広がる疑惑
時計の針は、午後五時半を指していた。
文学部の部室では、重苦しい沈黙がますます耐え難いものになっていた。
葵は何度も扉を見つめている。
舞夜は緊張した様子で、手にした鉛筆を弄んでいた。
そして、匠でさえも、もう筆を動かしていなかった。
誰も、何が起きているのか分からなかった。
それから、さらに十分が過ぎた。
その時――。
部室の扉が開いた。
坂本先生が戻ってきた。
しかし、彼女は一人ではなかった。
その後ろには、蓮が歩いていた。
俯いたまま。
そして、そこにいる誰も見たことがないような表情を浮かべていた。
まるで、一時間にも満たない間に、何年もの歳月を重ねてしまったかのようだった。
「蓮先輩……」
最初に立ち上がったのは葵だった。
蓮はわずかに顔を上げた。
笑おうとした。
しかし――。
うまく笑うことができなかった。
坂本先生は一度深く息を吸ってから、口を開いた。
「今日の活動は、ここまでにしましょう」
四人は困惑したように顔を見合わせた。
「何かあったんですか?」
舞夜が尋ねる。
坂本先生は数秒間、言葉を選ぶように黙っていた。
そして、静かに答えた。
「学園側は、事件の調査が続いている間、文学部の活動を一時的に停止することを決めました」
その言葉は、部室の中に冷たい水を浴びせるように響いた。
「文学部を……休止するんですか?」
葵が小さく呟く。
「ええ」
「新しい指示があるまで、活動は禁止されます」
蓮は一歩前へ出た。
その声は穏やかだった。
しかし、疲れ切っていることがはっきりと分かった。
「それから……」
一度、言葉を止める。
「学園側から、戸棚の鍵を提出するように言われました」
部室の空気が完全に止まった。
蓮は制服のポケットから、小さな銀色の鍵を取り出した。
しばらくの間、それを見つめる。
文学部の部長になってから、ずっと大切に保管してきた鍵だった。
そして――。
静かにテーブルの上へ置いた。
カチッ。
金属が木の表面に触れる小さな音が、部室全体に響いた。
誰も、何も言わなかった。
その鍵が置かれた瞬間。
蓮が背負っていたものが、以前とは違う形になったように感じられた。
匠が沈黙を破った。
「それって……つまり、蓮を疑っているってことですか?」
その問いが、重く部室に落ちた。
蓮はすぐには答えなかった。
数秒後、静かにうなずく。
「……そうみたいだ」
舞夜は信じられないという表情で蓮を見つめた。
「でも、そんなのおかしいわ!」
葵も一歩前へ出る。
「蓮先輩がそんなことするはずない!」
坂本先生は目を閉じ、苦しそうに答えた。
「私も、そう思っているわ」
「でも、今の学園側にとっては、証拠がない以上……念のための措置を取るしかないのよ」
蓮は静かに三人を見つめた。
「俺のせいで、先生やみんなまで疑われる必要はない」
そして、ほんの少しだけ笑った。
「だから、もうこのことについては話さなくていい」
しかし、その笑顔の奥には――。
隠しきれない苦しさが滲んでいた。
蓮は自分の鞄を手に取った。
そして、部室にいる三人を一人ずつ見つめる。
「一つだけ、お願いがある」
その声は静かだった。
けれど、いつもの蓮とは少し違っていた。
「俺を信じてほしい」
たった四つの言葉だった。
しかし――。
その言葉は、舞夜の胸に強く響いた。
蓮が、こんなふうに誰かに何かを求める姿を見たことがなかった。
自分を弁護するためでもない。
学園側を責めるためでもない。
ただ、自分が大切にしている仲間たちに――。
信じ続けてほしいと願っているだけだった。
葵が最初に蓮へ駆け寄った。
「私は信じます!」
迷いのない声だった。
葵はそのまま蓮を抱きしめた。
蓮は驚いたように目を見開いた。
しばらく何も言わなかった。
やがて、そっと葵の頭に手を置く。
「……ありがとう、葵」
その声は、かすかに震えていた。
舞夜も二人のそばへ歩み寄る。
「私も信じてる」
「最初から、蓮が犯人だなんて思ってない」
蓮は舞夜を見つめた。
そして――。
ようやく、少しだけ自然な笑顔を見せた。
その光景を、匠は黙って見つめていた。
葵と舞夜が蓮を信じている。
その事実を、何も言わずに受け止めているように見えた。
彼の瞳には、複雑な感情が浮かんでいた。
悲しみなのか。
心配なのか。
それとも――。
別の何かなのか。
誰も、その答えを知ることはできなかった。
ただ、蓮が葵の頭に手を置いた、その瞬間。
匠の口元に、ごくわずかな笑みが浮かんだ。
ほんの一瞬。
誰にも気づかれないほど小さなものだった。
そして、すぐに消える。
「……大丈夫だよ」
匠は静かに言った。
「きっと、すぐに誤解も解ける」
蓮は小さくうなずいた。
「ああ」
しかし――。
その言葉とは裏腹に。
誰もまだ知らなかった。
この日を境に、蓮への疑惑は学園中へ広がっていくことを。
そして、その疑惑を利用していた人物が――。
すでに次の一手を準備していたことを。
第百二十四話を読んでくださって、ありがとうございました。
蓮への疑いが、少しずつ形を持ち始めていました。
それでも、彼を信じようとする仲間たちの気持ちは変わりません。
しかし――。
静かに動き始めた何かが、彼らの日常をさらに変えていくことになります。
次回もぜひお楽しみください。




