失われたページ
誰も、そのノートに手を伸ばそうとはしなかった。
三年という時間が過ぎたにもかかわらず――。
それは、まるで今もなお、あの頃の重さを抱え続けているように机の上に置かれていた。
最初に沈黙を破ったのは、坂本先生だった。
「……全部は読んでいないの」
結衣が驚いたように先生を見る。
「読まなかったんですか?」
「気にならなかったんですか?」
坂本先生は静かに首を横に振った。
「もちろん、気にはなったわ」
「でも……私には読む権利がないように感じたの」
「葵は、これを預かってほしいと言っただけ」
「読むために渡したわけじゃなかったから」
先生は、ゆっくりと黒いノートを舞夜の前へ滑らせた。
「今は……」
「この物語を実際に生きた人たちの手に戻すべきだと思っているわ」
舞夜は唾を飲み込んだ。
そして――。
とても慎重に、ノートの表紙を開いた。
紙は三年という時間を重ね、すっかり黄色くなっていた。
最初のページには、丁寧な文字が並んでいる。
『水島葵の日記』
その下には、青いインクで一つの文章が書かれていた。
『いつか誰かがこの日記を読む時、文学部のみんなの笑顔が、もう一度戻っていますように。』
舞夜は目を閉じた。
「……葵」
その声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
坂本先生は静かにうなずいた。
「最初のページを読んでみて」
舞夜はゆっくりとページをめくった。
そして――。
最初の記録を見つける。
一度、深く息を吸ってから、声に出して読み始めた。
「『今日は、とても変な二人と出会った』」
結衣が小さく笑った。
「最初から面白そうじゃん」
舞夜は続ける。
「『蓮は真面目そうな人だけど、小説の話になると夢中になりすぎて、周りで何が起きているのか全部忘れてしまう』」
坂本先生の口元に、小さな笑みが浮かんだ。
「……いかにも蓮らしいわね」
舞夜はさらに読み進める。
「『それから匠は……いつか自分が日本で一番有名な小説を書くって、ずっと自慢している』」
結衣が思わず笑った。
「すごく自信満々だね」
「そういう子だったわ」
坂本先生も、どこか懐かしそうに答えた。
その後のページには、何気ない日々が綴られていた。
放課後の部活動。
本を薦め合うための小さな勝負。
どの小説の結末が一番優れているのかという、くだらない議論。
そして――。
葵が描いた小さな絵まで残されていた。
真剣な表情で本を読む蓮。
机に突っ伏して眠っている匠。
二人を叱りながら、部室を整理しようとしている舞夜。
どれも、とても楽しそうだった。
ほんの数年前まで――。
この四人が、あんな悲劇によって引き裂かれることになるなんて。
そんな未来など、誰も想像していなかった。
舞夜は、その中の一枚の絵を指先でそっと撫でた。
「……忘れてた」
その笑顔は、とても小さく。
そして――。
壊れそうなほど儚かった。
俺は黙ってページを見つめていた。
手がかりを探しているわけじゃない。
ただ――。
あの四人が、どんな人たちだったのかを知ろうとしていた。
事件を解決するということは、犯人を見つけることだけじゃない。
その事件によって傷ついた人たちが、どんな日々を生きていたのか。
それを理解することも、真実に近づくためには必要なのだと思った。
その時――。
俺は、あることに気づいた。
ページが何枚か抜けている。
一枚や二枚ではない。
何枚も。
「……先生」
坂本先生が顔を上げる。
「どうしたの?」
俺は黒いノートを指差した。
「ページが……ありません」
舞夜も、すぐに視線を落とした。
確かに。
いくつかの記録の間に、不自然な空白ができている。
紙そのものが途中からなくなっていた。
坂本先生は眉をひそめた。
「葵からこのノートを預かった時には……」
「すでにこうなっていたわ」
部屋の空気が、一瞬で変わった。
結衣から笑顔が消える。
「じゃあ……」
「誰かが、先にこの日記を読んだってことですか?」
坂本先生は、ゆっくりと首を横に振った。
「……分からないわ」
舞夜は、抜け落ちたページの端へ指を触れた。
そして――。
静かに呟く。
「違う……」
「このページ……自然に抜けたんじゃない」
指先で紙の端を確認する。
切れた跡。
そして、不自然に残った小さな繊維。
「誰かが……」
「わざと破り取ったんだわ」
誰も、言葉を返せなかった。
部屋に、重い沈黙が広がっていく。
三年間、誰にも触れられずに残されていたはずの日記。
それなのに――。
その中から、誰かが意図的にページを消している。
もし、失われたページに何かが書かれていたのなら。
それを消した人物は――。
誰かに、その真実を知られたくなかったということになる。
そして――。
俺たちが探している事件の真相は。
もしかすると、その失われたページの中に隠されているのかもしれなかった。
第百三十一話を読んでくださって、ありがとうございました。
三年前の日々を残した、葵の黒いノート。
そこには、まだ誰にも語られていない記録が残されていました。
そして――。
失われたページの存在が、新たな疑問を残します。
次回もぜひお楽しみください。




