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疑惑の始まり

緑色のノートが盗まれてから、三日が過ぎた。


その間も、文学部は毎日のように活動を続けていた。


しかし――。


そこは、もう以前の文学部ではなかった。


会話は少なくなった。


笑い声も、ほとんど聞こえなくなった。


ページをめくる音さえも、静まり返った部室の中では不自然なほど大きく響いていた。


舞夜は、真っ白な紙の前で鉛筆を握っていた。


もう二十分以上、書こうとしている。


けれど――。


何も浮かんでこない。


一文を書き始めても、すぐに消してしまう。


また書いて。


また消す。


そんなことを繰り返していた。


「何も出てこないの?」


葵の声に、舞夜は顔を上げた。


そして、寂しそうに微笑む。


「うん……」


「まるで、言葉が隠れてしまったみたい」


葵は舞夜の隣に座った。


「だったら、無理に引っ張り出そうとしないほうがいいよ」


「待っていればいい」


「言葉は、いつかちゃんと戻ってくるから」


舞夜は小さく笑った。


「それ、蓮先輩が言いそうなことね」


「だって、昨日蓮先輩が言ってたんだもん!」


二人は顔を見合わせて微笑んだ。


ほんの数秒だけ――。


すべてが以前と同じように戻ったような気がした。

部屋の反対側では――。


蓮が坂本先生と一緒に、いくつかのファイルを整理していた。


「昨夜は眠れた?」


先生が尋ねる。


蓮は数秒間、答えなかった。


「……少しだけです」


しかし、その言葉とは裏腹に、目の下には濃い隈ができていた。


坂本先生は何も言わず、彼の顔を見つめる。


「あなた一人で抱え込まなくていいのよ」


蓮は視線を落とした。


「俺は文学部の部長です」


「みんなの物語を守れないのなら……」


「俺はいったい、何をすればいいんですか?」


坂本先生は静かに蓮の肩へ手を置いた。


「誰か一人の過ちが、その人自身の価値を決めるわけじゃないわ」


「それだけは忘れないで」


蓮は小さく頭を下げた。


「……はい」


けれど――。


その言葉を聞いても、蓮自身はまだ納得できていないようだった。

その少し離れた場所では――。


匠が一人、机に向かっていた。


手にしたペンは、止まることなく動き続けている。


紙の上を走る音だけが、静かな部室に響いていた。


しかし、ときどき。


匠は顔を上げた。


蓮を見る。


次に、葵を見る。


そして最後に、舞夜へ視線を向ける。


その目には、何かを考えているような色が浮かんでいた。


まるで――。


次に何をするべきなのか。


その機会を待っているかのように。


匠は再び紙へ視線を戻した。


ペンを動かしながら、誰にも気づかれないほど小さく口元を緩める。


その表情は、ほんの一瞬だった。


誰も、それに気づかなかった。

その日の部活動は、妙に静かなまま続いていた。


誰も事件について口にしようとはしなかった。


けれど、全員がそのことを考えている。


そんな空気が、部室全体を覆っていた。


しばらくして――。


部室の扉が開いた。


三年生の男子生徒が顔を覗かせる。


「黒沢蓮さんはいますか?」


蓮が顔を上げた。


「はい」


「校長先生がお呼びです」


「今すぐ来てほしいそうです」


部室の空気が一瞬で変わった。


蓮は静かに立ち上がる。


「分かりました」


そして、部室を出る前に四人へ振り返った。


「すぐ戻る」


そう言って、いつものように小さく微笑んだ。


扉が閉まる。


その向こうへ、蓮の足音が遠ざかっていった。


部室に残された三人は、誰も何も言わなかった。

五分。


十分。


そして――十五分が過ぎた。


蓮は、まだ戻ってこなかった。


葵は何度も壁に掛けられた時計へ目を向けた。


「……遅いね」


舞夜も、その言葉に小さくうなずいた。


坂本先生も、わずかに眉をひそめている。


校長との話が、これほど長引くのは普通ではなかった。


やがて――。


部室の扉が開いた。


しかし、そこに立っていたのは蓮ではなかった。


一人の教師だった。


その表情は硬かった。


いつもの穏やかな雰囲気は、どこにもない。


「坂本先生……」


「少し、お話があります」


坂本先生はすぐに立ち上がった。


「分かりました」


そして部員たちを振り返る。


「ここで待っていてね」


「すぐ戻るから」


そう言い残して、先生は教師とともに部室を出ていった。


扉が閉まる。


部室には、再び重い沈黙が戻った。


誰も口を開かなかった。


誰も、何が起きているのか分からない。


ただ――。


蓮がまだ戻ってこないという事実だけが、不安を少しずつ大きくしていた。

誰も話さなかった。


誰もペンを動かさなかった。


部室に響いているのは、壁に掛けられた古い時計の秒針の音だけだった。


葵は不安そうに自分のノートを胸に抱えていた。


舞夜も、何か嫌な予感を感じていた。


そして匠は――。


椅子に座ったまま、じっと扉を見つめていた。


その表情には、いつもの穏やかさが残っている。


けれど、その心の中では――。


小さな笑みが浮かび始めていた。


誰にも気づかれないほどの、ほんのわずかな笑み。


その時。


三人はまだ知らなかった。


この直後、蓮の人生を大きく変える決定が下されようとしていることを。


そして――。


その決定が、文学部の四人の関係を二度と元には戻せなくなることを。

第百二十三話を読んでくださって、ありがとうございました。


少しずつ変わっていった、いつもの放課後。


誰もがまだ、何が起きようとしているのか知りませんでした。


ただ一つだけ――。


あの日を境に、四人の関係は少しずつ変わり始めていたのです。


そして、静かに閉ざされた扉の向こうで、

新たな出来事が動き始めていました。


次回もぜひお楽しみください。

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