バレンタインの噂
二月が始まった。
冬の寒さはまだ朝の空気を冷たくしている。
けれど、学校の中には、いつも以上に落ち着かない空気が漂っていた。
テストのせいではない。
宿題でもない。
まだ数日先にある、ある日のせいだ。
バレンタインデー。
「今年こそ、絶対にチョコをもらうぞ!」
松が、何の根拠もなさそうな自信に満ちた顔で宣言した。
「それ、去年も言ってなかったか?」
俺が答える。
「今年は違う!」
「どうして?」
「俺は変わったからだ!」
「どこが?」
「髪型がちょっと変わった!」
「それは関係ないだろ」
松が胸に手を当てる。
「大樹……お前は冷たすぎる」
「事実だろ」
近くの席にいた結衣が会話に入ってくる。
「大丈夫だよ」
「何が?」
「私がチョコあげるから」
松が勢いよく顔を上げる。
「本当か!?」
「うん」
「やっぱり結衣は頼りになるな!」
「石の形をしたチョコだけど」
「……今の話、なかったことにしてくれ」
俺は思わず笑った。
教室のあちこちで、バレンタインの話題が続いている。
買ったチョコを渡すつもりだという人。
自分で作ると言っている人。
誰が一番チョコをもらえそうか、本気で話し合っている男子までいる。
俺はできるだけ気にしないようにしていた。
けれど――。
後ろから聞こえてきた会話に、思わず耳を傾けてしまった。
「今年、八神ってチョコ渡すのかな?」
「たぶん渡すんじゃない?」
「八神なら、男子からもかなりもらいそうだけどな」
「まあ、八神だし」
その言葉を聞いた瞬間、なぜか気になった。
俺はさりげなく舞夜のほうを見る。
舞夜は自分の席でスマホを見ていた。
表情はいつも通り落ち着いている。
けれど、自分の名前が聞こえたのだろう。
舞夜が少しだけ顔を上げた。
そして、俺と目が合う。
「……どうしました?」
「いや」
俺は視線を逸らした。
「ちょっと考え事してた」
「何をですか?」
「バレンタインのこと」
舞夜が一瞬、黙った。
「……ああ」
「舞夜は、バレンタイン好きなのか?」
「どうでしょう」
「分からない?」
「はい」
舞夜は少しだけ視線を落とす。
「なんだか、難しい日ですよね」
「難しい?」
「みんな、意味を持たせすぎるというか……」
「確かにな」
「ただのチョコレートなのに、渡す相手によって意味が変わってしまうでしょう?」
「そうだな」
舞夜は少し考えるように黙った。
そして――。
「でも……」
「ん?」
舞夜が俺を見る。
「チョコを渡したい人は、何人かいます」
俺の心臓が小さく跳ねた。
「……何人か?」
「はい」
「一人じゃなくて?」
舞夜が少しだけ笑った。
「どうでしょう」
「そっか」
俺はできるだけ普通に答えた。
けれど、頭の中には別の質問が浮かんでいた。
そして――。
どうしても聞かずにはいられなかった。
「……俺は?」
舞夜が瞬きをする。
「大樹くんは……?」
「いや」
俺は慌てて言い直す。
「何でもない。忘れて」
舞夜はしばらく俺を見つめていた。
そして、ふっと笑う。
「……珍しいですね」
「何が?」
「大樹くんが、そんなことを気にするなんて」
「別に気にしてない」
「そうですか?」
「ただ聞いただけだ」
「はいはい」
舞夜はスマホへ視線を戻す。
けれど――。
その口元には、ほんの少し笑みが浮かんでいた。
俺も自分の机を見る。
それでも、頭の中には一つの疑問が残っていた。
舞夜は、今年俺にチョコをくれるのだろうか。
気にする必要なんてない。
たかがチョコだ。
そう自分に言い聞かせる。
でも――。
気にしないようにすればするほど、その疑問は頭から離れなくなっていった。
しかも、バレンタインまではまだ数日ある。
まだ時間はある。
なのに――。
俺はもう、その日を意識し始めていた。
そして、次の休み時間。
状況はさらに悪化した。
「大樹」
結衣が俺の前に立っていた。
いつものように、何かを企んでいるような表情をしている。
「何?」
「質問があります」
「また?」
「うん。また」
結衣が少しだけ身を乗り出す。
「もし、舞夜がバレンタインにチョコをくれたら――」
「……何?」
「嬉しい?」
俺は黙った。
「……分からない」
「嘘」
「なんで?」
「笑ってるから」
俺は自分の頬に触れる。
……本当だ。
少し笑っていた。
「これは別に、そういう意味じゃない」
「はいはい」
結衣が楽しそうに笑う。
そして、俺の肩を軽く叩いた。
「じゃあ、一つだけ覚えておいて」
「何?」
「期待しすぎないこと」
俺は眉をひそめる。
「……どういう意味だ?」
結衣は答えなかった。
ただ手を振りながら、自分の席へ戻っていく。
「そのうち分かるよ」
「おい、結衣」
俺はその背中を見送った。
一体、何を知っているんだ?
俺は自分の席へ戻る。
舞夜は窓の外を見ていた。
どうやら、さっきの会話は聞いていなかったらしい。
俺が席に座ると、舞夜が少しだけこちらを向いた。
「結衣と、何を話していたんですか?」
「大したことじゃない」
「本当ですか?」
「ああ」
舞夜が小さく笑う。
「……そうですか」
そして、再び窓の外を見る。
俺も同じ方向を見る。
空は灰色だった。
冬は、まだ終わっていない。
けれど――。
なぜか俺には、二月という月が今までとはまったく違うものに感じられていた。
バレンタインまで、まだ数日。
それなのに、俺の中にはすでに一つの期待が生まれている。
舞夜は、どんなチョコを作るんだろう。
誰に渡すんだろう。
そして――。
俺にも、くれるんだろうか。
「……」
考えれば考えるほど、気になってくる。
今までなら、こんなことを気にするなんて思いもしなかった。
でも今は――。
一つだけ、どうしても知りたい。
今年のバレンタイン。
俺は舞夜から――。
どんなチョコをもらうのだろうか。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
バレンタインが近づき、大樹も少しずつ舞夜からのチョコを意識し始めました。
そして、何かを知っていそうな結衣。
果たして彼女は何を企んでいるのでしょうか。
次回もお楽しみに!




