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君の夢

本来の予定は単純だった。


文化祭の企画を完成させる。


家に帰る。


寝る。


そして、生き延びる。


……もちろん、そんな予定がそのまま進むはずもなかった。


「これは絶対に無理だろ」


「大丈夫です」


「無理だって」


「大丈夫です」


「無理」


「大丈夫です」


しばらく睨み合ったあと、舞夜は小さく息を吐いた。


「……たぶん大丈夫です」


「絶対大丈夫じゃないだろ」


俺たちは、もう一時間以上も同じことを繰り返していた。


一時間。


六十分。


三千六百秒。


それだけの時間を使っているのに、文化祭の企画はまだ何一つ決まっていない。


もはや才能なんじゃないかと思えてくる。


「もっと簡単なものにしないか?」


俺がそう提案すると、舞夜は資料から顔を上げた。


「簡単すぎると面白くありません」


「別に面白くなくてもいいだろ」


「嫌です」


即答だった。


「そんなにこだわることか?」


「こだわります」


「意外と熱いんだな」


その言葉に、舞夜は一瞬だけ目を丸くした。


まるで、自分でも気づいていなかったみたいに。


「……そうかもしれません」


「いや、かなり熱いぞ」


「少しだけです」


「かなりだよ」


思わず笑ってしまう。


すると、舞夜は不満そうに俺を見た。


「南くん、さっきから私を大げさに言いすぎです」


「事実だからな」


「違います」


「違わない」


「違います」


「違わない」


「……少しだけです」


「ほらな」


舞夜は何も言い返さず、そっと視線を資料へ戻した。


だけど、その横顔は少しだけ楽しそうに見えた。


気のせいかもしれない。


いや、きっと気のせいだ。


そういうことにしておく。

気がつけば、学校の中は少しずつ静かになっていた。


廊下を歩く生徒の声は遠ざかり、窓の外から聞こえていた運動部の掛け声も、いつの間にか消えている。


校庭の照明が、一つ、また一つと灯り始めた。


そして、気づけば――。


また、俺たちだけになっていた。


「……また二人きりか」


思わずそう呟くと、向かいの席で資料を読んでいた舞夜が顔を上げる。


「何か問題でもあるんですか?」


「いや、最近多いなと思って」


「そうですね」


あっさり認めた。


否定しないのか。


窓の外を見る。


太陽はゆっくりと沈み始め、オレンジ色の光が教室全体を包み込んでいた。


机も、黒板も、壁も。


そして、窓際に座る舞夜の黒い髪までも、夕焼け色に染まっている。


不思議な光景だった。


昼間の騒がしさが嘘みたいに静かで、時間だけがゆっくり流れているように感じる。


「……静かだな」


「そうですね」


舞夜はペンを動かしながら、小さく返事をした。


その横顔をぼんやり眺める。


相変わらず整った顔立ちだ。


学校中の男子が騒ぐのも、少しだけ理解できる。


……少しだけだ。


そんなことを考えていると、舞夜が顔を上げた。


「どうかしましたか?」


「いや、別に」


慌てて視線をそらす。


危なかった。


もう少しで余計なことを考え続けるところだった。


教室には、紙をめくる音と、ペンが走る音だけが響いている。


不思議と、その沈黙は嫌じゃなかった。


むしろ、心地よかった。


だけど、その静けさが長く続くほど、俺の頭には余計なことばかり浮かんでくる。


だから、気づけば俺は、何気ない質問を口にしていた。


「なあ、舞夜」


「はい?」


彼女は手を止めることなく返事をした。


そして、その質問が、この日の空気を少しだけ変えることになるなんて――。


その時の俺は、まだ知らなかった。

「なあ、舞夜」


「はい?」


舞夜はペンを動かしたまま返事をした。


顔はまだノートに向けられている。


「将来、何がしたいんだ?」


その瞬間。


カリカリと響いていたペンの音が止まった。


教室が静まり返る。


舞夜はゆっくりと顔を上げた。


まるで、そんな質問をされるとは思っていなかったかのように。


「……何ですか、急に」


「いや、卒業した後のこととか、考えてるのかなって」


「卒業後、ですか」


「ああ」


夕焼けの光が、教室を赤く染めている。


舞夜はしばらく黙り込んだ。


そして、小さく息を吐く。


「分かりません」


即答だった。


