北棟の待ち人
時計は午後六時半を指していた。
青龍学園の校舎の向こうへ、太陽がゆっくりと沈み始めている。
空は淡い橙色に染まり。
校内の小道には、長い影が伸びていた。
昼間は多くの生徒で賑わっていた学園も。
少しずつ、静けさに包まれ始めていた。
俺たちは、本館の前に集まっていた。
校長先生は大きな懐中電灯を持っている。
坂本先生の手には、古い鍵が束になっていた。
舞夜は、遠くに建つ一つの建物をじっと見つめていた。
三階建ての古い校舎。
建物の一部は、長い年月の間に伸びた蔦に覆われている。
いくつかの窓は割れていた。
別の窓には、木の板が打ち付けられていた。
「……あれが、北棟」
舞夜が小さく呟いた。
俺も、その視線の先を追う。
一見すれば、ただの廃墟のような建物だった。
しかし――。
なぜか、完全に誰もいない場所には見えなかった。
まるで。
そこに残された記憶だけが、去ることを拒んでいるようだった。
校長先生が、一歩前へ出る。
「事件が起きて以来、この場所は誰も使用していない」
「部活動はすべて新しい校舎へ移され、この北棟は閉鎖されたままだ」
結衣は、入口を塞いでいる黄色い立入禁止テープを眺めた。
「……でも、あまりみんながその禁止を守ってるようには見えませんね」
校長先生が、不思議そうに結衣を見る。
結衣は、地面を指差した。
入口の前には。
長い間積もった埃の上に、いくつかの足跡が残っていた。
数は多くない。
しかし――。
少なくとも、最近誰かがここを訪れたことを証明するには十分だった。
坂本先生が眉をひそめる。
「……こんな足跡があるはずないのに」
坂本先生は、古びた鍵を取り出した。
錆びついた鍵を、ゆっくりと鍵穴へ差し込む。
しかし、内部の仕組みは簡単には動かなかった。
何度か力を加える。
そして――。
カチャッ。
ようやく鍵が回った。
扉が、ゆっくりと開いていく。
その瞬間。
建物の奥から、冷たい空気が流れ出した。
古い木材と湿気の匂いが、周囲を満たす。
俺たちは、それぞれ懐中電灯をつけた。
光の筋が、埃に覆われた長い廊下を照らす。
古い床板は。
俺たちが歩くたびに、ぎしぎしと音を立てた。
廊下の両側には、昔の部室の札がまだ残っていた。
天文部。
写真部。
伝統音楽部。
すべての扉は閉ざされている。
そして――。
どの部屋も、まるで時間だけが止まってしまったようだった。
舞夜は、ゆっくりと歩いていた。
時々。
壁に触れたり。
錆びついた部室の札を、指先でそっとなぞったりしていた。
「……もう一度、ここへ戻ってくるなんて思わなかった」
その声は、ほとんど囁きだった。
坂本先生が、寂しそうに微笑む。
「みんな、ここで午後のほとんどを過ごしていたものね」
「蓮は、いつも最後まで残っていたわ」
舞夜は、少しだけ俯いた。
「……帰る前に、全部片付けないと気が済まないって言ってたから」
しばらく。
誰も言葉を口にしなかった。
廊下に響く足音だけが。
静寂を壊していた。
その時だった。
タッ。
全員が、その場で足を止める。
今の音は。
明らかに俺たちのものではなかった。
上の階から聞こえてきた。
結衣が息を飲む。
「……お願いだから、今の音を出した人がいるって言って」
俺は、ゆっくりと首を横に振った。
校長先生が、懐中電灯を階段へ向ける。
そこには――。
誰もいなかった。
ただ。
暗闇だけが続いていた。
そして。
再び。
タッ……タッ……。
今度は、二つの足音。
ゆっくりと。
まるで――。
自分がそこにいることを、俺たちにわざと知らせるように。
舞夜が、俺の腕を強く掴んだ。
その手が震えているのを感じた。
校長先生は、階段から視線を外さないまま口を開く。
「誰であろうと……」
「もう、そこにいることは分かっている」
数秒間。
再び、静寂が訪れた。
そして――。
二階から、一つの声が聞こえてきた。
驚くほど落ち着いた声だった。
「……来てくれて、よかった」
その声には。
脅しもなかった。
怒りもなかった。
ただ――。
安堵しているように聞こえた。
まるで。
長い間、この瞬間を待ち続けていたかのように。
俺たちは、互いの顔を見合わせた。
誰も、何も言わなかった。
それでも。
全員が同じことを理解していた。
ついに――。
俺たちは。
これまでずっと影から手がかりを残し。
俺たちの調査を導いてきた人物と。
直接、向き合うことになる。
第百四十五話を読んでくださって、ありがとうございました。
ついに、北棟で待っていた人物が姿を現そうとしています。
三年間、影から真実を見つめ続けていたのは誰なのか。
次回、その答えが少しずつ明らかになります。
ぜひ、続きをお楽しみください。




