文化祭の代表
何かがおかしかった。
いや、かなりおかしい。
一時間目が始まってからずっと、教室の空気が妙だった。
先生はいつも通り授業を進めている。
黒板に文字を書き、生徒たちはノートを開いている。
……少なくとも、そう見える。
実際には、誰も授業なんて聞いていなかった。
まあ、何人かは真面目に聞いていたのかもしれない。
でも、少なくとも俺の周りの連中は違った。
なぜなら、みんな俺を見ていたからだ。
そして――。
八神舞夜のことも。
「お前のせいだ」
小声でそう言うと、窓際の席に座る舞夜は、ちらりと俺を見た。
「違います」
「いや、絶対そうだろ」
「違います」
「そうだ」
「違います」
「そうだ」
「……少しだけです」
「かなりだよ」
思わずため息が漏れる。
舞夜はいつものように窓の外を眺めていた。
けれど、今日は何かが違った。
普段の彼女なら、周りの視線なんてまったく気にしない。
誰が何を言おうと、気にも留めない。
なのに、今日は違う。
どこか落ち着かないように見えた。
時々、居心地が悪そうに視線をそらしている。
そんな八神舞夜なんて、今まで見たことがなかった。
そもそも、八神舞夜は気まずくなる側の人間じゃない。
いつだって、周りを気まずくさせる側だった。
だからこそ、今の彼女の様子は妙だった。
そして――。
そん授業終了のチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一変した。
あちこちから話し声が聞こえてくる。
笑い声。
ひそひそ話。
そして、その話題は決まっていた。
俺たちのことだ。
「ねえ、聞いた?」
「もう付き合ってるらしいよ」
「え、本当に?」
「でも、いつも一緒にいるじゃん」
「それは確かに……」
「……」
消えたい。
今すぐ、この教室から消え去りたい。
そんなことを考えていると、聞き慣れた声が横から飛んできた。
「おはよう、クラス公認カップル第一号」
「死ね」
「朝からひどいなあ」
「愛を込めて言ってる」
「余計にひどい」
結衣は近くの机に腰を下ろし、楽しそうに笑った。
「噂、すごい勢いで広がってるね」
「見れば分かる」
「二人とも人気者じゃん」
「全然うれしくない」
「えー、私は微笑ましいと思うけど?」
「誰も聞いてない」
「知ってる」
本当にこいつは自由だ。
ため息をつきながら視線を前に向けた、その時だった。
ふと、違和感に気づく。
舞夜が静かだった。
いや、静かすぎる。
普段の彼女なら、結衣に何か言い返しているはずなのに、今日は違った。
ただ黙って窓の外を眺めている。
「……どうした?」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
舞夜はゆっくりとこちらを見た。
「何がですか?」
「なんか、今日は変だろ」
一瞬、教室が静かになった気がした。
すると、結衣が勢いよくこちらを向く。
まるで獲物を見つけた肉食獣みたいな目だった。
「おおー?」
「黙れ」
「黙らない」
「頼むから黙ってくれ」
「無理」
やっぱり無理だった。
俺が諦めると、舞夜はふいに視線をそらした。
ほんの一瞬。
本当に、それだけだった。
だけど、その短い沈黙だけで十分だった。
最近の俺は、少しずつ分かるようになってきていた。
八神舞夜が、何かを隠している時のことを。
「……噂、気にしてるのか?」
数秒の沈黙。
短いはずなのに、妙に長く感じた。
「気にしていません」
即答だった。
でも――。
嘘だ。
「いや、気にしてるだろ」
「気にしていません」
「絶対気にしてる」
「……少しだけです」
「やっぱりな」
すると、結衣が大げさに胸を押さえた。
「何これ、青春すぎるんだけど」
「なんでまだいるんだよ」
「運命が私を必要としてるから」
「その運命、今すぐ警察に連絡したほうがいいぞ」
結衣は大笑いしていた。
でも、俺は笑えなかった。
だって――。
目の前で少しだけ困った顔をしている八神舞夜を見てしまったからだ。な変化に気づいてしまった自分自身が、一番厄介だった。
次の授業が始まった。
そして同時に――。
今日最大の問題がやってきた。
ホームルーム担当の教師が教壇に立ち、軽く咳払いをする。
「よし、席につけ」
さっきまで騒がしかった教室が、少しずつ静かになっていく。
「授業を始める前に、一つ大事な話がある」
嫌な予感しかしない。
先生の言う「大事な話」が、良い話だった試しはない。
「みんなも知っていると思うが、三週間後に文化祭がある」
その瞬間、教室が爆発した。
「よっしゃあ!」
「やっと来た!」
