広がる噂
普通の人間は、夜になれば眠る。
俺だって、そのつもりだった。
少なくとも、ベッドに入った時点では。
問題は、「眠りたい」という気持ちと、「実際に眠れる」ことは、まったく別だということだ。
ブブッ。
「……」
枕元に置いていたスマホが、小さく震えたわけではない。
俺が、また画面を開いただけだ。
これで五回目だった。
一分も経っていないのに。
もちろん、新しいメッセージが来たわけじゃない。
ただ、同じ文章を何度も見返しているだけだ。
『起きていますか?』
送り主は、八神舞夜。
「……何やってるんだ、俺」
自分でも呆れる。
普通なら、すぐに返信するか、そのまま無視するかの二択だ。
少なくとも、五分近くスマホを見つめ続けるのは絶対に違う。
「馬鹿らしい……」
小さくため息をつきながら、ようやく返信画面を開く。
少し迷ってから、短く打ち込んだ。
『残念ながら』
送信。
そして――。
三秒後。
『じゃあ、起きていたんですね』
「いや、当たり前だろ」
思わず声が漏れた。
『今返信したばかりだろ』
すると、すぐに返事が来る。
『知っています』
『じゃあ、確認する必要なかっただろ』
『確認したかったので』
「何なんだよ、その理由……」
ベッドの上で天井を見上げる。
相変わらず意味が分からない。
本当に、意味が分からない。
けれど、不思議なことに、嫌ではなかった。
むしろ、少しだけ安心している自分がいることに気づいて、俺は慌ててその考えを振り払った。
絶対に気のせいだ。
そういうことにしておこう。
とりあえず、そういうことにしておくしかなかった。
不思議なものだった。
メッセージ越しに話している時の舞夜は、普段とは少し違って見えた。
もちろん、根本的な部分は何も変わらない。
相変わらず強引だし、意味の分からないことを言うし、人の話を聞いているのか怪しい時もある。
けれど、直接話している時のような妙な圧迫感はなかった。
隣に座ってくることもない。
やたらと顔を近づけてくることもない。
じっと見つめられることもない。
あるのは、スマホの画面に並ぶ文字と、静かな夜だけだった。
『それで、何の用だ?』
送信する。
数秒後、返信が返ってきた。
『特にありません』
「嘘だろ」
即座に打ち込む。
『絶対に嘘だろ』
しばらくして、返事が届く。
『少しだけあります』
『やっぱりな』
思わず小さく笑ってしまう。
すると、そのまま数十秒ほど既読がついたまま動かなくなった。
何を書いているんだろう。
そんなことを考えていた、その時だった。
新しいメッセージが表示される。
『今日は、ありがとうございました』
「……は?」
思わず、画面を見つめる。
今日だけで、もう三回目だった。
朝食のこと。
話を聞いたこと。
そして、今。
舞夜が何かに感謝するなんて、それ自体が珍しい。
しかも、一日に三回も。
どう考えても異常事態だった。
『もう十分感謝されたぞ』
そう送ると、数秒後に返信が来る。
『知っています』
『じゃあ、もういいだろ』
『よくありません』
『いや、いいだろ』
『よくありません』
『いい』
『よくありません』
『いい』
数秒の沈黙。
そして、再びメッセージが表示された。
『……少しだけです』
「何なんだよ、それ」
思わず吹き出しそうになる。
結局、こいつはメッセージでもこいつのままだった。
そう思いながらスマホを置こうとして――。
ふと、あることに気づく。
さっきまで眠れないほど落ち着かなかったはずなのに、今は妙に心が軽かった。
「……いや、待て待て」
慌てて首を横に振る。
違う。
これはただ、会話が終わったから安心しただけだ。
決して、八神舞夜と話していたからじゃない。
……たぶん。
いや、絶対にそうだ。
そう自分に言い聞かせながら、俺はもう一度、スマホの画面を見つめた。
結局、その夜、眠れたのはかなり遅い時間だった。
舞夜とのやり取りが終わったあとも、なかなか寝つくことができなかった。
そして、その結果――。
翌朝、盛大に寝坊した。
「大樹ーー!!」
一階から母さんの声が響き渡る。
「あと三十秒で降りてこなかったら、朝ご飯なしだからねー!!」
「今行く!!」
その言葉を聞いた瞬間、俺はベッドから飛び起きた。
時計を見る。
「……終わった」
完全に寝過ごしていた。
慌てて制服に着替え、顔を洗い、階段を駆け下りる。
転びそうになりながらリビングへ飛び込むと、いつもの朝の光景が広がっていた。
キッチンでは、母さん――南香澄がコーヒーを淹れている。
テーブルでは、妹の多恵子がスマホをいじっていた。
そして父さんは、新聞を広げながら朝食を食べている。
いつも通りの、見慣れた朝だった。
「おはよう、大樹」
母さんが笑いながら言う。
「全然、おはようじゃない……」
椅子に座りながら答えると、父さんが新聞から顔を上げた。
「珍しいな。お前が寝坊なんて」
「ちょっと寝るのが遅くなっただけだよ」
「ふーん」
母さんが、意味ありげな笑みを浮かべる。
嫌な予感しかしない。
「もしかして、女の子と話してた?」
「ぶっ――!?」
危うくパンを吹き出しそうになった。
「な、何言ってるんだよ!?」
すると、スマホを見ていた多恵子が勢いよく顔を上げる。
獲物を見つけた肉食動物みたいな目をしていた。
「え、お兄ちゃん、女の子?」
「違う!」
「怪しい」
「怪しくない!」
「絶対怪しい」
「だから違うって!」
