目撃者
再び、食堂に静寂が戻った。
舞夜は手紙をしっかりと握っていた。
読み始めてから初めて、彼女自身も俺たちと同じくらい、この先に何が書かれているのか知りたがっているように見えた。
舞夜は深く息を吸った。
そして、続きを読み始める。
「『あの夜、すべてを目撃した人物には、証人になるつもりなどありませんでした』」
「『ただ、間違った場所に――間違った時間にいただけだったのです』」
結衣は眉をひそめた。
「誰だったの?」
舞夜はゆっくりと次の一行へ目を移した。
その瞬間、彼女の目がわずかに見開かれた。
まるで、そこに書かれていた答えを彼女自身も予想していなかったかのように。
舞夜は、静かに読み上げた。
「『水島葵でした』」
その名前が、静かな部屋に響いた。
時間が止まったように感じられた。
「葵……?」
俺は思わず呟いた。
舞夜はゆっくりと顔を上げた。
「じゃあ……」
「葵は、あの夜の盗難を知っていたんだ」
手紙に書かれている内容は、その可能性をはっきりと示していた。
舞夜は再び視線を落とし、続きを読み始める。
「『葵は、文学部に自分のノートを忘れていました』」
「『誰にも告げず、一人でそれを取りに戻ったのです』」
舞夜は一度、言葉を止めた。
そして、次の文章を読む。
「『もし五分早く到着していたら……』」
「『あるいは、五分遅く到着していたら……』」
「『……何も起こらなかったでしょう』」
俺の背筋を、冷たいものが走った。
すべての始まりは、たった一つの偶然だった。
自分のノートを取りに戻る。
そんな小さな行動が、その後の運命を大きく変えることになるなんて――。
舞夜は静かに手紙を閉じた。
そして、俺たちの目の前で、その夜の記憶を語り始めた。
――三年前。
あの雨の夜へと、時間は戻っていった。
――三年前。
青龍学園には、まだ激しい雨が降り続いていた。
葵は、すっかり濡れてしまった傘を手に、廊下を走っていた。
「もう……!」
文学部の部室の前で、彼女は足を止める。
荒い息を整えながら、小さく呟いた。
「私のノート……」
「きっと机の上に置き忘れたんだ」
葵はドアノブへ手を伸ばした。
しかし、その手が触れる直前――。
何かがおかしいことに気づいた。
扉が、わずかに開いていた。
ほんの数センチ。
葵は眉をひそめた。
「蓮先輩……?」
返事はない。
葵は慎重に扉を押した。
部屋の中を覗き込む。
そこは完全な暗闇に包まれていた。
ただ一つ。
本棚の間を移動する、小さな光だけが見えていた。
葵は息を止めた。
反射的に一歩後ろへ下がる。
音を立てないように、扉の陰へ身を隠した。
その瞬間――。
彼女はまだ知らなかった。
目の前で起きていることが、自分の人生を大きく変える事件になることを。
部室の中では――。
侵入者が、緑色のノートを両手で握っていた。
素早くページをめくる。
一枚。
また一枚。
しかし、目的のものが見つからない。
「どこにある……?」
苛立ちを含んだ声が、静かな部室に響いた。
侵入者はさらにページをめくった。
そして突然、ノートを机に叩きつけた。
「……ない!」
その声は小さかった。
けれど、そこには明らかな焦りがあった。
まるで、最初から特定の何かを探していたかのようだった。
侵入者はすぐに戸棚へ戻る。
緑色のノートだけでは足りない。
そう判断したのか、今度は中に並べられていたファイルを次々と取り出し始めた。
一冊。
また一冊。
動きはどんどん速くなっていく。
焦り。
苛立ち。
そして、抑えきれない怒り。
その一部始終を、葵は扉の陰から見つめていた。
心臓が激しく鳴っていた。
誰かを呼ばなければならない。
先生を探すべきだ。
警備員を呼ぶべきだ。
そう分かっているのに――。
足が動かなかった。
ただ、その場に隠れていることしかできなかった。
そして、その時。
侵入者の動きが突然止まった。
完全に静止する。
まるで、何かの気配を感じ取ったかのように。
葵は息を殺した。
侵入者が、ゆっくりと顔を上げる。
そして――。
その視線が、まっすぐ扉へ向けられた。
葵が隠れている場所へ。
永遠にも感じられる一瞬。
二人は、互いに動かなかった。
――現在。
結衣は思わず口元に手を当てた。
「……葵は、見つかったの?」
舞夜はゆっくりと首を横に振った。
「まだ分からないわ」
そして、もう一度手紙に目を落とす。
次の一文を、静かな声で読み始めた。
「『葵は、自分が隠れることに成功したと思っていました』」
「『しかし――小さなミスを犯してしまったのです』」
舞夜はそこで一度、言葉を止めた。
何が起きたのか。
その答えを確かめるように、次の行へ視線を移す。
そして、読み上げた。
「『後ろへ下がった拍子に、葵のノートが床へ落ちました』」
俺の胸に、重いものが落ちてきたような感覚がした。
静まり返った夜の校舎。
雨音に包まれた文学部。
そして――床に落ちた一冊のノート。
その小さな音だけで、すべてが変わってしまう。
舞夜はゆっくりと手紙を下ろした。
「……これで、侵入者は気づいたのね」
結衣が小さく呟く。
「葵が、そこにいるって……」
舞夜は答えなかった。
ただ、手紙を強く握りしめた。
三年前のあの夜。
隠れていた葵の存在は、ついに知られてしまった。
そして、部室の中にいた人物は――。
もう一人ではなかった。
葵のノートが床に落ちた。
乾いた音が、静まり返った部室に響く。
侵入者の動きが止まった。
数秒間、何も起こらなかった。
しかし――。
やがて、ゆっくりと顔が扉の方向へ向けられる。
葵は息を殺した。
逃げなければならない。
そう思っているのに、足が動かない。
侵入者が一歩、また一歩と扉へ近づいてくる。
雨音だけが、二人の間に流れていた。
そして、扉の前で足音が止まった。
葵は思わず目を閉じた。
その時――。
廊下の向こうから、別の音が聞こえてきた。
誰かが歩いてくる。
侵入者は足を止めた。
そして、何かを決意したように後ろへ下がる。
緑色のノートを机の上に置くと、素早く戸棚を閉めた。
そして、もう一度だけ扉の方向を見る。
葵は動かなかった。
数秒後、侵入者は部室の奥へ戻り、別の出口へ向かった。
やがて、その姿は暗闇の中へ消えていった。
葵はしばらく動けなかった。
侵入者が完全にいなくなったことを確認してから、ようやく扉の陰から姿を現す。
床に落ちた自分のノートを拾う。
そして、戸棚を見る。
緑色のノートは、まだそこにあった。
しかし――。
葵は気づいていなかった。
その夜、本当に盗まれたものは、まだ別の場所にあったことを。
第百十九話を読んでくださって、ありがとうございました。
ついに明らかになった、あの夜の目撃者。
それは、偶然部室へ戻ってきた葵でした。
しかし、侵入者は緑色のノートを持ち去ってしまいました。
では、あの夜、その人物はいったい何を探していたのでしょうか。
そして、なぜ緑色のノートを盗む必要があったのでしょうか。
次回、その答えが少しずつ明らかになります。




