最初の挑戦
翌日の放課後。
舞夜は、たった一つのことだけを考えながら家へ帰った。
――チョコレートを作る。
母親の千代子は手伝うと言ってくれた。
けれど、舞夜は自分一人で作ることに決めていた。
「……私なら、できます」
キッチンの前で、舞夜は小さく呟いた。
テーブルの上には、必要な材料が並べられている。
チョコレート。
バター。
牛乳。
デコレーション用の材料。
そして、小さな型がいくつか。
舞夜は深く息を吸った。
「……よし」
材料を見つめる。
「そんなに難しいことじゃないはずです」
そのとき、千代子がキッチンへ入ってきた。
「本当に大丈夫?」
「はい」
「困ったら、いつでも手伝うからね」
「分かっています」
舞夜は頷いた。
「でも……自分で作ってみたいんです」
千代子は微笑んだ。
「それなら、私は近くにいるわ」
「ありがとうございます」
舞夜はチョコレートを手に取る。
そして、小さく刻み始めた。
ここまでは順調だった。
問題は、そのあとだった。
チョコレートを溶かす。
「……慎重に」
小さく呟きながら、様子を見る。
待つ。
混ぜる。
また待つ。
「……うまくいってるみたいです」
そう思った数分後――。
「……え?」
舞夜の手が止まった。
チョコレートが、妙に固まり始めている。
舞夜は不安そうに覗き込んだ。
「……これ、普通なんですか?」
千代子が近づいてくる。
「うーん……ちょっと違うわね」
「やっぱり……!」
舞夜が肩を落とす。
「大丈夫よ」
千代子は優しく言った。
「もう一度やってみましょう」
「……はい」
舞夜は小さく息を吐いた。
「最初の挑戦は失敗です……」
そして、もう一度チョコレートを用意する。
今度は、さっきよりずっと慎重に説明を確認した。
温度。
時間。
混ぜ方。
一つ一つを確かめながら進めていく。
「……今度こそ」
舞夜は笑った。
溶けたチョコレートを、慎重に型へ流し込む。
ここまでは完璧だった。
しかし――。
デコレーションを乗せようとした、その瞬間。
ころん。
一つが、チョコレートの真ん中に落ちた。
「……あ」
舞夜は慌てて取り出そうとする。
けれど――。
「……あれ?」
触ったことで、さらに状況が悪化した。
デコレーションは、斜めに傾いてしまった。
舞夜は数秒間、それを無言で見つめる。
「……これ、ハートには見えませんよね」
千代子は笑いをこらえた。
「個性的でいいんじゃない?」
「お母さん……」
「ごめんなさい」
舞夜はもう一度やり直した。
そして――。
何度か失敗を繰り返したあと。
ようやく、いくつかの小さなハート型チョコレートが完成した。
舞夜は一つずつ、慎重に眺める。
完璧ではない。
少し形が崩れているものもある。
それぞれ微妙に形が違うものもある。
けれど――。
全部、自分で作ったものだった。
舞夜は一つを手に取る。
しばらく眺めてから、小さく呟いた。
「……これなら、大丈夫かな」
千代子が微笑む。
「とても上手にできてるわよ」
「本当ですか?」
「ええ」
千代子は頷いた。
「それに、自分で作ったんでしょう?」
舞夜は嬉しそうに笑った。
「……はい」
そして、完成したチョコレートを小さな箱へ入れていく。
一つ。
二つ。
三つ。
一つずつ、丁寧に並べていく。
その上に、小さなデコレーションを添える。
そして最後に、ゆっくりと蓋を閉じた。
舞夜は箱を見つめる。
胸の鼓動が、少しずつ速くなっていく。
「……あとは、メッセージですね」
舞夜はカードを取り出した。
最初に書いたのは――。
『ハッピーバレンタイン、大樹くん。』
しばらく眺める。
「……違う」
舞夜は首を振った。
「少し普通すぎます」
新しいカードを取り出す。
『気に入ってくれたら嬉しいです。』
それを見つめる。
「……これも違う」
そして、三枚目のカードを手に取った。
ペンを握る。
少しだけ迷ってから、ゆっくりと文字を書いた。
『大樹くんのことを考えながら作りました。』
舞夜の手が止まる。
頬が、少しずつ赤くなっていく。
「……これは」
自分で書いた言葉を見つめる。
「……ちょっと、直接的すぎます」
その様子を近くで見ていた千代子が尋ねる。
「お母さんの意見を聞いてみる?」
「……はい」
千代子はカードを見た。
そして、優しく微笑む。
「そのままでいいと思うわ」
舞夜が顔を上げる。
「……本当に?」
「ええ」
千代子は頷いた。
「それが、舞夜が本当に伝えたいことなんでしょう?」
舞夜はもう一度カードを見る。
しばらく黙っていた。
そして――。
小さく笑った。
「……そうですね」
そのカードを箱の中へ入れる。
そして、ゆっくりと蓋を閉じた。
完成した箱を両手で持つ。
そのまま胸元へ抱き寄せた。
「……あとは、渡すだけですね」
「準備はできた?」
舞夜は黙った。
数秒後――。
「……いいえ」
千代子が吹き出した。
「ふふっ」
「だって……」
舞夜は箱を見つめる。
「実際に渡すことを考えると、すごく緊張します」
「それなら、まだ数日あるじゃない」
「……そうですね」
舞夜は頷いた。
そして、もう一度小さな箱を見る。
頭に浮かぶのは、大樹の顔だった。
笑ったときの表情。
一緒に訪れた神社。
二人で撮った写真。
これまでに交わした、二度の頬へのキス。
そして――。
自分自身が何度も繰り返してきた言葉。
『私に恋をしてください』
けれど今回は、それとは少し違う。
このチョコレートに込めたいのは、ただ大樹を自分に振り向かせるための気持ちではなかった。
無理に答えを求めたいわけでもない。
急がせたいわけでもない。
ただ――。
自分の気持ちを、ほんの少しだけ渡したい。
言葉では、まだ全部伝えられない想いを。
そして、その気持ちを受け取った大樹が、どう思うのかを知りたい。
舞夜は完成した箱を大切にしまった。
「……大樹くん」
小さく呟く。
そして、少しだけ笑った。
「気に入ってくれたら嬉しいな」
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