消えた証拠
音は、とても小さかった。
木の床に何かが落ちた、ほんの小さな音。
――コツ。
しかし、文学部の部室を包む完全な静寂の中では、それはまるで雷鳴のように響いた。
葵は目を大きく見開いた。
腕に抱えていたノートが、床へ滑り落ちていた。
反射的に拾おうと身をかがめる。
しかし――。
もう遅かった。
部室の中で、侵入者がすぐに懐中電灯を消した。
すべてが闇に包まれる。
数秒間――。
何も聞こえなかった。
足音も。
呼吸音も。
ただ、窓を叩き続ける雨の音だけが響いていた。
葵は胸を締めつける恐怖に耐えながら、小さな声で呟いた。
「……お願い」
「出てこないで……」
その時――。
ギィィ……。
扉が、ゆっくりと開き始めた。
葵は一歩後ろへ下がった。
そして、もう一歩。
呼吸がどんどん荒くなっていく。
部室の暗闇が、廊下へとゆっくり広がってくるように感じられた。
やがて――。
扉の向こうに、人影が現れた。
顔は見えない。
廊下の非常灯に照らされ、背の高いシルエットだけが浮かび上がっている。
その人物は、しばらく動かなかった。
ただ、周囲を見渡している。
何かを探しているようだった。
葵は柱の陰へ身を隠した。
片手で口を覆い、呼吸の音さえ漏らさないようにする。
時間が、永遠のように長く感じられた。
やがて、その人物が一歩、廊下へ踏み出した。
そして、ゆっくりと腰を下ろす。
床に落ちたノートを拾い上げた。
雨に濡れた表紙には、外から入り込んだ雨粒がいくつも残っていた。
その人物はノートを開いた。
最初のページだけを確認する。
そこには、整った文字で名前が書かれていた。
水島葵
文学部
人物は、その名前を数秒間じっと見つめた。
そして、静かにノートを閉じた。
「……そういうことか」
小さな声が、誰にも届かない廊下に消えた。
葵の背筋を、冷たいものが走った。
自分の存在が知られてしまった。
少なくとも――。
相手は、もう彼女の名前を知っていた。
その瞬間――。
廊下の奥から、声が聞こえた。
「誰かいるのか?」
夜間警備員だった。
懐中電灯の光が、廊下の角を照らす。
侵入者は即座に反応した。
緑色のノートを胸に抱える。
そして、葵のノートを元の場所へ戻した。
次の瞬間――。
侵入者は非常階段へ向かって走り出した。
「おい! 止まれ!」
警備員が声を上げる。
すぐに後を追った。
廊下に、激しい足音が響き渡る。
しかし、雨と暗闇のせいで、侵入者の姿をはっきり確認することはできなかった。
警備員が見えたのは、階段を駆け下りていく一つの影だけだった。
「待て!」
叫びながら追いかける。
しかし、出口までたどり着いた時には――。
そこには、もう誰もいなかった。
葵は、その場から動けないまま数秒間立ち尽くしていた。
足はまだ震えている。
自分でも、どうしてこれほど怖かったのか分からなかった。
やがて、廊下の奥から警備員が戻ってきた。
「君、大丈夫か?」
心配そうな声だった。
葵は何度も小さくうなずいた。
けれど、声がうまく出てこない。
「わ、私……」
一度、息を整える。
「誰かが……」
「文学部に入っていきました……」
警備員の表情が変わった。
「誰かが?」
葵は震える指で、部室を指さした。
「はい……」
警備員はすぐに扉の中へ入った。
そして――。
古い木製の戸棚を見つける。
扉は開いたままだった。
中に並んでいたファイルには、大きな乱れはない。
しかし、その一番上の棚を見た瞬間――。
警備員の表情が険しくなった。
「……これは」
葵も恐る恐る戸棚へ近づいた。
そこにあるはずだったもの。
緑色のノートが――。
消えていた。
その瞬間、葵は初めて理解した。
あの人物が探していたものは、ただのノートではなかったのだ。
――現在。
舞夜は、そこで一度読むのを止めた。
手紙を握る指に、わずかに力が入る。
「……そうだったのね」
結衣は不安そうに舞夜を見つめた。
「じゃあ、葵は全部見ていたの?」
舞夜は静かにうなずいた。
「ええ」
「侵入者が部室に入ったことも」
「緑色のノートを持ち出したことも」
俺は眉をひそめた。
「でも……葵は、その後どうしたんだ?」
舞夜は答える前に、もう一度手紙へ目を落とした。
そして、続きを読み始める。
「『葵は、その夜に見たことをすべて警備員へ話しました』」
「『誰かが文学部へ侵入したこと』」
「『緑色のノートが持ち出されたこと』」
舞夜の声が少しずつ低くなる。
「『そして、自分がその人物の姿を見たこと』」
結衣が息をのんだ。
「それなら、犯人を見つけられたんじゃない?」
舞夜は首を横に振った。
「……そう簡単にはいかなかったの」
手紙には、さらに続きがあった。
「『翌朝、学校中に奇妙な噂が広がり始めました』」
「『そして、その噂は少しずつ、事実とは違う形へと変わっていったのです』」
部屋の空気が重くなる。
俺は思わず尋ねた。
「どんな噂だったんだ?」
舞夜は次のページへ視線を移した。
しかし――。
そこに書かれていた内容を読んだ瞬間、彼女の表情が変わった。
「……これが」
舞夜は小さく呟いた。
「三年前のすべてを狂わせた、最初の嘘だったの」
舞夜は次のページをめくった。
しばらくの間、何も言わなかった。
そして、静かな声で読み始める。
「『翌朝、最初に広まった噂はこうでした』」
舞夜は一度、息を整えた。
「『昨夜、文学部の部室から原稿が盗まれた』」
結衣は眉をひそめた。
「それだけなら、葵が見たことと同じじゃない?」
「ええ」
舞夜はうなずいた。
「でも、問題はその後よ」
手紙の続きを読む。
「『誰かが、盗まれたのは緑色のノートではなく、部員の新作原稿だったと言い始めました』」
俺は思わず顔を上げた。
「新作原稿?」
舞夜は静かにうなずく。
「そう」
「そして、その話はすぐに学校中へ広がった」
さらにページをめくる。
「『その原稿を書いたのは、当時もっとも注目されていた部員でした』」
舞夜の表情が曇った。
「『そのため、最初から盗難には別の目的があったのだと考える人も現れました』」
結衣が小さく尋ねる。
「でも……それって本当だったの?」
舞夜は首を横に振った。
「違う」
「葵が見たのは、侵入者が緑色のノートを持って逃げるところだけ」
「新作原稿なんて、見ていないわ」
俺は拳を握った。
「じゃあ……誰がそんな噂を流したんだ?」
舞夜は答えなかった。
ただ、手紙に書かれた最後の一文を読み上げた。
「『その噂を最初に口にした人物こそ、三年前の事件を大きく変えることになります』」
部屋に重い沈黙が落ちた。
盗まれたノート。
消えた証拠。
そして、事実とは違う噂。
あの夜に起きた事件は、単なる盗難ではなかった。
誰かが意図的に、真実そのものを書き換えようとしていたのだ。
そして、その最初の一歩は――。
翌朝に始まった。
第百二十話を読んでくださって、ありがとうございました。
ついに、あの夜の盗難の全貌が少しずつ見えてきました。
葵は確かに侵入者を目撃していた。
しかし翌朝、事実とは異なる噂が学園中に広がり始めます。
誰かが意図的に真実を変えようとしていた。
そして、その最初の嘘を生み出した人物とは――。
次回、その正体に迫ります。




