破れない約束
その日の授業が、ようやく終わった。
空がゆっくりとオレンジ色に染まり始める中、生徒たちは少しずつ校舎を出ていく。
俺も荷物をまとめ、教室を出た。
廊下には、舞夜がすでに待っていた。
「大樹くん」
「帰るか?」
「はい」
俺たちは一緒に階段を下り、正面玄関から外へ出た。
一月の空気はまだ冷たい。
それでも、夕暮れの光が街を照らしているせいか、いつもより穏やかに感じられた。
俺たちは並んで歩く。
しばらく、どちらも何も話さなかった。
気まずい沈黙ではない。
いつの間にか、俺たちはこういう沈黙も自然に共有できるようになっていた。
やがて、舞夜が口を開く。
「今日は、なんだか不思議でした」
「どうして?」
「冬休みの間に、あんなにいろいろなことがあったのに……」
舞夜は少し考える。
「学校に戻ってくると、まるで何も変わっていないみたいで」
俺は舞夜を見る。
「でも、変わったよ」
舞夜が微笑む。
「……はい」
俺たちはそのまま歩き続けた。
すると、舞夜が何かを思い出したように言った。
「そういえば、大樹くん」
「ん?」
「初詣の時、私がお願いしたことを覚えていますか?」
「ああ」
「今年も大樹くんと一緒に、たくさんの思い出を作りたいって」
「まだ一年は始まったばかりだ」
「そうですね」
舞夜が頷く。
「まだまだ時間はあります」
そして、舞夜が足を止めた。
俺も立ち止まる。
そこは学校の正門から少し離れた、静かな道だった。
周囲には、もうほとんど人がいない。
舞夜が俺をまっすぐに見つめる。
「だから――逃げないでくださいね」
「逃げる?」
舞夜がゆっくりと手を伸ばす。
そして、俺の手を取った。
指と指が絡み合う。
「だって、あの日に言ったことを覚えていてほしいから」
心臓が小さく跳ねた。
何のことなのか、すぐに分かった。
ずっと前のことだ。
すべてが始まった日。
舞夜が俺の前に現れて、俺たちの関係を大きく変えることになった言葉を口にした日。
舞夜がゆっくりと息を吸う。
頬が少しずつ赤くなっていく。
そして――。
笑った。
「――私に恋をしてください」
一瞬、俺は何も言えなかった。
その言葉。
あの日に聞いた、あの言葉と同じだった。
当時の俺には、無茶な要求にしか聞こえなかった。
あり得ない話。
舞夜が自分で決めた、奇妙な目標。
けれど――。
今は違う。
まったく違って聞こえた。
あれから、いろいろなことがあった。
舞夜が俺の手を優しく握り直す。
「覚えていますか?」
「ああ」
「最初は……大樹くんに私を好きになってもらえれば、それでいいと思っていました」
舞夜が少し笑う。
「私の中では、簡単なことだったんです」
「……今は?」
舞夜が視線を落とす。
「今は……そう簡単じゃなかったんだって思います」
「どうして?」
「だって……」
舞夜が再び顔を上げる。
「大樹くんに私を好きになってもらおうとしているうちに――」
少しだけ間を置いて。
「私も、どんどん大樹くんのことを好きになってしまったから」
俺は完全に動きを止めた。
舞夜は続ける。
「だから、もうこれは遊びみたいなものにしたくありません」
その声は穏やかだった。
「これからも、大樹くんと一緒に進んでいきたいです」
舞夜は俺の手を握ったまま続ける。
「無理に何かをさせるんじゃなくて」
「急がせることもなくて」
「ただ……」
舞夜が少しだけ笑う。
「私たちが、どこまで一緒に進めるのかを見てみたいです」
俺は、握られていた手に少しだけ力を込めた。
「舞夜」
「はい?」
俺は笑った。
「もう、そんなに心配しなくてもいいと思う」
舞夜が少し目を見開く。
「どうしてですか?」
「だって――」
俺は少しだけ間を置く。
「舞夜がこれからも俺を好きにさせようとしてくるなら……」
そして、笑いながら続けた。
「たぶん、もう止めるには遅すぎるから」
舞夜が完全に固まった。
「……え?」
「何でもない」
「えっ?」
舞夜の顔が真っ赤になる。
「今のは何ですか!?」
「いや、ただ本当のことを言っただけ」
「そんなことを言っておいて、『何でもない』はずるいです!」
俺は笑った。
舞夜は俯いたまま、しばらく黙っている。
やがて――。
小さな声が聞こえた。
「……じゃあ」
「ん?」
「大樹くんは、私を好きになるところまで近づいているってことですか?」
俺は舞夜を見る。
その表情には、素直な疑問が浮かんでいた。
冗談ではない。
けれど、今ここで焦って答えを出したくもなかった。
だから俺は――。
握っていた手に、もう一度少しだけ力を込めた。
「……このまま歩こう」
「それ、答えになってません」
「分かってる」
「大樹くん……」
俺は笑った。
「でも、約束にはなる」
舞夜が俺を見つめる。
数秒後――。
彼女も微笑んだ。
「……分かりました」
俺たちは再び歩き始めた。
繋いだ手は、そのままだった。
歩きながら、俺はあの日の自分を思い出していた。
舞夜から突然、「私に恋をしてください」と言われた俺。
あの時は、どうして彼女がそんなことを言うのか理解できなかった。
でも今なら、少し分かる気がする。
もしかしたら――。
舞夜は、俺を無理に好きにさせようとしたわけじゃなかったのかもしれない。
一緒に出かけたこと。
写真を撮ったこと。
何度も話したこと。
気まずくなったこと。
少し意地悪をされたこと。
その一つ一つが――。
ただ、俺との距離を縮めるための舞夜なりの方法だったのかもしれない。
そして今は。
俺も、舞夜との距離を縮めたいと思っている。
舞夜が歩きながら、そっと肩を俺の肩に寄せる。
「大樹くん」
「ん?」
「約束、忘れないでくださいね」
「忘れない」
「今年は、たくさん思い出を作らないといけませんから」
「ああ」
「それから、逃げちゃ駄目です」
俺は笑った。
「逃げるつもりなんてないよ」
舞夜が俺の手を、もう一度優しく握る。
「……それなら安心しました」
太陽が建物の向こうへ完全に沈んでいく。
街に少しずつ夜が訪れる。
それでも俺たちは、手を繋いだまま歩き続けた。
いつからだったのか。
いつ、あの言葉がただの冗談ではなくなったのか。
俺にはまだ分からない。
でも――。
初めて舞夜に言われた、あの言葉。
「私に恋をしてください」
今なら、少しだけ違って聞こえる。
もしかしたら――。
その答えは、もうそれほど遠くないのかもしれない。
いや。
もしかすると――。
俺はもう、その始まりに立っているのかもしれなかった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
あの日から続いてきた舞夜の言葉が、今の大樹には少し違って聞こえるようになりました。
二人の関係は、いよいよ新しい段階へ進み始めています。
次回もお楽しみに!




