夜の侵入者
日が沈んで間もなく、雨が降り始めた。
青龍学園の校舎には、まだいくつかの廊下や職員室の明かりが残っていた。
そこでは、教師や職員たちがまだ仕事を続けていた。
昼間は大勢の生徒で賑わっている校舎も、今ではまるで別の場所のようだった。
静かで。
動くものもなく。
どこか厳かな空気さえ漂っていた。
――現在。
舞夜は手紙をテーブルの上に置いた。
そして、しばらく自宅の窓の外を見つめていた。
再び雨が降っていた。
静かな雨だった。
あの夜の雨と、とてもよく似ている。
「まさか……」
舞夜は小さな声で呟いた。
「……あの日のことを、こんなにはっきり思い出すなんて」
結衣は心配そうに舞夜を見つめた。
「その夜、学校にいたの?」
舞夜はゆっくりと首を横に振った。
「ううん」
「もう家に帰っていたわ」
「私が知っていることは、その後に起きたことだけ……」
舞夜は再び手紙を手に取った。
そして、続きを読み始めた。
舞夜は手紙に目を落とした。
そこには、あの夜の出来事について、さらに詳しく記されていた。
「『あの夜、ほとんどの人間はすでに学園を後にしていました』」
舞夜の声が静かな部屋に響く。
「『校舎に残っていたのは、ほんの数人だけでした』」
その言葉を聞いた瞬間、俺たちは再び過去の光景へと引き戻された。
――青龍学園。
午後八時十四分。
三階の大きな窓を、雨粒が激しく叩いていた。
廊下には誰もいない。
聞こえてくるのは、夜間警備員がいつもの巡回を行う足音だけだった。
警備員は一つの教室の前で立ち止まった。
扉を確認する。
問題はない。
そのまま次の扉へ向かう。
そして、文学部の部室の前までやって来た。
警備員は扉の鍵を確認した。
軽くドアノブを押す。
動かない。
しっかりと施錠されている。
彼は小さな巡回用の手帳を取り出した。
時刻を確認する。
そして、何事もなかったかのように記録を書き込んだ。
「20時14分――異常なし」
手帳を閉じる。
そして、ゆっくりと歩き出した。
遠ざかっていく足音が、静かな廊下の奥へと消えていった。
その一分後――。
廊下の奥に、一つの人影が現れた。
その人物は、しばらくその場から動かなかった。
ただ、じっと立っている。
耳を澄まし、周囲の気配を探っていた。
やがて、警備員の足音が完全に遠ざかったことを確認すると、ゆっくりと歩き始めた。
足取りは慎重だった。
一歩一歩、音を立てないように進んでいく。
窓の外では、雨が降り続いていた。
その雨音が、わずかな物音さえも隠してくれていた。
やがて、その人物は文学部の部室の前までたどり着いた。
ポケットから何かを取り出す。
しかし、それは鍵ではなかった。
小さな懐中電灯だった。
周囲を警戒しながら、光を最小限に絞って鍵穴を照らす。
そして――。
その人物は小さく笑った。
「……うまくいった」
誰にも聞こえないほどの声で呟く。
ポケットから、今度こそ鍵を取り出した。
それは新しく作られた鍵だった。
鍵穴に差し込む。
ゆっくりと回す。
カチッ――。
静かな音とともに、扉の鍵が開いた。
その人物は周囲を確認してから、ゆっくりと扉を開けた。
部室の中は、完全な暗闇に包まれていた。
侵入者は後ろ手に扉を閉める。
そして、小さな懐中電灯を取り出した。
細い光が、ゆっくりと部屋の中を照らしていく。
机。
本棚。
窓際の植物。
そして――。
古い木製の戸棚。
侵入者は迷うことなく、そこへ向かった。
まるで、部室の中を隅々まで知っているかのようだった。
ポケットから、もう一つの鍵を取り出す。
先ほどのものよりも小さい鍵だった。
鍵穴に差し込む。
しかし――。
一瞬、鍵が動かなかった。
侵入者の呼吸が止まる。
数秒間、そのまま動かない。
そして、慎重に力を加えた。
カチッ。
鍵が回った。
戸棚の扉がゆっくりと開く。
中には、何十冊ものファイルが整然と並べられていた。
そして、一番上の棚。
そこに――。
