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小さな一歩

駅は、かなり静かだった。


通勤・通学の時間帯とは違い、電車を待っている学生や会社員もほんの少ししかいない。


舞夜と俺は、改札の前で立ち止まった。


「今日は、送ってくれてありがとうございます」


「別に、お礼なんていいよ」


「……いえ。お礼を言いたいです」


舞夜はバッグのストラップを両手で握った。


「今日は、私にとって大切な一日だったので」


「どうして?」


舞夜は少しだけ視線を落とした。


「大樹くんの家族に会えたからです」


そして、少し間を置く。


「それに……」


「私のことを受け入れてもらえた気がしました」


俺は笑った。


「当たり前だろ」


「……本当に?」


「もちろん」


舞夜は手首のブレスレットに視線を落とした。


「……それなら、よかったです」


電車が来るまで、まだ数分ある。


俺たちはホームのベンチに座った。


「大樹くん」


「ん?」


「大樹くんのお母さんって、本当に優しいですね」


「うん」


「妙子さんも」


「まあ……ちょっとだけうるさいけどな」


「ふふっ。少しだけですね」


舞夜が笑う。


「でも、お二人と話せて楽しかったです」


「二人も、たぶん同じだと思う」


「本当ですか?」


「うん」


「母さんなんて、いつでも来ていいって言ってただろ?」


舞夜は嬉しそうに笑った。


「……じゃあ、また来ます」


「そんなにあっさり?」


「はい」


舞夜は少しだけ胸を張る。


「大樹くんの家、好きですから」


「それは嬉しいな」


小さな沈黙が落ちた。


まだ電車は来ない。


舞夜は線路の先を見つめた。


それから、俺を見る。


「大樹くん」


「ん?」


「今日、気づいたことがあるんです」


「何に?」


「もっと、大樹くんのことを知りたいって思いました」


俺は舞夜を見る。


「学校のことだけじゃなくて」


「一緒に行った場所だけでもなくて……」


舞夜はゆっくりと言葉を続ける。


「大樹くんにとって大切なものを、もっと知りたいです」


俺は、しばらく舞夜を見つめていた。


「だったら、もっと家に来ないとな」


「……来てもいいですか?」


「もちろん」


舞夜は嬉しそうに笑った。


「じゃあ……そうします」


その時。


遠くから、電車が近づいてくる音が聞こえてきた。


舞夜が立ち上がる。


「来ましたね」


俺たちは乗車位置へ移動した。


やがて電車がホームに入り、扉が開く。


けれど、舞夜は乗り込む前に足を止めた。


「大樹くん」


「ん?」


「今日は、誘ってくれてありがとうございました」


「こっちこそ、来てくれてありがとう」


「それから……」


舞夜の声が、少しだけ小さくなる。


「私に、家族の一部を見せてくれて……ありがとうございました」


俺は笑った。


「いつでも」


舞夜が、一歩だけ俺に近づく。


一瞬、いつものように「また明日」と言って別れるのだと思った。


けれど――。


舞夜は、もう一歩だけ近づいた。


そして。


頬に、柔らかな感触が触れた。


ほんの一瞬。


キスだった。


俺は完全に固まった。


舞夜も動かなかった。


ただ、その頬は真っ赤になっている。


「……これは」


舞夜は俺の目を直接見ないまま、小さな声で言った。


「今日、招待してくれたお礼です」


「お……お礼?」


「はい」


「そういうことです」


俺はゆっくりとうなずいた。


「……分かった」


たぶん、俺の顔も舞夜と同じくらい赤くなっていたと思う。


舞夜が一歩後ろへ下がる。


「何も言わないでくださいね」


「言うつもりないよ」


「……なら、よかったです」


その瞬間、電車から扉が閉まることを知らせる音が鳴った。


舞夜が目を見開く。


「……あっ!」


そして慌てて電車に乗り込む。


「乗らないと!」


扉が閉まる直前、舞夜が振り返った。


「おやすみなさい、大樹くん!」


「おやすみ!」


扉が閉まる。


電車がゆっくりと動き始める。


俺はその場に立ち尽くしたままだった。


やがて、片手を上げる。


そして、自分の頬に触れた。


まだ、あの瞬間の熱が残っているような気がした。


「……今の、何だったんだ……?」


一方、その頃。


電車の中では、舞夜が窓際の席に座っていた。


両手で顔を覆っている。


「……やっちゃった」


大樹にキスをした。


頬に。


ほんの一瞬だけ。


それなのに、心臓はずっと騒がしい。


数秒間、舞夜は顔を隠したままだった。


そして、指の隙間から少しだけ外を見る。


「……本当に、やっちゃった」


思わず笑みがこぼれた。


手首のブレスレットを見る。


それから、窓の外を流れていく街の明かりを見る。


「……恥ずかしい」


そう呟きながらも、その笑顔は消えなかった。


その頃、俺はようやく駅から歩き始めていた。


まだ、完全には頭の中を整理できていない。


でも、一つだけ分かっていることがあった。


あの小さなキスは――。


これまで俺たちがしてきたこととは、少し違っていた。


約束でもない。


告白でもない。


だけど――。


確かに、一歩だった。


小さな一歩。


そして、もしかしたら……。


今の俺たちに必要だったのは、まさにそんな一歩だったのかもしれない。


◇


家に戻り、玄関を開けた瞬間。


リビングから母さんの声が聞こえた。


「もう帰ってきたの?」


「うん」


「舞夜ちゃんとは、ちゃんと別れられた?」


俺は足を止めた。


「……別れ?」


母さんがリビングから顔を出す。


その後ろから妙子も出てきた。


二人が俺を見る。


そして――。


俺の表情を見る。


「……何かあった?」


妙子が尋ねる。


「何もない」


「顔、赤いけど」


「寒いからだよ」


「それじゃ、その顔の説明になってないけど」


「本当に何もないって」


母さんが目を細めた。


「大樹」


「……何?」


「舞夜ちゃん、電車に乗る前に何かした?」


俺は完全に固まった。


母さんが、にっこり笑う。


「あら」


妙子が目を見開いた。


「えっ!? 何かあったの!?」


「おやすみ!」


俺はそのまま階段を駆け上がった。


背後から、二人の笑い声が聞こえる。


でも――。


初めてだった。


家族に何か知られてしまうことが、そこまで嫌じゃなかった。


自分の部屋に入り、扉を閉める。


そして、手首のブレスレットを見る。


頭に浮かぶのは、ただ一つ。


あの小さなキスが、何かを変えた。


そして――。


俺も舞夜も。


そのことを、後悔していないような気がした。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます!


舞夜が、大樹に小さな一歩を踏み出しました。


二人の距離は、少しずつ変わり始めています。


次回もお楽しみに!

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