少しだけ知った君
「お前、もう八神さんのことを、自分で思ってる以上に気にしてるよね」
結衣の言葉が、昼休みの空気の中に残っていた。
まるで爆弾みたいだった。
しかも、最悪なことに、その爆弾は俺の目の前で盛大に爆発した。
「……撤回しろ」
「嫌です」
「撤回しろ」
「嫌です」
「撤回しろ」
「絶対に嫌です」
「……お前のこと嫌いだ」
「ありがとう」
「褒めてない」
「でも受け取ります」
「勝手にしろ」
結衣は満足そうに笑っていた。
まるで大きな戦いに勝った英雄みたいな顔をしている。
本当に腹が立つ。
いや、それ以上に腹が立つことがあった。
俺が、すぐに言い返せなかったことだ。
いつもなら、即座に否定して終わっていたはずだった。
なのに、今回は違った。
ほんの一瞬だけ、言葉が出なかった。
そして、その一瞬を結衣は見逃さなかった。
たぶん、水子も。
麻美も。
全員、気づいていた。
「……」
ふと、舞夜のほうを見る。
けれど、舞夜は何も言わなかった。
それが妙だった。
普段なら、何かしら口を挟んでくるはずなのに。
意味の分からないことを言ったり、いつもの調子で俺を困らせたり。
なのに、今日は違った。
舞夜は静かなまま、ただ弁当を見つめていた。
まるで、何かを考えているみたいに。
「どうしたんだ?」
そう聞きそうになって、やめた。
今の俺には、その理由が分からなかったからだ。
そして、分からないことが、また一つ増えた。
八神舞夜は、どうして黙っているんだろう。
昼休みの騒がしさの中、俺の頭の中には、まだ結衣の言葉が残り続けていた。
――お前、もう八神さんのことを、自分で思ってる以上に気にしてるよね。
「……あり得ない」
誰にも聞こえないくらい小さな声で、そう呟いた。
けれど、その言葉は、自分自身を納得させるにはあまりにも弱かった。
授業に戻るため、全員がゆっくりと立ち上がった。
「いやー、今日の昼休みも面白かったね」
「お前だけだろ」
「そんなことないよ。みんな楽しんでたよね?」
「少なくとも俺は楽しくなかった」
「またまた」
結衣は楽しそうに笑いながら、先に校舎へ向かって歩き出した。
その後ろを、水子と麻美が追いかける。
「結衣、いい加減にしなさいよ」
「えー、まだ何もしてないのに」
「十分してる」
「ひどい!」
いつもの騒がしい会話が、少しずつ遠ざかっていく。
俺も立ち上がり、教室へ向かって歩き始めた。
……いや、正確には、歩こうとした。
けれど、頭の中はまだ、さっきの言葉に支配されていた。
――お前、もう八神さんのことを、自分で思ってる以上に気にしてるよね。
「……あり得ないだろ」
思わず、小さく呟く。
そんなはずがない。
八神舞夜は面倒な奴だ。
いつも突然現れて、勝手なことを言って、俺の日常をかき乱してくる。
意味の分からないことばかりする変な奴。
それだけだ。
……それだけのはずだ。
「南」
隣から静かな声が聞こえた。
振り向くと、舞夜が俺の隣を歩いていた。
「何だよ」
「まだ考えているんですか?」
「何を」
「さっきのことです」
「別に考えてない」
「そうですか」
「そうだよ」
舞夜はそれ以上何も言わなかった。
ただ、静かに前を向いたまま歩き続ける。
その横顔を見て、俺は慌てて視線を逸らした。
……落ち着け。
変なことを考えるな。
結衣の言葉なんて、ただの冗談だ。
気にする必要なんてない。
俺が舞夜を気にしているわけじゃない。
ただ、少し変わった奴だから気になるだけだ。
そう。
それだけだ。
「……本当に?」
誰に聞くわけでもなく、心の中でそう呟いた。
もちろん、答えなんて返ってこなかった。
国語の授業
次の授業は国語だった。
普段なら、比較的静かな時間だ。
少なくとも、俺はそう思っていた。