緑色の表紙をしたノートが置かれていた。
侵入者はゆっくりと手を伸ばす。
あと少しで、その指がノートに触れる。
その瞬間――。
ドンッ。
廊下から、乾いた物音が響いた。
侵入者の動きが止まる。
懐中電灯が、すぐに消された。
部室は再び、完全な暗闇に包まれた。
現在――。
結衣は思わず小さく身を震わせた。
「……その音の正体は?」
舞夜はゆっくりと首を横に振った。
「まだ、手紙には書かれていないわ」
彼女はもう一度、紙に視線を落とした。
そして、次の部分を読み始める。
「『侵入者は、誰かがまだ校舎に残っているとは思っていませんでした』」
「『だからこそ、その音を聞いた瞬間、初めて計画が狂ったのです』」
俺は息をのんだ。
あの夜。
文学部の部室に忍び込んだ人物は、自分以外に誰もいないと思っていた。
けれど――。
実際には、誰かがいた。
しかも、その人物は侵入者の存在に気づいた可能性がある。
舞夜は続けて読み上げた。
「『侵入者は、しばらく暗闇の中で息を潜めていました』」
「『足音が近づいてくるのを待ちながら、手にした鍵を強く握りしめていました』」
部屋の中に、再び緊張が走る。
そして、舞夜は最後の一文を読んだ。
「『その夜、緑色のノートを見た人物は――侵入者だけではありませんでした』」
結衣が目を見開いた。
「……じゃあ」
俺は言葉を失った。
あの夜。
誰かが、すべてを見ていた。
そして、その人物こそが――。
三年前の真実を知る、もう一人の証人だった。
舞夜は手紙を持ったまま、しばらく黙っていた。
結衣も俺も、次の言葉を待っていた。
そして、舞夜はゆっくりと続きを読み始めた。
「『侵入者は、廊下から聞こえてくる足音に気づいていました』」
「『しかし、その人物が誰なのかまでは分かりませんでした』」
舞夜の声が少しだけ震える。
「『やがて、足音は部室の前で止まりました』」
部屋の空気が張りつめる。
誰かが、文学部の部室の前に立っていた。
侵入者は息を殺し、暗闇の中でじっとしていた。
そして――。
「『扉の向こうにいた人物は、すぐには入ってきませんでした』」
「『ただ、しばらくの間、扉の前に立っていました』」
結衣が小さく息をのんだ。
「……その人は、侵入者に気づいていたの?」
舞夜は首を横に振った。
「分からない」
「でも……」
手紙の次の文章に目を向ける。
「『その人物は、確かに何かがおかしいと感じていました』」
俺は思わず拳を握った。
その夜、偶然そこにいた誰かが、ただならぬ気配を感じ取っていた。
しかし、その人物はまだ何も知らなかった。
目の前の扉の向こうに、誰かが侵入していることも。
そして、その人物が狙っているものが何なのかも。
舞夜は最後の一文を読み上げた。
「『その夜、二人は互いの存在を知らないまま、同じ場所にいた』」
沈黙が落ちた。
侵入者。
そして、もう一人の人物。
二人が同じ廊下に存在していたにもかかわらず、その正体はまだ明かされていない。
舞夜はゆっくりと手紙を閉じた。
「ここで、いったん途切れているわ」
結衣が不安そうに尋ねる。
「じゃあ……その人が誰なのかは、まだ分からないの?」
舞夜は小さくうなずいた。
「ええ」
「でも……」
彼女は手紙を見つめた。
「次のページには、その夜に起きたことが書かれている」
俺は息をのんだ。
三年前の夜。
緑色のノートが盗まれようとした瞬間。
そして、その現場に偶然居合わせた人物。
その人物の存在が、これから明らかになる真実を大きく変えることになる。
そう思えてならなかった。
第百十八話を読んでくださって、ありがとうございました。
静かな夜に起きた、緑色のノートの盗難。
そして、その場には侵入者とは別に、もう一人の人物がいました。
二人は互いの存在を知らないまま、同じ場所にいたのです。
果たして、その人物は誰なのか。
次のページで、三年前の夜に隠された真実が少しずつ明らかになります。
次回もぜひお楽しみください。