「文化祭だー!」
あちこちから歓声が上がる。
まあ、無理もない。
文化祭は、この学期最大のイベントだ。
屋台。
ゲーム。
ステージ発表。
クラス対抗の催し。
そして何より――。
授業が減る。
それが一番大きい。
「静かにしろ」
誰も聞かない。
「静かにしろ」
やっぱり誰も聞かない。
先生は大きくため息をついた。
そして、静かに一言。
「騒ぐなら、クラスの評価点を下げるぞ」
教室は一瞬で静まり返った。
恐ろしいほどの効果だった。
さっきまでの盛り上がりはどこへ行ったんだ。
「……よし。話を続けるぞ」
先生は満足そうにうなずき、黒板に大きく「文化祭」と書いた。
どうやら、本当に逃げられない話らしい。
「今年の文化祭では、各クラスがそれぞれ出し物を企画することになっている」
先生の言葉に、教室の空気が一気に明るくなった。
文化祭。
それは、この学校で最も盛り上がる行事だ。
屋台。
ゲーム。
演劇。
コンテスト。
そして――。
自由時間。
みんなが楽しみにするのも無理はない。
「そこで、まずは実行委員を決める」
……嫌な予感がした。
いや、予感じゃない。
確信だ。
実行委員。
それは文化祭を裏で支える、最も面倒な役割の一つ。
準備。
会議。
資料作り。
責任。
つまり、絶対になりたくない。
「二人、代表を選ぶぞ」
教室が静まり返る。
誰も先生と目を合わせようとしない。
もちろん、俺もその一人だった。
ゆっくりと視線を机に落とす。
昔から使っている必勝法だ。
先生と目が合わなければ、存在しないのと同じ。
少なくとも、俺はそう信じている。
「さて……」
先生の視線が教室を見回す。
頼む。
頼むから、俺を見るな。
心の中で必死に祈る。
すると――。
「南大樹」
……終わった。
ゆっくり顔を上げると、先生としっかり目が合っていた。
「なんで俺なんですか?」
「お前は真面目に仕事をするからだ」
「それ、褒めてるようで罰ゲームですよね?」
「褒め言葉として受け取っておけ」
「断る権利は?」
「ない」
即答だった。
ひどすぎる。
「じゃあ、南。よろしくな」
「いや、まだ了承してませんけど」
「そうか。了承してくれて助かる」
「人の話を聞いてください」
「よし、次だな」
全然聞いていなかった。
やっぱり教師という生き物は理不尽だと思う。
「さて、もう一人必要だな」
先生の言葉と同時に、教室が静まり返った。
誰も視線を上げない。
みんな、必死に存在を消そうとしている。
もちろん、俺もその一人だった。
さっき失敗したばかりだけど、諦めるつもりはない。
先生は教室を見回す。
そして――。
たった一人だけ、先生を見ていない人間がいた。
八神舞夜だ。
彼女はいつものように窓の外を眺めていた。
だから、気づかなかった。
自分に危機が迫っていることに。
「八神」
その瞬間、舞夜がゆっくりと瞬きをした。
「……はい?」
「もう一人の代表は、お前に任せる」
数秒の沈黙。
教室の空気が凍りつく。
そして次の瞬間――。
クラス全員の視線が、一斉に俺たちへ向けられた。
俺と舞夜。
またしても、二人同時に。
「嫌です」
「嫌だ」
……。
完全に重なった。
一秒遅れて、教室中が爆笑に包まれる。
「ははははは!」
「また同じタイミングだ!」
「息ぴったりじゃん!」
そして、その中心で一番笑っていたのは、もちろん結衣だった。
「ちょっと待って! 二人ともシンクロしすぎでしょ!」
「うるさい」
「黙れ」
「ほら! 今のも同時!」
「「……」」
再び笑い声が広がる。
最悪だ。
俺が頭を抱えていると、隣の舞夜が片手で顔を覆った。
俺は思わず、その姿を見つめてしまう。
驚いた。
八神舞夜が、こんな反応をするなんて。
今まで、一度も見たことがなかった。
耳まで少し赤くなっている。
どう見ても、完全に照れていた。
そして――。
噂なんかよりも、その姿のほうが、ずっと危険だった。
だって、そんな表情を見せられたら。
八神舞夜が、今までよりずっと近い存在に思えてしまう。
もっと普通の女の子に見えてしまう。
そして、そんな彼女を――。
もう、簡単には無視できそうになかった。
第十八話『文化祭の代表』を読んでいただき、ありがとうございました。
広がる噂に振り回されながらも、大樹と舞夜の距離は少しずつ変わり始めています。
そんな中、二人は文化祭の代表に選ばれてしまいました。
照れることのなかった舞夜が見せた意外な一面。
そして、その姿に戸惑う大樹。
文化祭の準備とともに、二人の関係も少しずつ動き始めます。
それでは、また第十九話でお会いしましょう。