すると、多恵子は呆れたようにため息をついた。
「お兄ちゃん、分かりやすすぎるんだよね」
「何がだよ」
「図星だから、そんなに慌てるんでしょ?」
「慌ててない!」
「いや、慌ててる」
「慌ててない!」
「慌ててる」
「……何なんだ、この家族」
思わず頭を抱える。
すると、父さんが新聞を畳みながら苦笑した。
「青春だな」
「違うから!」
家族全員が笑う。
俺だけを置き去りにして。
「本当に怖いんだけど、この家」
そう呟きながら、俺は半ばやけくそになって朝食を口へ放り込んだ。
学校へ向かう途中、嫌な予感がしていた。
理由は分からない。
ただ、こういう予感は大体当たる。
そして、その日も例外ではなかった。
校門をくぐった瞬間――。
「……何だ?」
妙な視線を感じた。
すれ違う生徒たちが、ちらちらとこちらを見ている。
それだけなら、まだいい。
問題は、そのあとだった。
「ねえ、あれ南くんじゃない?」
「本当だ」
「やっぱりそうなんだ」
「え、マジ?」
ひそひそ声が聞こえてくる。
いや、全然ひそひそじゃない。
普通に聞こえている。
「……嫌な予感しかしない」
思わずため息をつきながら、教室へ向かった。
そして、扉を開けた瞬間――。
そこには、満面の笑みを浮かべる松がいた。
嫌な予感が、確信へと変わる。
「おはよう、主人公」
「その呼び方をやめろ」
鞄を机に置きながら、俺は即座に言い返した。
しかし、松はまったく気にする様子もない。
むしろ、ますます楽しそうだった。
「いやあ、ついに学校中の有名人だな」
「……何の話だ?」
「本当に知らないのか?」
「だから聞いてるんだろ」
松はニヤニヤしながら、わざとらしく肩をすくめた。
「大したことじゃないさ」
「その言い方は絶対に大したことあるやつだ」
「まあ、簡単に言うと――」
そこで一度言葉を切る。
そして、満面の笑みのまま、とんでもないことを口にした。
「学校中が、お前と八神さんが付き合ってると思ってる」
「…………は?」
一瞬、意味が理解できなかった。
いや、理解したくなかった。
「待て待て待て待て」
「落ち着け」
「無理だろ!」
思わず机を叩きそうになる。
何をどうしたら、そんな話になるんだ。
俺は昨日一日を必死に思い返した。
だが、どう考えても意味が分からない。
「いや、絶対に何かの間違いだろ」
「残念ながら、そうでもないらしい」
松は楽しそうに笑っていた。
俺だけが、まったく笑えなかった。
「誰かがお前たちが昨日一緒に帰ってるところを見たらしい」
「それで?」
「そのあと、放課後に二人で話してるところも見られた」
「それで?」
「昼休みも一緒にいた」
「それで?」
「文学の授業では二人きりで作業してた」
「……」
俺は黙り込んだ。
言われてみれば、全部事実だった。
全部事実だったのが、余計にたちが悪い。
「いや、待て。だからって、なんで付き合ってることになるんだよ」
「高校生だからな」
「説明になってない」
「高校生の噂なんて、そんなもんだろ」
松はあっさりと言い切った。
確かに、その通りなのかもしれない。
けれど、納得はしたくなかった。
「というか、みんな暇すぎるだろ……」
「ものすごく暇なんだよ」
「勉強しろよ」
「お前もな」
「今はそういう話じゃない」
頭を抱えながら、俺は椅子に倒れ込む。
完全に悪夢だった。
しかも、かなり質の悪い悪夢だ。
すると、その瞬間――。
ガラッ。
教室の扉が開く音が響いた。
そして、不思議なことが起きた。
さっきまで騒がしかった教室が、一瞬で静まり返ったのだ。
「……え?」
何事かと思い、俺は扉のほうを見る。
そして、その理由を理解した。
教室に入ってきたのは――。
八神舞夜だった。
「…………」
舞夜も、何かを察したらしい。
教室中から向けられる視線。
あちこちから聞こえる小さな囁き声。
不自然なほどの静けさ。
いつもなら、そんなものを気にする様子なんて見せないはずなのに。
今日の舞夜は違った。
明らかに戸惑っていた。
教室を見回したあと、ほんの少しだけ眉をひそめる。
そして、俺たちの視線がぶつかった。
ほんの一秒。
たったそれだけの時間。
けれど、その瞬間――。
舞夜は、先に視線を逸らした。
「……は?」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
今まで、こんなことは一度もなかった。
むしろ、いつも先に目を逸らしていたのは俺のほうだった。
なのに、今日は違う。
舞夜のほうが、先に目を逸らした。
そのまま、何事もなかったかのように自分の席へ向かっていく。
けれど、その横顔は、どこか落ち着かないように見えた。
「おい、大樹」
隣で松が小さく笑う。
「これは、かなり面白いことになってきたな」
「全然面白くない」
即答した。
だが、松は楽しそうに肩を震わせている。
俺はもう一度、舞夜の背中を見つめた。
確かに、何かが変わり始めていた。
そして俺は、それが良いことなのか悪いことなのか、まだ分からなかった。
第十七話『広がる噂』を読んでいただき、ありがとうございました。
夜のメッセージから始まった小さな変化は、少しずつ二人の関係にも影響を与え始めています。
大樹も舞夜も、まだ自分の気持ちを理解できていません。
けれど、確実に何かが変わり始めています。
広がる噂が、二人の関係をどう変えていくのか。
それでは、また第十八話でお会いしましょう。




