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君を待つ夜

あの夜、俺はまったく集中できなかった。


本を読もうとした。


けれど、数ページ読んだところで内容が頭に入ってこなくなった。


スマホで動画を見ようとした。


五分もしないうちに、ぼんやりと画面を眺めているだけになった。


仕方なく、いつもより早く寝ようとベッドに入った。


だが、それも無駄だった。


目を閉じるたびに、思い出してしまう。


夕暮れの駐車場。


どこか疲れ切った舞夜の表情。


そして――。


『慣れていますから』


あの言葉。


あの声。


あの笑顔。


まるで、ずっと昔に諦めてしまった人みたいだった。


「……面倒くさいな」


小さく呟きながら、ベッドの上で寝返りを打つ。


右を向く。


落ち着かない。


左を向く。


やっぱり落ち着かない。


天井を見上げる。


当然、答えなんて降ってくるはずもなかった。


そもそも、どうして俺がこんなことで悩まなきゃいけないんだ。


八神舞夜が何を抱えていようと、俺には関係ない。


あいつの家庭の事情だって、俺が踏み込むべきことじゃない。


そんなことは、分かっている。


ちゃんと分かっているはずなのに――。


頭の中から、あの笑顔が離れなかった。


「……くそ」


もう一度、寝返りを打つ。


これで何回目なのか、自分でも分からない。


時計を見る。


まだ十一時を少し過ぎたばかりだった。


普段なら、とっくに眠っている時間なのに。


「本当に、どうかしてるな……」


そう呟いて、枕に顔を埋める。


けれど、その瞬間も、頭に浮かぶのはやっぱり舞夜のことだった。


そして、そんな自分自身に、俺は少しだけ苛立っていた。

その頃――。


街の反対側。


柔らかな明かりに照らされた、大きな屋敷の中を、八神舞夜は静かに歩いていた。


八神家の屋敷は、とにかく広かった。


三人家族で暮らすには、あまりにも広すぎるほどに。


豪華なシャンデリア。


磨き上げられた床。


美しく飾られた絵画や家具。


誰もが羨むような、完璧な家。


けれど、舞夜にとっては違った。


この家は、温かい場所ではなかった。


静かで。


綺麗で。


息が詰まるほど完璧で。


そして、どこまでも冷たかった。


コツ、コツ、と。


舞夜の足音だけが、長い廊下に響いていく。


使用人たちの姿は見えない。


家の中は静まり返っていた。


まるで、誰も住んでいない家みたいだった。


舞夜は何も言わず、ただ前を向いて歩き続ける。


やがて、一つの扉の前で足を止めた。


見慣れた、自分の部屋。


ゆっくりとドアノブに手をかける。


カチャリ、と小さな音が響いた。


そして、舞夜は静かに扉を開けた。


誰もいない、自分だけの空間へと足を踏み入れる。


ようやく、小さく息を吐いた。

舞夜の部屋は、この屋敷の中では珍しく、年頃の少女らしさが残る場所だった。


本棚には、小説や参考書がきれいに並べられている。


机の上には、几帳面に積まれたノート。


棚の隅には、小さなぬいぐるみがいくつか置かれていた。


ベッドの横には、優しい光を放つランプ。


この部屋にいる時だけ、舞夜は「完璧な優等生」ではなく、ごく普通の十六歳の女の子に見えた。


「……はぁ」


椅子に腰を下ろし、静かに目を閉じる。


ほんの数秒だけ。


何も考えない時間を作ろうとした、その時だった。


コンコン。


控えめなノックの音が部屋に響く。


舞夜はゆっくりと目を開けた。


「どうぞ」


扉が静かに開く。


そこに立っていたのは、八神久那だった。


舞夜の父親。


母親の千代子とは対照的に、どこか穏やかな雰囲気を持つ男性だった。


厳しさよりも優しさが先に伝わってくる。


舞夜が幼い頃から、ずっと変わらない人だった。


「まだ起きていたんだね」


「うん」


久那は小さく微笑んだ。


「勉強しているのかと思ったよ」


「もう終わったから」


「それは驚かないな」


そう言って、彼は軽く肩をすくめる。


舞夜も、ほんの少しだけ口元を緩めた。


二人の間に流れる沈黙は、不思議と苦しくなかった。


無理に言葉を探す必要もない。


何かを演じる必要もない。


母親といる時とは、まるで違う空気だった。