だけど――。


嘘だ。


俺には分かった。


最近、少しずつ気づくようになってきた。


八神舞夜が嘘をつく時の、ほんのわずかな変化に。


「嘘だろ」


舞夜が小さく瞬きをする。


「……何がですか?」


「今の、嘘だ」


「嘘じゃありません」


「いや、嘘だ」


「違います」


「違わない」


「違います」


「違わない」


しばらく沈黙が続く。


やがて、舞夜は視線を机へ落とした。


「……少しだけです」


「やっぱりな」


思わず笑うと、舞夜は不満そうに眉をひそめる。


「どうして分かるんですか?」


「何となく」


「何となくで当てないでください」


「無茶言うな」


「無茶じゃありません」


「十分無茶だろ」


舞夜は何か言い返そうとして、結局諦めたようにため息をついた。


そして、静かな声で呟く。


「言っても、きっと笑います」


「笑わない」


「笑います」


「笑わないって」


「信用できません」


「ひどいな」


「事実です」


即答だった。


本当に容赦がない。


だけど――。


その時の舞夜の横顔は、いつもの余裕のある表情とは違っていた。


何かを迷っているような。


何かを隠しているような。


そんな顔だった。


そして俺は、その理由を知りたいと思ってしまっていた。

舞夜は視線を落としたまま、しばらく何も言わなかった。


さっきまで聞こえていたペンの音も、もう止まっている。


窓の外では、夕日がゆっくりと沈み始めていた。


「……くだらないんです」


ぽつりと、舞夜が呟いた。


「だったら聞かせろよ」


「嫌です」


「いいから」


「嫌です」


「いいから」


「嫌です」


「いいから」


しばらく沈黙が続く。


やがて、舞夜は呆れたようにため息をついた。


「南くんって、意外としつこいですよね」


「よく言われる」


「褒めてません」


「知ってる」


舞夜は小さく首を振った。


そして――。


本当に小さな声で、こう言った。


「……本が好きなんです」


「それは知ってる」


「すごく好きなんです」


「それも知ってる」


「だから――」


そこで、舞夜は言葉を止めた。


何かを迷うように、指先でペンをくるくると回している。


そして、数秒後。


意を決したように顔を上げた。


「小説を書いてみたいんです」


思わず瞬きをした。


一回。


二回。


予想もしていなかった答えだった。


「小説?」


舞夜はゆっくりとうなずく。


「はい」


「マジで?」


「マジです」


あまりにも真剣な顔だった。


冗談を言っているようには、とても見えない。


すると、舞夜は珍しく、自分から話し始めた。


「誰かの心に残る物語を書いてみたいんです」


「読んだ人が、何年後かに思い出せるような物語を」


「誰かの考え方を、少しだけ変えられるような物語を」


言葉が止まらない。


普段は、自分のことなんてほとんど話さないくせに。


今の舞夜は、まるで別人みたいだった。


きっと、それほど大切な夢なんだろう。


そう思った瞬間――。


舞夜が急に黙り込んだ。


「……あ」


今さら、自分がどれだけ話していたのか気づいたらしい。


そして、次の瞬間。


彼女の頬が、みるみる赤くなっていった。


「お、おい」


「……見ないでください」


「いや、無理だろ」


「無理じゃありません」


「無理だ」


「無理じゃありません」


「無理だって」


舞夜は両手で顔を隠した。


八神舞夜。


成績優秀。


容姿端麗。


学校中の憧れの存在。


そんな完璧な彼女が、今は耳まで真っ赤になっている。


正直――。


かなり珍しい光景だった。


「……何ですか」


「別に」


「絶対に何か考えてますよね」


「考えてない」


「嘘です」


「嘘じゃない」


「嘘です」


「……少しだけ」


「やっぱり」


舞夜は顔を隠したまま、小さくため息をついた。


いつもの余裕なんて、どこにもない。


その声は、少しだけ恥ずかしそうだった。


そして、そんな表情を見てしまった俺は――。


なぜか、目を離せなくなっていた。

「……じゃあ、なんで書かないんだ?」


気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


舞夜の肩が、ぴくりと揺れる。


さっきまで赤くなっていた顔から、ゆっくりと表情が消えていった。