「それじゃあ今日は、二人一組で課題をやってもらいます」
……嫌な予感がした。
先生が出席簿を開く。
その瞬間、なぜか背中に冷たいものが走った。
「まずは――南大樹」
終わった。
嫌な予感というのは、どうしてこうも当たるんだろう。
「そして、八神舞夜」
「嫌だ!」
気づいた時には、そう叫んでいた。
教室中の視線が一斉に俺へ向く。
しまった。
「どうした、南?」
先生が不思議そうに眉をひそめる。
「……いえ、何でもありません」
「そうか。じゃあ席を移動して始めてくれ」
「はい……」
後ろの席から、必死に笑いをこらえる音が聞こえた。
振り返ると、松が肩を震わせている。
「お前、絶対楽しんでるだろ」
「いや、運命って怖いなって思って」
「これは運命じゃない。呪いだ」
「似たようなものだろ」
「全然違う」
「いや、結構同じだよ」
「黙れ」
「無理」
本当に腹が立つ。
ため息をつきながら席を移動すると、向かいにはいつものように舞夜が座っていた。
「よろしくお願いします」
「……よろしく」
「嫌そうですね」
「実際、少し嫌だ」
「傷つきました」
「絶対嘘だろ」
「少しだけです」
「結局嘘じゃないか」
舞夜は小さく笑った。
そして、机の上にプリントを広げる。
「始めましょうか」
「ああ」
課題は、短い文章を読んで質問に答えるだけの簡単なものだった。
正直、一人でも十分にできる内容だ。
なのに――。
不思議なことに、舞夜と一緒にやるのは意外とやりやすかった。
無駄話をするわけでもない。
集中を邪魔されるわけでもない。
ただ、淡々と問題を解いていく。
「……早いな」
気づけば、舞夜はもう半分以上終わらせていた。
「そうですか?」
「そうですか、じゃないだろ。絶対早い」
「慣れているので」
「何かちょっと自慢っぽく聞こえる」
「そんなつもりはありません」
「少しはあるだろ」
「……少しだけです」
「やっぱりな」
そう言うと、舞夜は小さく笑った。
いつもの余裕そうな笑顔とは違う。
どこか年相応の、普通の女の子みたいな笑顔だった。
その笑顔を見て、俺は一瞬だけ言葉を失った。
……いや、何を考えてるんだ、俺は。
慌てて視線をプリントへ落とした。
「南は、本を読むのが好きなんですね」
突然の言葉に、思わず顔を上げた。
「……は?」
舞夜は俺の机の上を指差している。
視線を追うと、ノートの下から小説の表紙が少しだけ見えていた。
「あ」
しまった。
完全に隠したつもりだった。
「いつも持ち歩いていますよね」
「……そんなに見てるのか?」
「はい」
「普通に怖いんだけど」
「自覚はあります」
「あるのかよ」
思わずため息をつく。
すると、舞夜は小さく首を傾げた。
「どんな本を読むんですか?」
「普通の小説だよ」
「恋愛小説ですか?」
「違う」
「嘘ですね」
「何でだよ」
舞夜は、ノートの下から見えている表紙を指差した。
「その本、恋愛小説ですよね?」
「……」
言い返せなかった。
悔しいことに、その通りだったからだ。
「これは例外だ」
「言い訳ですね」
「違う」
「違いません」
「違う」
「違いません」
「……」
結局、最後に折れたのは俺だった。
「……少しだけだよ」
「やっぱり」
舞夜は、どこか嬉しそうに笑った。
しばらくして、再び静かな時間が流れる。
紙をめくる音と、シャーペンが走る音だけが教室に響いていた。
そして、不意に舞夜が口を開いた。
「私、小さい頃はよく本を読んでいました」
「……へえ」
意外だった。
いや、考えてみれば意外でもないのかもしれない。
でも、舞夜が自分のことを話し始めるなんて、今までほとんどなかった。
「友達が少なかったので」
その言葉に、俺の手が止まる。
「え?」
舞夜は顔を上げないまま、静かに続けた。
「人と話すのが苦手だったんです」
