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慣れてしまった痛み

「話を聞いてくれて、ありがとうございました」


授業の終わり際に舞夜が残したその言葉は、放課後になっても、ずっと俺の頭の中に残っていた。


正直、かなり面倒だった。


普段の俺なら、こんなことでいつまでも悩んだりしない。


少なくとも、少し前まではそうだった。


けれど、八神舞夜が俺の日常に現れてから、いろいろなことがおかしくなっていた。


放課後になっても、気づけばあいつのことを考えている。


意味の分からない言動。


時々見せる寂しそうな表情。


そして、今日、ほんの少しだけ知ることができた過去。


「……はぁ」


小さくため息をついた、その時だった。


放課後を告げるチャイムが校内に響き渡る。


教室のあちこちから、椅子を引く音や笑い声が聞こえてきた。


いつもの光景。


いつもの放課後。


「さて、と」


松は鞄に教科書を押し込みながら、ニヤニヤとこちらを見てきた。


「今日はデートか?」


「違う」


「本当に?」


「本当に」


「八神さんと?」


「だから違うって言ってるだろ」


「へえ」


どう見ても信じていない顔だった。


「絶対、この後現れるぞ」


「現れない」


「現れる」


「現れない」


「現れる」


「……」


少し考えて、俺は肩を落とした。


「……たぶん現れる」


「ほら、やっぱり」


「うるさい」


松は満足そうに笑った。


「大樹、もう完全に慣れてるよな」


「慣れてない」


「いや、慣れてる」


「慣れてない」


「慣れてる」


「……もういい」


適当に会話を切り上げ、鞄を肩にかける。


そして、そのまま教室を出た。


いつものように。


そう、いつものように――。


「……あれ?」


思わず立ち止まった。


誰もいない。


廊下にも。


階段にも。


昇降口にも。


どこにも、舞夜の姿が見当たらなかった。


「珍しいな……」


最近は、放課後になるたびに当たり前のように現れていた。


だからこそ、その姿が見えないことに違和感を覚えた。


別に、一緒に帰る約束なんてしていない。


探す理由だってない。


それなのに――。


なぜか、落ち着かなかった。


「……何やってるんだ、俺」


そう呟きながら、もう一度だけ廊下を見渡した。


もちろん、返事はなかった。

帰ろう。


そう思った。


本当にそう思った。


八神舞夜がどこにいようと、俺には関係ない。


放課後に誰と会っていようが、何をしていようが、気にする必要なんてない。


そもそも、俺たちはただのクラスメイトだ。


約束をしているわけでもない。


毎日一緒に帰る仲でもない。


それなのに――。


なぜか、足が止まっていた。


「……いや、違う」


首を横に振る。


考えすぎだ。


ただ、今日はいつもと違うから気になっているだけ。


それだけだ。


そう自分に言い聞かせながら、昇降口へ向かって歩き始める。


けれど、歩きながらも、視線は無意識に校舎のあちこちを探していた。


中庭。


グラウンド。


校門。


どこにもいない。


「本当に何やってるんだ、俺……」


小さくため息をつく。


別に、探しているわけじゃない。


ただ、たまたま目に入っているだけだ。


……そういうことにしておきたかった。


校舎の外へ出て、階段を下りる。


夕日が校庭をオレンジ色に染めていた。


部活動の掛け声が遠くから聞こえてくる。


いつもと変わらない放課後の景色。


なのに、なぜか落ち着かなかった。


「関係ないだろ」


思わず、そう呟く。


舞夜がどこにいようと、俺には関係ない。


心配する理由なんて、一つもない。


それなのに――。


どうして、まだ探しているんだろう。


「……面倒くさいな」


自分自身に向かってそう言った、その時だった。


校舎の反対側、駐車場の近くに、見覚えのある姿が見えた。


黒く長い髪。


見慣れた制服。


八神舞夜。


「……いたのか」


思わず立ち止まる。


けれど、次の瞬間、俺は違和感に気づいた。


舞夜は、一人じゃなかった。

駐車場の近くには、一台の黒い車が停まっていた。


そして、その前に立っていたのは、舞夜だけではなかった。


隣には、一人の女性がいた。


長い黒髪。


隙のないスーツ姿。


どこか冷たい雰囲気をまとった、整った顔立ち。


見覚えがあった。


八神千代子。


舞夜の母親だ。


学校の保護者会や式典で、何度か見かけたことがある。


いつも完璧だった。


