旅の途中で
街を離れてしばらくすると、バスの中の雰囲気はすっかり変わっていた。
あちこちから聞こえる会話に笑い声が混ざり始める。
すでに音楽を聴いている生徒もいれば、座席越しにお菓子を交換している生徒もいた。
どうやら、誰も寝るつもりはないらしい。
「よーし!」
突然、結衣が勢いよく立ち上がった。
「娯楽委員会委員長として――」
「そんな委員会、存在しないからな」
俺はすかさずそう言った。
「――ここに、修学旅行の正式な開幕を宣言します!」
周囲の生徒たちが、面白がって拍手を始めた。
「スピーチ!」
「委員長、スピーチを!」
結衣は大げさに咳払いをした。
「親愛なる乗客の皆さん――」
一瞬、バスの中が静かになる。
「この旅行が、たくさんの冒険と素敵な思い出に満ちたものになることを願います。そして……移動中、誰もあまり大きないびきをかきませんように」
その瞬間、バスの中に大きな笑い声が広がった。
先生の一人まで、小さく笑ってから席に座り直していた。
「ご清聴、ありがとうございました」
結衣は優雅にお辞儀をすると、何事もなかったかのように自分の席へ戻った。
「お前、絶対に人の注目を集めるために生まれてきただろ」
「うん」
結衣は即答した。
「これは生まれ持った才能だから」
俺は呆れたように首を振る。
その隣では、真矢が楽しそうに微笑んでいた。
「結衣が近くにいると、本当に退屈しませんね」
「それは間違いない」
結衣は振り返ることなく、親指を立てた。
窓の外の景色は、少しずつ変わり始めていた。
高い建物は次第に姿を消し、その代わりに広い緑の景色や小さな町並みが広がっていく。
空には雲一つない。
旅行にはこれ以上ないほどの天気だった。
「……きれい」
真矢の声は、ほとんど囁きのようだった。
彼女は窓の外を、興味深そうに見つめている。
「街の外に出るの、久しぶりなのか?」
「はい」
真矢はゆっくりとうなずいた。
「私の家族は、あまり遠くへ旅行に行くことがなかったので」
少しだけ間を置いてから、彼女は続ける。
「だから……こういう景色も、私にとっては新鮮なんです」
俺も彼女の視線の先を追った。
遠くには、少しずつ山々の姿が見え始めていた。
どこか言葉にするのが難しいほど、穏やかな景色だった。
「じゃあ、これから発見することがたくさんありそうだな」
真矢は再び微笑んだ。
「はい」
そして、少し嬉しそうに続ける。
「だから、余計に楽しみです」
それからしばらくの間、俺たちは何も言わずに窓の外を眺めていた。
不思議なことに……
その沈黙は気まずくなかった。
むしろ心地よかった。
言葉を交わさなくても、そばにいるだけで安心できる。
そんな二人だけの静かな時間だった。
すると突然、真矢がバッグを開いた。
「あ……危うく忘れるところでした」
中から取り出したのは、花の模様が描かれた小さな布袋だった。
「昨日、クッキーを作ったんです」
彼女は少しだけ恥ずかしそうに俺を見る。
「よかったら……食べますか?」
俺は驚いて目を瞬いた。
「真矢が作ったのか?」
「はい」
彼女はうなずいた。
「……まあ、少しだけ母に手伝ってもらいましたけど」
「『少しだけ』だって?」
前の席から、結衣が振り返ることなく口を挟んだ。
「真矢、昨日ほとんど一日中キッチンにいたじゃない」
「結衣!」
「何?」
結衣は悪びれる様子もなく答えた。
「本当のことを言っただけだよ」
真矢は少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「……せっかくなら、おいしく作りたかったので」
俺はそっと、一枚のクッキーを手に取った。
小さな星の形をしている。
一口かじる。
柔らかく、バターの優しい風味と、ほんのりとしたバニラの香りが口の中に広がった。
「……すごくおいしい」
真矢の目がぱっと輝いた。
「本当ですか?」
「ああ」
俺は笑った。
「本当においしい」
真矢の表情が、すぐに安心したように和らいだ。
「……よかった」
その様子を見ていると、俺まで嬉しくなってしまう。
ただ褒められただけで、こんなにも幸せそうに笑う。
そんな真矢を見ていると、不思議とクッキーまでさらにおいしく感じられた。
すると、結衣が少しだけ振り返った。
「で、私の分は?」
真矢が小さく笑う。
「もちろんありますよ」
そう言って、結衣にもクッキーを渡した。
結衣はすぐに一口食べる。
そして数秒間、黙り込んだ。
「……」
少しだけ緊張した様子で、真矢が彼女を見る。
次の瞬間。
結衣は親指を立てた。
「公式に合格!」
「そんな審査委員会まであるのか?」
「もちろん」
結衣は得意げに答えた。
「国際お菓子試食委員会」
「お前、一体いくつ委員会を持ってるんだよ」
「必要な数だけ」
その答えに、俺たちは思わず笑ってしまった。
結衣が一つ一つの反応を大げさに見せて。
真矢がそれを見て笑いをこらえきれなくなって。
そんな二人を見ているうちに、俺も自然と笑っていた。
もし、この先の旅がずっとこんな風に続くのなら……
特別な出来事なんて、何も起こらなくてもいい。
こうして同じ時間を過ごして。
一緒に笑って。
何気ない瞬間を共有する。
それだけで、この修学旅行はきっと――
忘れられない思い出になる。
第164話を読んでいただき、ありがとうございます。
旅はまだ始まったばかりですが、みんなはすでに忘れられない小さな思い出を作り始めています。
次の話でまたお会いしましょう!




