盗まれた理由
その日の午前中の残りの時間は、気まずい沈黙に包まれていた。
授業はいつも通り続いていた。
教師たちは普段と変わらず授業を行い、生徒たちはノートを取り続けている。
しかし――。
文学部の四人にとっては、何もかもが以前と同じには感じられなかった。
昼休み。
四人は、いつものように校庭にある古い桜の木の下へ集まった。
いつもなら、他愛のない会話をしながら昼食を楽しむ時間。
けれど、その日は誰も最初の一言を口にできなかった。
葵は弁当箱を持ったまま、一口も食べていない。
舞夜はぼんやりと空を見上げていた。
蓮は閉じたままの本を手にして、黙って座っている。
そして匠は――。
いつもと変わらない穏やかな表情で、三人の様子を静かに見つめていた。
沈黙を破ったのは、匠だった。
「……運が悪かったな」
誰も答えない。
匠は続けた。
「これだけ長い歴史を持つ原稿が失われるなんて……」
「坂本先生にとっても、かなり辛いことだろうな」
蓮は静かにうなずいた。
「そうだな」
「だから、俺は必ず取り戻す」
「どれだけ時間がかかっても」
匠はわずかに笑った。
「それで……どうやって探すつもりなんだ?」
蓮は匠を見た。
「まずは、昨夜ここへ入った人物を見つける」
「もし、いつまで経っても見つからなかったら?」
蓮の表情は変わらなかった。
「それでも探し続ける」
「何か月かかっても」
「何年かかってもな」
四人の間に、再び沈黙が落ちた。
葵は箸を強く握りしめた。
言いたいことがあった。
朝からずっと考えていた。
けれど、話そうとするたびに――。
言葉が消えてしまう。
そんな葵の様子に、舞夜が気づいた。
「葵?」
葵は小さく肩を震わせた。
「え?」
「何か話したいことがあるの?」
葵は視線を落とした。
昨夜見た人影。
懐中電灯。
聞こえてきた声。
緑色のノート。
そして――。
侵入者が、自分のノートの表紙に書かれていた名前を口にした瞬間。
葵はゆっくりと目を閉じた。
「……たぶん」
「その人……背が高かったと思う」
それ以上は、何も思い出せなかった。
蓮は葵の肩にそっと手を置いた。
「無理に思い出そうとしなくていい」
「もう十分だよ」
葵はかすかに笑った。
「……ありがとう」
その頃――。
校舎の本館にある一つの窓から、誰かが四人の様子を静かに見つめていた。
その人物は、ほんの数秒だけそこに立っていた。
やがて、ゆっくりとカーテンを閉める。
四人の誰一人として、その視線に気づくことはなかった。
そして――。
その日の午後。
坂本先生は、再び文学部の部員たちを集めた。
その顔には、明らかな疲労が浮かんでいた。
朝から何時間も、学園側と事件について話し合っていたのだろう。
四人が席に着くのを確認すると、先生は静かに口を開いた。
「みんなに、お願いがあります」
四人は黙って先生を見つめた。
「今回の事件で、文学部を壊してしまわないでほしいの」
その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。
坂本先生は続ける。
「物語は失われることがあるわ」
「ノートも、いつかはなくなるかもしれない」
「でも――」
先生は四人をまっすぐ見つめた。
「あなたたちがお互いを信じられなくなってしまったら……」
「それだけは、二度と取り戻せないから」
舞夜は胸の奥が締めつけられるような感覚を覚えた。
蓮は静かに頭を下げる。
「できる限り、頑張ります」
匠も穏やかな表情で続けた。
「先生、俺に任せてください」
葵も小さくうなずいた。
「……はい」
四人はそう答えた。
しかし――。
葵の心の奥では、すでに小さな疑念が芽生え始めていた。
――現在。
舞夜はそこで一度、読むのを止めた。
「……皮肉ね」
大樹は舞夜を見つめた。
「何が?」
舞夜は、テーブルの上に置かれた写真へ視線を落とした。
「みんなで、ずっと一緒にいようって約束したの」
「でも……」
その声は、少しだけ震えていた。
「まさにその日から、私たちは少しずつ離れていった」
結衣は静かに視線を落とした。
舞夜は再び手紙を手に取る。
残されたページは、もうほとんどなかった。
彼女はゆっくりと、続きを読み始めた。
> 「盗まれたのは、一冊の原稿だけではない。」
> 「あの夜、文学部から奪われたのは――」
> 「仲間を信じる心だった。」
大樹は息をのんだ。
舞夜はさらに、その下に書かれた文章へ目を移した。
そこには、これまでとは少し違う筆跡が残されていた。
まるで、書き手自身が最後まで書き続けることを迷っていたかのような文字だった。
> 「そして、誰かがその疑いを……意図的に煽り始めた。」
部屋に重い沈黙が落ちた。
緑色のノートを盗んだ人物。
そして、その後に生まれた疑いを利用した人物。
もしかすると――。
それは同じ人物なのかもしれない。
あるいは、別の誰かが事件を利用していたのかもしれない。
まだ、その答えは分からなかった。
しかし一つだけ確かなことがある。
あの事件は、ノートを盗んだ瞬間には終わっていなかった。
むしろ――。
そこから、本当の悲劇が始まったのだ。
舞夜は、手紙の最後のページをめくった。
そこには、これまでとは少し違う文字で、一つの文章が書かれていた。
舞夜はゆっくりと読み上げる。
> 「もし本当のことを知りたいのなら、最初に探すべきなのは犯人ではない。」
> 「あの夜、なぜ誰かが緑色のノートを盗もうとしたのか――。」
> 「その理由を探しなさい。」
大樹は眉をひそめた。
「理由……?」
舞夜は静かにうなずいた。
「ええ」
「今まで私たちは、ずっと犯人を探していた」
「でも、それでは何も分からないのかもしれない」
結衣が不安そうに尋ねる。
「じゃあ……緑色のノートの中に、何か特別なものがあったってこと?」
舞夜は答えなかった。
ただ、テーブルの上に置かれた写真へ視線を向ける。
そこには、三年前の四人が写っていた。
まだ何も知らず、笑っていた頃の自分たち。
舞夜は写真をそっと手に取った。
「このノートそのものが目的だったんじゃないのかもしれない」
「ノートの中にある何かが――」
「誰かにとって、どうしても必要だったのかもしれない」
その言葉に、俺は息をのんだ。
もしそうなら――。
あの夜の侵入者は、ただ過去の物語を盗んだのではない。
何かを探していた。
そして、それを見つけるためなら、すべてを壊す覚悟さえしていたのかもしれない。
舞夜は、最後の一文を読み上げた。
> 「犯人を探す前に、動機を探しなさい。」
読み終えた瞬間、部屋には再び静寂が落ちた。
三年前の事件。
消えた緑色のノート。
そして、少しずつ崩れていった四人の関係。
すべてをつなぐ答えは――。
あの夜、誰かがノートを盗もうとした理由の中に隠されている。
そう思えてならなかった。
第百二十二話を読んでくださって、ありがとうございました。
あの日、四人はまだ何も知りませんでした。
ただ一冊のノートが消えたことで、
それまで当たり前だった日常が少しずつ変わっていったのです。
そして、その変化はやがて、
彼らの運命そのものを大きく変えていくことになります。
次回もぜひお楽しみください。