服装も、立ち振る舞いも、表情も。


まるで、誰にも弱さを見せない人間みたいだった。


そして、その印象は、どこか舞夜と似ていた。


学校でみんなが思い描く「八神舞夜」の姿を、そのまま大人にしたような女性。


けれど――。


今日は、何かが違った。


「……」


舞夜が、まったく動いていなかった。


二人は何かを話している。


けれど、ここからでは声までは聞こえない。


見えるのは表情だけだった。


千代子が何かを話している。


舞夜は黙って聞いている。


それだけだった。


笑顔もない。


相づちもない。


反論する様子もない。


ただ静かに、母親の言葉を受け止めていた。


その姿は、親子が会話をしているようには見えなかった。


むしろ――。


教師に叱られている生徒のようだった。


「……何だ、あれ」


思わず、そんな言葉が漏れる。


もちろん、聞こえるはずもない。


けれど、胸の奥に、妙な違和感だけが残った。


そして、不意に、舞夜の言葉が頭をよぎる。


『私には、選択肢がないからです』


『止まることはできません』


『何か悪いことが起こります』


今まで、どこか現実味のない言葉だと思っていた。


意味の分からない、舞夜だけの理屈だと思っていた。


でも――。


目の前の光景を見ていると、その言葉が急に重く感じられた。


もしかしたら、舞夜は本当に何かを背負っているのかもしれない。


もしかしたら、俺の知らない場所で、ずっと何かと戦っているのかもしれない。


そんな考えが、初めて頭の中に浮かんだ。


そして、それは今までのどんな疑問よりも、ずっと現実的で、ずっと苦しいものだった。

その場を離れようと思った。


これ以上見ているのは、さすがに失礼だ。


親子の会話を盗み見る趣味なんて、俺にはない。


そう思って、静かに踵を返した――その時だった。


「南くん」


「――っ」


突然、後ろから声をかけられ、思わず足が止まる。


ゆっくり振り返ると、そこには八神千代子が立っていた。


……最悪だ。


できることなら、このまま存在ごと消えたかった。


「こ、こんにちは」


とりあえず頭を下げる。


すると、千代子は静かに俺を見つめた。


その視線は鋭く、それでいて感情が読めない。


まるで、何かを確かめるような目だった。


「あなたが南大樹くんなのね」


「……はい」


なぜか、妙に緊張した。


たった一言なのに、面接でも受けているような気分になる。


「そう」


短い返事。


けれど、その沈黙が余計に居心地を悪くした。


何を言えばいいのか分からない。


いや、そもそも、何を考えているのかすら分からない。


すると、その時だった。


「お母さん」


舞夜の声が響く。


いつもより、少しだけ強い口調だった。


千代子はゆっくりと舞夜のほうを見る。


「どうしたの?」


「このままだと遅れます」


その言葉に、千代子は一瞬だけ黙り込んだ。


そして、静かに腕時計へ視線を落とす。


「……そうね」


たったそれだけの会話。


なのに、俺は妙な違和感を覚えていた。


舞夜の表情が、明らかに硬かったからだ。


緊張している。


そんな簡単な言葉では片づけられないほど、不自然なほどに。


今まで見たことがないくらい、肩に力が入っている。


まるで、一秒でも早くこの場を終わらせたいと思っているみたいだった。


そんな舞夜の様子を見て、俺は何も言えなくなった。


そして、その空気を変えるように、千代子が再び俺へ視線を向けた。


次の瞬間――。


彼女は、綺麗に微笑んだ。


完璧な笑顔だった。


けれど、不思議と温かさは感じなかった。


「いつも娘がお世話になっています」


「……え?」


予想外の言葉に、間抜けな声が漏れる。


「いや、別に俺は何も――」


「そんなことはないわ」


千代子は穏やかな声で続けた。


「舞夜のことを、気にかけてくれているのでしょう?」


「いや、それは……」


否定しようとして、言葉が止まる。


その瞬間――。


「お母さん」


舞夜が、小さく千代子を呼んだ。


けれど、その声には、はっきりとした焦りが混ざっていた。


「……お願い」


その二文字を聞いた瞬間、千代子は少し驚いたように目を瞬かせた。


そして、数秒の沈黙のあと、小さく息を吐く。


「分かったわ」


それだけ言うと、会話は唐突に終わった。


けれど、俺の胸の中には、説明できない違和感だけが残っていた。

「じゃあ、行きましょうか」


千代子はそう言って、駐車場に停められた車のほうへ歩き始めた。


舞夜は、その場に立ったまま動かなかった。


俯いたまま、じっと地面を見つめている。


