三年間、隠され続けた原稿
瑞希の言葉が、空気の中に静かに残った。
誰も何も尋ねなかった。
その沈黙は、どんな答えよりも多くのことを物語っていた。
瑞希はゆっくりと、古びた鉄の扉へ歩いていった。
扉を囲む太い鎖は、長い年月のせいで赤茶色の錆に覆われていた。
しかし――。
そこに取り付けられていた南京錠だけは、明らかに新しかった。
校長がゆっくりと近づく。
「この南京錠は……三年前にはなかった」
瑞希は静かにうなずいた。
「ええ」
「北棟が閉鎖された直後に取り付けられたものです」
少しだけ間を置いてから、彼女は続けた。
「中にあるものを守るためではありません」
「誰かが……中へ入るのを防ぐためです」
坂本先生と校長が視線を交わした。
その表情だけで分かった。
この決定は、二人の知らないところで行われていたのだ。
校長はポケットから小さな鍵を取り出した。
そして、南京錠の鍵穴へゆっくりと差し込む。
しばらく、鍵は動かなかった。
長い間使われていなかったせいなのか。
それとも――。
誰かが、二度と開かないことを願っていたからなのか。
校長が力を込める。
カチッ。
金属音が、静まり返った建物の中に響いた。
その瞬間。
誰もが息を止めた。
南京錠が外れる。
校長は鎖を取り除き、ゆっくりと鉄の扉を押した。
ギィィィ……。
重い音とともに、扉が開いていく。
その隙間から、強い湿気の匂いが流れ出してきた。
私たちは懐中電灯をつけた。
光が暗闇を切り裂く。
そして、その先に現れた光景を見て、私は思わず息をのんだ。
かつての資料保管庫は、想像していたよりもずっと小さかった。
倒れた本棚。
埃に覆われた箱。
長い間、誰にも読まれることのなかった文学雑誌の山。
そして部屋の隅には――。
割れたガラスケースが、静かに置かれていた。
真夜がゆっくりと部屋の中へ足を踏み入れた。
「ここ……」
その声がわずかに震えていた。
「文化祭のとき、原稿を保管していた場所……」
私は彼女の横顔を見た。
一つ一つの言葉に、過去の記憶が重くのしかかっているのが分かった。
瑞希は割れたガラスケースの前まで歩いていった。
そして、その場にしゃがみ込む。
古い箱を、一つずつ慎重にどかしていく。
しばらくすると――。
その下から、一枚の木製の扉が姿を現した。
由衣が大きく目を見開いた。
「えっ!?」
「あれ、ずっとそこにあったの?」
瑞希はうなずいた。
「ええ」
「最初からありました」
由衣が不思議そうに首をかしげる。
「じゃあ、どうして誰も知らなかったの?」
瑞希は木の扉を見つめながら答えた。
「この存在を知っていたのは……」
「葵さん」
「蓮」
「神崎先生」
「そして、私だけです」
校長の表情が変わった。
「……私でさえ、この場所の存在を知らなかった」
瑞希は何も答えなかった。
ただ、ゆっくりと木製の扉を持ち上げる。
中には、小さな空間があった。
そして、その中央に――。
布に包まれた小さな金属製の箱が置かれていた。
瑞希はそれを両手で取り出した。
しばらくの間、その箱を静かに見つめていた。
まるで三年間の時間を、その手の中で感じているかのようだった。
そして――。
瑞希は真夜の前へ歩いていった。
「これは……」
一度、言葉を止める。
「葵さんに頼まれたんです」
「絶対に開けないでほしいって」
真夜の表情が変わった。
瑞希は、静かに続けた。
「正しい時が来るまでは……って」
そう言って、箱を真夜へ差し出した。
「だから……」
「今が、その時だと思います」
真夜はゆっくりと箱を受け取った。
ごくり、と小さく息をのむ。
彼女の手が、わずかに震えていた。
箱の留め具に手をかける。
カチッ。
小さな音とともに、箱が開いた。
中には、何枚もの紙が丁寧に保管されていた。
その瞬間。
部屋の中から、すべての音が消えたような気がした。
私は、一番上に置かれていた原稿へ目を向けた。
そして――。
そこに書かれていた題名を見た瞬間、息をのんだ。
『星が咲く庭』
真夜が、震える息を吐き出した。
「……原稿……」
坂本先生が一歩、前へ出る。
「それじゃあ……」
その声にも、驚きが混じっていた。
「三年前……」
「原稿は、盗まれていなかったの?」
瑞希はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ」
「盗まれたとされた原稿は……コピーです」
誰も動かなかった。
瑞希は続ける。
「本物は……」
「一度も、この保管庫から持ち出されていません」
その言葉が、静かに私たちの胸へ突き刺さった。
「……そんな」
真夜が、かすれた声を漏らす。
三年間。
三年間ずっと。
私たちは、原稿が盗まれたことを前提にして考えていた。
そして、その罪を――。
蓮が背負わされた。
しかし。
本物は、ずっとここにあった。
誰にも見つからない場所で。
誰にも触れられることなく。
ただ、誰かが見つけるその日を待っていた。
私はゆっくりと原稿を見つめた。
そして、理解した。
蓮が原稿を盗んだはずがない。
少なくとも――。
本物を盗むことは不可能だった。
なぜなら。
本物は今も、ここに存在しているからだ。
隠されていた。
三年間。
ずっと。
しかし、そのときだった。
原稿の下に、もう一つ別のものがあることに気づいた。
私は慎重に原稿を持ち上げた。
その下には、一冊の薄いファイルが置かれていた。
表紙には題名がない。
書かれていたのは、たった一つ。
日付だけだった。
三年前。
あの「盗難事件」が起きた、まさにその日。
私はゆっくりとファイルを開いた。
中には、何枚もの手書きの紙が入っていた。
そして。
最初の一文を読んだ瞬間――。
全身に鳥肌が立った。
『もし誰かがこのページを見つけたのなら……』
『それは、私が失敗したということです』
署名はなかった。
しかし。
真夜は一瞬で、その筆跡を見分けた。
「……葵の字……」
彼女の声が震える。
その瞳には、ゆっくりと涙が浮かび始めていた。
これは、ただのメモではない。
ただの日記でもない。
葵が。
すべての悲劇が始まった、その日に書き残した言葉。
あの日、彼女が何を見たのか。
何を知ったのか。
そして――。
なぜ、誰にも話せなかったのか。
そのすべてが、この紙の中に残されているのかもしれない。
私は、手にしたページを見つめた。
三年間。
私たちが探し続けてきた答えは。
ずっと、ここにあったのだ。
そして、もしかすると――。
これこそが。
私たちに、あの日の真実をすべて教えてくれる。
最後の証言になるのかもしれなかった。
第百四十七話を読んでいただき、ありがとうございました。
三年間、誰にも見つかることなく隠されていた本物の原稿。
そして、葵があの日に残した最後の記録。
そこには、一体どんな真実が書かれているのでしょうか。
次回も、ぜひ読んでください。




