葵の残した記録
青龍学園の正面玄関には、さまざまな話し声が響いていた。
いくつもの学校から集まった生徒たちが、本を抱えたり、資料を持ったり、それぞれの文学部の名前が書かれた看板を持ったりしながら、廊下を行き交っている。
小説のおすすめを交換している生徒もいれば、有名な作家について熱心に語り合っている生徒もいた。
読書を大切にする場所だからこそ見られる、そんな光景だった。
遠くから俺たちを見れば、ただの参加者の一組にしか見えないだろう。
そして――。
それこそが、俺たちにとって都合がよかった。
「大樹、さっきからキョロキョロしすぎ」
結衣が小声で言いながら、俺の腕を軽く肘で突いた。
「怪しい人に見えるよ」
「仕方ないだろ」
「そう?」
結衣は少し考えるように首を傾げた。
「なんだか、本当の犯人より大樹のほうが怪しく見えてきた」
「……応援してくれてありがとう」
「どういたしまして」
結衣は満足そうに笑った。
その少し前を歩いていた舞夜が、その会話を聞いて小さく笑った。
俺が青龍学園へ来てから初めて見る笑顔だった。
それだけで、少しだけ安心した。
坂本先生は俺たちを体育館の裏手にある古い建物へ案内した。
現代的な校舎とは違い、その建物にはどこか昔ながらの雰囲気が残っていた。
木製の廊下は、俺たちが歩くたびに小さく軋む。
窓から差し込む夏の光が、廊下を暖かく照らしていた。
壁には、歴代の文学部員たちの写真が飾られている。
舞夜は、その一枚一枚を眺めながら歩いていた。
そして――。
突然、足を止めた。
そこにあったのは、三年前に撮られた一枚の写真だった。
写っているのは――。
水島葵。
黒沢蓮。
進藤匠。
そして、舞夜自身。
四人は文学部の前に並び、それぞれ本を手にしながら笑っていた。
その笑顔は、家族写真の中で見たものとはまったく違っていた。
何の心配もなく。
何も知らず。
ただ、未来を楽しみにしているような笑顔だった。
けれど――。
その笑顔は、あの事件の後に消えてしまった。
「……まだ残ってたんだ」
舞夜が小さく呟く。
坂本先生も写真を見つめていた。
「私が、外させなかったの」
舞夜がゆっくりと先生を見る。
「どうして?」
坂本先生は、しばらく写真を見つめていた。
そして、静かに答える。
「私にとって、あの日が最後だったから」
「この部が、本当の意味で一つだった最後の日がね」
誰も何も言わなかった。
結衣でさえ、口を閉じていた。
今ここで何かを言えば――。
この静かな時間そのものを壊してしまいそうだった。
やがて、俺たちは再び歩き始めた。
しばらくして、一枚の木製の扉の前に到着する。
扉の上に取り付けられた金色のプレートには、こう書かれていた。
『文学部』
坂本先生が鍵を取り出す。
鍵が錠に入る。
カチッ。
小さな金属音が、静かな廊下に響いた。
ゆっくりと扉が開く。
その瞬間――。
古い紙の匂いが、部屋の中から流れてきた。
舞夜は息をのんだ。
そこは、彼女が覚えていたままだった。
同じ本棚。
同じ机。
同じ白いカーテン。
そして――。
壁に掛けられた時計まで、数分遅れたままだった。
「……嘘」
舞夜は部屋の中を見渡した。
まるで、時間だけがこの場所を置き去りにしていったようだった。
坂本先生は、どこか寂しそうに笑った。
「事件の後……」
「誰も、この部屋を変えようとはしなかったの」
舞夜はゆっくりと一脚の椅子へ近づいた。
その背もたれに、そっと手を触れる。
「ここは……蓮先輩の席」
次の椅子を指差す。
「ここが葵」
そして、その隣。
「匠は、いつも本を散らかしたままにしてた」
最後に――。
舞夜は一番端の椅子へ手を置いた。
「……ここが、私の席」
その声が、ほんの少しだけ震えた。
俺は数歩後ろに立ったまま、その姿を見つめていた。
その時、初めて感じた。
ここは、ただの部屋じゃない。
誰かの過去そのものなのだ。
幸せだった時間が残っている。
笑い声も。
思い出も。
そして――。
そのすべてが、いつしか傷へと変わってしまった。
坂本先生は、古びたファイルケースを机の上へ置いた。
ドン。
その音が、静かな部屋の中に響いた。
俺たちは一斉に先生を見る。
「調査を始める前に……」
坂本先生は、ゆっくりと口を開いた。
「あなたたちに見せておきたいものがあるの」
全員が息をのんだ。
「手紙には、書かれていなかったことよ」
舞夜の目が大きく開く。
「……何ですか?」
坂本先生は数秒間、黙っていた。
そして――。
ゆっくりとファイルケースを開いた。
中には、何冊もの古びたファイルが並んでいた。
写真。
報告書。
学園新聞の切り抜き。
三年前の事件に関する資料が、丁寧に保存されている。
そして――。
その一番下。
そこに、一冊の小さな黒いノートが置かれていた。
坂本先生が、それを取り出す。
「これは……」
舞夜が息をのむ。
「葵の……日記?」
先生は静かにうなずいた。
「水島葵が残したものよ」
「文学部が活動停止になった、その日に……」
「葵本人から私に預けられたの」
部室が、完全な静寂に包まれた。
俺は黒いノートを見つめた。
三年間。
誰にも知られず、この部屋の中に残されていた記録。
そして――。
今、俺たちの前に姿を現した。
舞夜は、震える指先を伸ばした。
その目には、驚きと不安が入り混じっていた。
「……この中に」
「何が書かれているんですか?」
坂本先生は答えなかった。
ただ、静かにノートを舞夜へ差し出す。
その瞬間――。
俺は、強い予感を覚えた。
このページを開いたら――。
俺たちが知っている三年前の事件は、もう一度、まったく違う形で姿を現す。
そして、その記録は――。
俺たちがこれまで信じていた物語そのものを、根本から変えてしまうかもしれない。
第百三十話を読んでくださって、ありがとうございました。
三年ぶりに戻ってきた文学部。
そこには、まだ誰にも語られていない記録が残されていました。
葵が残した一冊の黒いノート。
そのページには、何が書かれているのでしょうか。
次回もぜひお楽しみください。