そして――。


小さく息を吐いた。


深く、長いため息だった。


まるで、ようやく重たい何かから解放された人みたいに。


「……大丈夫か?」


気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


今日だけで、もう何度目だろう。


自分でも、どうしてこんなことを聞いてしまうのか分からない。


舞夜は驚いたように顔を上げた。


大きな瞳が、まっすぐ俺を見る。


まるで、その質問を予想していなかったみたいだった。


「大丈夫です」


即答だった。


けれど――。


嘘だ。


そんなことは、見れば分かる。


さっきまでの舞夜は、どう見ても普通じゃなかった。


いつもの余裕も、からかうような笑顔もなかった。


ただ、疲れていた。


それだけは、嫌でも伝わってきた。


「……そうは見えないけど」


俺がそう言うと、舞夜は少しだけ目を伏せた。


夕方の風が、静かに彼女の髪を揺らす。


しばらく沈黙が続いた。


答えるべきか、黙っているべきか。


そんなふうに迷っているようにも見えた。


やがて、舞夜はゆっくりと顔を上げる。


そして――。


微笑んだ。


けれど、それはいつもの笑顔ではなかった。


どこか諦めたような、疲れ切った笑顔だった。


「慣れていますから」


「……え?」


思わず聞き返してしまう。


しかし、舞夜はそれ以上何も言わなかった。


ただ静かに、遠くへ視線を向けている。


慣れている。


その言葉が、妙に胸に引っかかった。


つまり、今日の出来事は特別なことじゃない。


今までも、何度も繰り返されてきたということだ。


舞夜にとって、あれは日常なのだ。


そう思った瞬間、胸の奥が重くなった。


俺は、今までずっと舞夜のことを変なやつだと思っていた。


何を考えているのか分からない、面倒な女子だと思っていた。


けれど――。


もしかしたら、俺は何も知らなかったのかもしれない。


舞夜がどんな毎日を過ごし、どんな気持ちを抱えているのか。


俺は、そのほんの一部すら知らない。


そして、その事実が、なぜかひどく苦しかった。

舞夜は、ゆっくりと車のほうへ歩き始めた。


俺も何か言おうとした。


けれど、うまく言葉が出てこない。


大丈夫なのか。


何があったのか。


どうして、そんな顔をしているのか。


聞きたいことはいくらでもあった。


それなのに、結局、何も言えなかった。


すると、車のドアを開こうとした舞夜が、ふいに足を止めた。


そして、こちらを振り返ることなく、小さな声で言った。


「南くん」


「ん?」


数秒の沈黙。


夕方の風だけが、静かに吹き抜けていく。


そして――。


「ありがとうございます」


「……え?」


思わず間の抜けた声が出た。


「何が?」


そう尋ねると、舞夜は少しだけ間を置いた。


「聞いてくれたからです」


「聞いただけだろ」


「それでも、です」


そう言って、舞夜は小さく笑った。


けれど、その笑顔はやっぱりどこか寂しそうだった。


俺は、何も返せなかった。


何かを言わなきゃいけない気がしたのに、適切な言葉が見つからなかった。


やがて、舞夜は静かに車へ乗り込む。


ドアが閉まり、エンジンがかかる。


黒い車はゆっくりと動き出し、そのまま夕暮れの街へ消えていった。


残されたのは、俺一人だけだった。


さっきまで車が停まっていた場所を、ぼんやりと見つめる。


今までの俺は、八神舞夜のことを理解しようとしていた。


あいつの言動の意味を。


あいつが抱えている秘密を。


どうして、そこまで必死なのかを。


でも――。


今、俺が知りたいのは、そんなことじゃなかった。


俺は、八神舞夜という人間を知りたいと思い始めていた。


あいつが何を考え、何を感じて、どんな毎日を生きているのか。


それを知りたいと思ってしまっていた。


そして――。


それこそが、今の俺にとって、一番危険なことだった。

大樹は初めて、舞夜の「秘密」ではなく、彼女自身を理解したいと思い始めました。


いつも余裕そうに見える舞夜ですが、その笑顔の裏には、誰にも見せていない苦しみが隠されています。


母との関係。


「慣れている」という言葉の意味。


そして、舞夜が背負っているものとは何なのか。


まだ多くの謎は残されたままです。


しかし、大樹の気持ちは、少しずつ確実に変わり始めています。


二人の距離は、これからさらに大きく動いていくことでしょう。


それでは、また第十六話でお会いしましょう。

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