


「正直すぎるだろ」


舞夜は小さく首をかしげた。


「嘘をつく必要がありませんから」


「そういう問題じゃない」


「そういう問題です」


「違う」


「違いません」


「違う」


「違いません」


「……もう疲れた」


「知っています」


「知ってるなら助けてくれ」


「無理です」


即答だった。


ひどすぎる。


そうこうしているうちに、担任が教室へ入ってきた。


そして、朝のホームルームが始まる。


嫌な予感しかしない。


最近の俺は、その能力だけ異常に成長している気がする。


「さて、文化祭についてだが――」


始まった。


終わった。


「コンセプトカフェに決まったことは、昨日連絡した通りだ」


教室が盛り上がる。


俺だけが盛り下がっている。


「さらに、文化祭当日は二人ほど宣伝役を決める必要がある」


教室が静かになった。


ほんの一秒だけ。


そして、次の瞬間――。


「南と八神でいいじゃん!」


誰かがそう叫んだ。


「それだ!」


「賛成!」


「絶対似合う!」


「完璧じゃん!」


一瞬で教室中が賛同し始める。


おかしい。


民主主義はどこへ行った。


「嫌だ!」


思わず立ち上がる。


しかし――。


「賛成多数だな」


松が腕を組みながら、満足そうにうなずいた。


「これはもう独裁だろ」


「その通りだ」


「認めるな!」


誰も俺の味方をしてくれない。


そんな中、先生が追い打ちをかけるように口を開いた。


「ちなみに、宣伝役にはカフェの制服を着てもらう」


……。


一瞬、時間が止まった。


「は?」


教室がざわつく。


結衣は机を叩きながら笑っている。


浅見は顔を真っ赤にしてうつむき、水子は静かに目を閉じていた。


まるで、俺たちの未来に祈りを捧げるかのように。


そして――。


隣を見る。


舞夜は、完全に固まっていた。

「先生」


静まり返った教室の中で、初めて舞夜がゆっくりと手を挙げた。


教室中の視線が、一斉に彼女へ集まる。


「何だ、八神」


先生がそう尋ねると、舞夜はいつもの落ち着いた表情のまま口を開いた。


「辞退したいです」


……。


教室が完全に沈黙した。


誰も何も言わない。


いや、言えない。


なぜなら、それはあり得ない光景だったからだ。


八神舞夜。


成績優秀。


品行方正。


教師からの信頼も厚い。


頼まれたことは完璧にこなす、学校一の優等生。


そんな彼女が、自分から責任を放棄しようとしている。


歴史的瞬間だった。


「却下だ」


先生は一秒で答えた。


「そうですか」


舞夜は驚くほど素直に引き下がった。


まるで、最初から断られることを分かっていたみたいに。


「諦めるの早すぎるだろ」


思わず小声でそう言うと、舞夜は小さくため息をついた。


「分かっていましたから」


「じゃあ、なんで聞いたんだよ」


「一応、確認です」


「その確認、必要だったか?」


「少しだけ」


「絶対いらなかっただろ」


「そうかもしれません」


珍しく弱気だった。


というか、明らかに様子がおかしい。


制服を着ることが、そんなに嫌なのか。


隣を見る。


舞夜は机の上のプリントをじっと見つめていた。


さっきまでの余裕はどこにもない。


耳が少し赤い。


気のせいじゃない。


絶対に赤い。


「お前、そんなに嫌なのか?」


小声で尋ねると、舞夜は一瞬だけこちらを見た。


「……嫌です」


即答だった。


「そこまで?」


「そこまでです」


「なんで?」


「言いたくありません」


「気になるんだけど」


「気にしないでください」


「無理だろ」


「無理じゃありません」


「いや、無理だ」


「……少しだけなら」


「何がだよ」


「気になってもいいです」


「許可制なのか?」


舞夜は答えなかった。


ただ、窓の外へ視線を向ける。


その横顔は、なぜか少しだけ落ち着かないように見えた。


そして俺は、そんな舞夜を見るたびに、妙な胸騒ぎを覚えるようになっていた。

放課後を告げるチャイムが鳴った。


その瞬間、教室は一気に騒がしくなる。


「絶対似合うって!」


「文化祭が楽しみになってきた!」


「南、頑張れよ!」


「八神さんの制服姿、見てみたいな」


好き勝手なことを言いながら、クラスメイトたちは次々と教室を出ていく。


結衣は最後まで笑っていた。


「二人とも、お幸せにー!」


「うるさい!」


「うるさくありません」


「お前は黙れ!」


「息ぴったりだね」


「「違う」」


「ほら!」


最悪だった。


結衣たちが去ると、さっきまで騒がしかった教室は、嘘みたいに静かになった。


残されたのは、俺と舞夜だけ。


また二人きりだった。


窓の外では、夕日が少しずつ沈み始めている。


オレンジ色の光が、誰もいない教室を照らしていた。


俺は何となく、隣の舞夜を見た。


さっきから、明らかに様子がおかしい。


制服の話が出てから、ずっと落ち着かないままだった。


「なあ、舞夜」


「……何ですか?」


少しだけ緊張した声だった。


「そんなに、その制服を着るのが嫌なのか?」


その瞬間――。


舞夜の肩が小さく震えた。


沈黙。


長い沈黙。


そして、舞夜はゆっくりと視線を逸らした。


「……はい」


「なんで?」


何気なく聞いたつもりだった。


本当に、深い意味なんてなかった。


なのに――。


舞夜は答えなかった。


夕焼けの光が、彼女の横顔を赤く染める。


いや、違う。


赤くなっているのは、夕日のせいだけじゃなかった。


「どうした?」


俺がそう言うと、舞夜はさらに顔を背けた。


そして、消えてしまいそうなほど小さな声で言った。


「……南くんが、見るからです」


「え?」


思わず聞き返す。


舞夜自身も、自分が何を言ったのか気づいたらしい。


一瞬で目を見開き、勢いよく立ち上がった。


「あ……」


教室に沈黙が落ちる。


数秒後。


舞夜は俺から目を逸らしたまま、かすかな声で言った。


「……それでは、また明日」


「ちょ、ちょっと待て!」


「失礼します!」


そう言い残すと、舞夜は教室を飛び出していった。


本当に、逃げるように。


廊下を走る足音が、静かな校舎に響いていく。


俺は、その場から動けなかった。


ただ、呆然と扉を見つめる。


八神舞夜が逃げた。


あの、何があっても平然としていた八神舞夜が。


しかも、原因はたぶん――俺だ。


「……いや、待て」


頭の中で、さっきの言葉が何度も繰り返される。


『南くんが、見るからです』


どういう意味だ。


何を言いたかったんだ。


まったく分からない。


分からないはずなのに――。


なぜか、心臓だけがうるさいほど速く鳴っていた。


そして、その夜。


俺は、眠れない夜を過ごすことになる。

第二十一話『君だけには見られたくない』を読んでいただき、ありがとうございました。


文化祭の準備が本格的に始まり、大樹と舞夜の距離は少しずつ、しかし確実に変わり始めています。


今まで何があっても冷静だった舞夜が、初めて見せた動揺。


そして、彼女が思わず口にしてしまった一言に、大樹もまた戸惑いを隠せません。


からかい合いながらも、少しずつ変わっていく二人の関係。


文化祭当日まで、まだまだ騒がしい日々は続きそうです。


舞夜が隠そうとしている本当の気持ちとは何なのか。


それでは、また第二十二話でお会いしましょう。

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