しばらくして、久那は舞夜の向かいの椅子に腰を下ろした。


そして、どこか困ったような表情を浮かべる。


「お母さん、少し機嫌が悪かったみたいだね」


舞夜は、小さくため息をついた。


「そうだと思った」


「何かあったのかい?」


舞夜は、父の顔を見つめる。


そして、彼が次に何を聞こうとしているのかを、すでに理解していた。


「先に言っておくけど、駄目だからね」


「まだ何も言ってないんだけど」


「でも、分かるから」


「それは少しひどくないかな」


「ひどいかも」


久那は苦笑する。


舞夜も、ほんの少しだけ笑った。


けれど、その笑顔は長くは続かなかった。


二人とも、これから話すことが冗談では済まないと分かっていたからだ。

「まだ続けるつもりなのかい?」


静かな部屋の中で、久那がぽつりと尋ねた。


舞夜は答えなかった。


答えなくても、その意味は分かっていたからだ。


部屋の中に、重い沈黙が落ちる。


そして、数秒後――。


「うん」


短い返事だった。


迷いはなかった。


まるで、ずっと前から決まっていたことを確認するような声だった。


「そうか……」


久那は視線を落とした。


どこか寂しそうな横顔だった。


「もしかしたら、気持ちが変わっているんじゃないかと思っていたんだけどね」


「変わらないよ」


舞夜は静かに答える。


「変えられないから」


また、その言葉だった。


変えられない。


止まれない。


選べない。


舞夜は、いつも同じことを言う。


そして、そのたびに久那は苦しそうな顔をするのだ。


「舞夜……」


父の声は、ひどく疲れていた。


心配していることが、痛いほど伝わってくる。


「君はまだ十六歳なんだ」


「分かってる」


「本当なら、こんなものを一人で背負う必要なんてない」


舞夜は何も答えなかった。


ただ、机の上に置かれた自分の手を見つめていた。


久那は続ける。


「少しくらい、誰かに頼ってもいいんじゃないか?」


静寂。


時計の音だけが、小さく響いていた。


そして、舞夜はゆっくりと顔を上げる。


「……もう慣れてるから」


その言葉を聞いた瞬間、久那は静かに目を閉じた。


まるで、その一言が胸に深く刺さったかのように。


「慣れなくていいことも、この世にはあるんだよ」


優しい声だった。


責めるわけでもなく、怒るわけでもない。


ただ、娘を心配する父親の声だった。


けれど、舞夜は小さく首を横に振る。


「もう遅いよ」


その言葉には、十六歳の少女らしからぬ諦めが混ざっていた。


久那は何も言い返せなかった。


言葉が見つからなかった。


いや、きっと、昔から何度も同じ会話を繰り返してきたのだろう。


だからこそ、今さら何を言っても、舞夜の決意は変わらないと分かっていた。


部屋の中には、再び静かな沈黙が流れていた。

数分後。


久那は静かに立ち上がった。


これ以上何を言っても、舞夜の気持ちは変わらない。


そんなことは、父親である彼自身が一番よく分かっていた。


「今日はもう休みなさい」


「うん」


舞夜は小さく頷く。


久那は扉のほうへ向かって歩き始めた。


けれど、部屋を出る直前、不意に足を止める。


「舞夜」


「何?」


舞夜が顔を上げる。


すると、久那は少しだけ困ったように笑った。


「一つだけ聞いてもいいかい?」


「内容による」


「そんなに警戒しなくてもいいだろう」


「お父さんがその顔をするときは、大体ろくなことを聞かないから」


「ひどいなあ」


苦笑しながら、久那は頭をかいた。


そして、少しだけ真面目な表情になる。


「南くんは、いい子なのかい?」


「……え?」


思わず、間の抜けた声が漏れた。


一瞬、何を聞かれたのか理解できなかった。


「南大樹くんだよ」


「どうして急にその話になるの?」


「いや、少し気になってね」


「……意味が分からない」


舞夜は呆れたようにため息をついた。


けれど、久那はどこか楽しそうだった。


「それで?」


「それでって?」


「いい子なのかどうか」


部屋の中が静まり返る。


舞夜は視線を窓の外へ向けた。


夕方、駐車場で見た大樹の姿が頭に浮かぶ。


『大丈夫か?』


心配そうな声。