「――書けません」


静かな声だった。


あまりにも静かで、逆に胸がざわつく。


「どうして?」


舞夜は答えない。


窓の外では、風がカーテンを揺らしていた。


さっきまで教室を照らしていた夕日も、少しずつ弱くなっている。


長い沈黙のあと、舞夜は小さく口を開いた。


「もっと大切なことがあるからです」


「夢よりも?」


思わず聞き返してしまう。


舞夜は黙ったまま、机の上に視線を落とした。


その横顔には、さっきまでの恥ずかしそうな表情は残っていない。


代わりに、どこか諦めたような色が浮かんでいた。


「……はい」


短い返事だった。


だけど、その一言は妙に重かった。


「本当に、それでいいのか?」


自分でも、どうしてそんなことを聞いたのか分からない。


ただ、知りたかった。


舞夜が、本当にそれを望んでいるのか。


舞夜は少しだけ考えるように目を伏せた。


そして、ゆっくりと首を横に振る。


「良くないと思います」


「じゃあ――」


「でも、仕方ないんです」


俺の言葉を遮るように、舞夜はそう言った。


「誰にでも、諦めなきゃいけないことはありますから」


その声は、驚くほど落ち着いていた。


まるで、ずっと前から自分に言い聞かせてきた言葉みたいに。


俺は何も言えなかった。


言葉が見つからなかった。


ただ一つ、分かったことがある。


八神舞夜は、自分の夢を追いかけていない。


追いかけられないんだ。


誰かの期待に応えるために。


誰かが決めた未来を進むために。


自分が本当にやりたいことを、心の奥に押し込めている。


その事実が、なぜか胸の奥に引っかかった。


そして――。


そんな顔をして諦めるのは、きっと間違っている。


初めて、そう思った。

気づけば、時計の針はかなり進んでいた。


俺たちは慌てて資料をまとめ始める。


何だかんだで、文化祭の企画書は無事に完成していた。


窓の外を見ると、もう夕日はほとんど沈みかけている。


教室の中も、少しずつ暗くなっていた。


「終わりましたね」


舞夜が静かに言った。


「ああ、思ったより時間がかかったな」


「南くんが途中で何度も脱線したからです」


「半分はお前のせいだろ」


「違います」


「違わない」


「違います」


「違わない」


「……少しだけです」


「ほらな」


舞夜は不満そうに視線を逸らした。


俺たちは荷物を持ち、誰もいない廊下へ出る。


窓の向こうには、オレンジ色と紺色が混ざり始めた空が広がっていた。


静かな帰り道。


最近は、こうして二人で歩くことも珍しくなくなってきた。


少し前の俺なら、絶対に想像できなかっただろう。


階段を下りながら、ふと、さっきの会話を思い出す。


舞夜の夢。


小説を書きたいという、本当の願い。


そして、それを諦めようとしていること。


気づけば、俺は口を開いていた。


「なあ」


舞夜がこちらを見る。


「いつか、お前が小説を書いたらさ」


「……はい?」


少し驚いたような声だった。


俺は頭をかきながら続ける。


「その時は、最初に俺に読ませてくれ」


言った瞬間、自分でも何を言っているんだと思った。


けれど、取り消そうとは思わなかった。


舞夜は立ち止まる。


沈黙。


数秒。


いや、もっと長かったかもしれない。


そして――。


彼女は、小さく笑った。


作り笑いじゃない。


学校で見せる完璧な笑顔でもない。


心の底から浮かんだような、優しい笑顔だった。


「……分かりました」


その返事は、とても静かだった。


だけど、なぜかはっきりと耳に残った。


しばらく、俺たちは何も話さなかった。


ただ、並んで歩き続ける。


夕暮れの空の下を。


そして、その時の俺たちは、まだ知らなかった。


あの何気ない約束が――。


思っていたよりも、ずっと大切なものになることを。

第二十話『君の夢』を読んでいただき、ありがとうございました。


文化祭の準備を進める中で、大樹は初めて舞夜の本当の夢を知りました。


誰にも話してこなかった願い。


そして、諦めようとしている未来。


夕暮れの教室で交わされた小さな約束は、二人の関係を少しずつ変えていくのかもしれません。


それでは、また第二十一話でお会いしましょう。

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