「……本当に?」
思わず聞き返してしまった。
今の舞夜を見て、そんなことを想像できる人間がどれだけいるだろう。
少なくとも、俺には無理だった。
「ええ、本当です」
舞夜は小さくうなずく。
「今の八神を見てると、全然信じられないんだけど」
「よく言われます」
「だろうな」
「昔の私は、今よりずっと人と話せませんでした」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
まるで、遠い昔を懐かしんでいるみたいに。
「ずっと人気者だったのかと思ってた」
そう言うと、舞夜はゆっくりと首を横に振った。
「そんなことありません」
その答えは、驚くほどあっさりしていた。
そして、ほんの少しだけ、照れているようにも見えた。
そんな表情をするんだな。
気づけば、俺は舞夜の顔をじっと見ていた。
すると、舞夜が顔を上げる。
「……何ですか?」
「いや、別に」
「今、私を見ていましたよね?」
「見てない」
「見ていました」
「見てない」
「見ていました」
「……」
まずい。
完全に気づかれていた。
「……少しだけ」
観念してそう答えると、舞夜は小さく笑った。
「やっぱり」
……本当に、調子が狂う。
今、俺の目の前にいるのは、いつもの八神舞夜じゃない。
ただ、本が好きだった、一人の女の子だった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
教室のあちこちから、椅子を引く音や話し声が聞こえてくる。
ようやく終わった。
そう思いながら、俺は机の上のプリントを片づけ始めた。
すると――。
「南」
静かな声が聞こえた。
顔を上げると、舞夜がこちらを見ていた。
「何だ?」
「……ありがとうございます」
一瞬、意味が分からなかった。
「何が?」
舞夜は少しだけ視線を落とす。
珍しく、すぐには答えなかった。
教室の騒がしさの中、数秒の沈黙が流れる。
そして、舞夜は小さく微笑んだ。
「話を聞いてくれたので」
「……別に、大したことはしてないだろ」
「そんなことありません」
その声は、いつもより少しだけ優しかった。
俺が何か言い返そうとした、その時だった。
「それでは、また後で」
舞夜はそう言うと、席を立った。
「え、おい――」
呼び止める間もなく、彼女は教室を出ていってしまった。
残された俺は、ただ呆然と扉を見つめることしかできなかった。
『友達が少なかったので』
『人と話すのが苦手だったんです』
『ありがとうございます』
頭の中で、さっきの言葉が何度も繰り返される。
今まで知らなかった八神舞夜。
いつも強引で、自信満々で、何を考えているのか分からない女の子。
そう思っていた。
でも、今日見た彼女は違った。
昔は友達が少なくて、人と話すのが苦手だった少女。
少し照れくさそうに、自分の過去を話してくれた一人の女の子。
ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ。
俺は、八神舞夜のことを知れた気がした。
……それは、決して良いことじゃない。
知れば知るほど、距離は近くなる。
距離が近くなればなるほど、無関心ではいられなくなる。
そして――。
八神舞夜のことを知れば知るほど、もうただの厄介事だとは思えなくなっていた。
◇第十四話『少しだけ知った君』・完◇
第十四話『少しだけ知った君』を読んでいただき、ありがとうございました。
少しずつ、舞夜の知らなかった一面が見え始めた大樹。
今まで遠い存在だった彼女は、少しずつ違う姿を見せ始めています。
しかし、舞夜が抱える秘密は、まだ何も明らかになっていません。
二人の距離は、少しずつ変わり続けています。
それでは、また第十五話でお会いしましょう。