何も聞かず、ただ隣にいてくれたこと。


朝食を食べていないことに気づいたこと。


自分の話を、最後まで聞いてくれたこと。


思い返せば返すほど、胸の奥が妙に落ち着かなかった。


「……そうだね」


小さな声が漏れる。


久那は黙って続きを待っていた。


そして舞夜は、少しだけ迷ったあと――。


「うん、いい人だと思う」


初めてだった。


誰かのことを、こんなふうに父親に話したのは。


その言葉を聞いた久那は、優しく微笑んだ。


「そうか」


それだけ言って、静かに扉を開ける。


「おやすみ、舞夜」


「おやすみ、お父さん」


扉が閉まる。


部屋には、再び静寂だけが残った。


けれど、舞夜の胸の中には、さっきまでとは少し違う感情が残っていた。

舞夜は、しばらくの間、窓の外を眺めていた。


夜の静寂が、ゆっくりと部屋を包み込んでいく。


カーテンの隙間から差し込む月明かりが、机の上を淡く照らしていた。


いつもなら、この時間も勉強をしている。


あるいは、次の日の予定を確認している。


けれど、その夜だけは違った。


頭の中に浮かんでくるのは、義務でも、約束でもなかった。


南大樹。


ただ、その名前だけだった。


『大丈夫か?』


夕方、駐車場で聞いた言葉が蘇る。


誰も気づかないようなことに、あいつだけは気づいていた。


朝食を食べていなかったこと。


無理をして笑っていたこと。


そして、何も聞かずに、ただ心配してくれたこと。


「……変なの」


小さく呟き、舞夜は視線を落とした。


今まで、誰かの言葉をこんなに何度も思い返したことなんてなかった。


なのに、今日は違う。


気づけば、大樹のことばかり考えていた。


机の上に置かれたスマートフォンへ、そっと手を伸ばす。


画面をつける。


連絡先を開く。


そして、一番上に表示された名前を見つめた。


『南大樹』


指先が止まる。


何を書けばいいのか分からない。


そもそも、この時間に連絡する理由なんてない。


何度も画面を閉じて、また開く。


送ろうとして、やめる。


そんなことを繰り返していた。


「……迷惑かな」


ぽつりと呟く。


もちろん、答えは返ってこない。


数秒間、スマホを見つめたあと――。


舞夜は、小さく息を吐いた。


そして、ゆっくりと文字を打ち込む。


『起きていますか?』


短い文章。


たったそれだけ。


それなのに、送信ボタンを押すまでに、数十秒もかかった。


やがて、意を決したように、画面をタップする。


メッセージは、静かに送信された。


その頃――。


自室のベッドの上で、何度目かの寝返りを打っていた俺のスマホが、小さく震えた。


静かな部屋に、通知音が響く。


「……ん?」


面倒そうにスマホを手に取る。


そして、送り主の名前を見た瞬間、思わずため息が漏れた。


『八神舞夜』


「……またかよ」


そう呟きながら、メッセージを開く。


『起きていますか?』


たった一言。


いつもの俺なら、「こんな時間に何なんだ」と文句の一つでも言っていただろう。


けれど――。


その夜、俺は苛立たなかった。


むしろ、どこか安心している自分がいた。


「……最悪だ」


小さく呟き、天井を見上げる。


いつからだろう。


俺は、八神舞夜からのメッセージを待つようになっていた。


そして――。


それこそが、今の俺にとって、一番認めたくない事実だった。

眠れない夜を過ごした大樹。


そして、誰にも見せない孤独を抱え続けてきた舞夜。


初めて描かれた八神家の姿は、誰もが想像するような幸せな家庭とは少し違うものでした。


父・久那の優しさ。


母・千代子との距離。


そして、舞夜が「慣れてしまった」痛み。


少しずつ、舞夜が抱える秘密の輪郭が見え始めています。


一方で、大樹の心にも、確かな変化が生まれていました。


鬱陶しいと思っていたはずのメッセージを、いつの間にか待つようになっていたのです。


それが友情なのか。


それとも、別の感情なのか。


今の大樹には、まだ分かりません。


二人の物語は、静かな夜の中で、少しずつ前へ進み始めています。


それでは、また第十七話でお会いしましょう。

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