忍び寄る影
空は、深いオレンジ色に染まっていた。
文学部の活動が終わり、部員たちは一人、また一人と帰り支度を始めていた。
「また明日」
「じゃあね」
「明日は最初の原稿を忘れないでね」
次々と交わされていた声も、少しずつ小さくなっていく。
数分後には、部室はほとんど空になっていた。
そこに残っていたのは、坂本先生、蓮、匠、葵、そして舞夜の五人だけだった。
坂本先生は机の上に置かれた書類を整理し終えると、顔を上げた。
「それじゃあ、みんな」
「私もそろそろ帰るわね」
蓮は軽く頭を下げた。
「部室の戸締まりは俺たちに任せてください」
「ええ。お願いね」
先生は微笑んだ。
そして、部室を出る前に一度だけ、古い木製の戸棚へ視線を向けた。
扉がきちんと閉まっていることを確認する。
「大切にしてね」
「そのノートには、三十年近い物語が残されているんだから」
四人は同時に返事をした。
「はい、先生」
扉が閉まる。
廊下へ遠ざかっていく先生の足音が、静かに消えていった。
部室には、五人ではなく――四人だけが残された。
葵は大きく伸びをした。
「お腹空いたー!」
舞夜は思わず小さく笑った。
「葵はいつもお腹を空かせてるわね」
「だって、頭を使うとすごくお腹が空くんだもん」
匠が笑った。
「それなら、どうしてそんなにたくさん書けるのか分かったよ」
「ちょっと!」
葵は頬を膨らませた。
その姿を見て、四人は笑い合った。
蓮でさえ、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
その瞬間だけは――。
この思い出が、やがて悲劇へとつながっていくなど、誰にも想像できなかった。
部室には、まだ穏やかな時間が流れていた。
葵と舞夜がそれぞれの荷物をまとめている間、匠は蓮のもとへ歩み寄った。
「蓮」
「ん?」
蓮が顔を上げる。
「少し聞きたいことがあるんだ」
「何?」
匠は声を落とした。
女子たちには聞こえないほどの小さな声だった。
「緑色のノートを、出版社に見せようと思ったことはあるか?」
蓮はわずかに眉をひそめた。
「ない」
「一度も?」
「一度もない」
匠は腕を組んだ。
「でも、あの中には本当に素晴らしい作品がたくさんある」
「ずっと保管しておくだけじゃ、もったいないと思わないか?」
蓮は静かに答えた。
「このノートは、作品を出版するためにあるんじゃない」
「そこに残された物語を守るためにあるんだ」
匠は数秒間、黙っていた。
やがて、いつものような笑顔を浮かべる。
「そうだな」
「蓮の言うことも分かるよ」
しかし、その笑顔はほんの一瞬だった。
蓮が視線を外した瞬間――。
匠の目が、静かに古い木製の戸棚へ向けられた。
その視線には、先ほどまでとは違うものが宿っていた。
強い興味。
そして、何かを考えているような鋭さ。
ほんの一瞬のことだった。
舞夜は荷物をまとめ終えた。
その時、ふと顔を上げた。
そして――。
匠が戸棚を見つめていることに気づいた。
ほんの一瞬だった。
匠はすぐに視線を逸らした。
「どうしたの?」
舞夜が尋ねる。
「え?」
匠は振り返った。
いつもの穏やかな笑顔が戻っていた。
「何でもないよ」
「ただ、少し考え事をしていただけ」
舞夜は数秒間、彼を見つめた。
けれど、それ以上は何も聞かなかった。
きっと本当に、ただ考え事をしていただけなのだろう。
少なくとも――。
その時の舞夜は、そう思った。
しかし、何年も後になってから。
彼女は何度も、この瞬間を思い出すことになる。
なぜ、もっと注意して見ていなかったのか。
なぜ、あの視線の意味に気づけなかったのか。
その答えを知るのは、まだ先のことだった。
四人は一緒に文学部の部室を出た。
廊下には、まだわずかに生徒たちの気配が残っていた。
清掃員が廊下を掃除する音。
遠くから聞こえる、部活動を続けている生徒たちの声。
それ以外は、静かだった。
階段の前まで来ると、葵が振り返った。
「ねえ、明日みんなで一緒にお昼を食べない?」
舞夜は笑顔で答えた。
「いいわね」
蓮も軽くうなずく。
「俺も大丈夫だ」
匠もいつもの笑顔を浮かべた。
「じゃあ、また明日」
そこで四人は別れた。
葵と舞夜は昇降口へ向かう。
蓮は図書室へ向かった。
そして、匠だけがその場に残った。
しばらくして、三人の姿が見えなくなるまで待つ。
やがて、廊下から人の気配が完全に消えた。
匠はゆっくりと振り返った。
その視線の先には――。
三階にある文学部の部室があった。
匠はしばらくの間、その場から動かなかった。
そして、ゆっくりと三階を見上げる。
誰もいない。
廊下にも、人の気配はなかった。
匠の表情から、いつもの穏やかな笑顔が消えていた。
そこにあったのは、冷たく決意に満ちた目だった。
まるで、もう後戻りするつもりのない人間の目。
匠は制服のポケットに手を入れた。
指先が、小さな赤い蝋の塊に触れる。
鍵の形を写し取るために使われる蝋だった。
それを指で強く握りしめる。
そして、もう一度だけ、誰もいない廊下を確認した。
「あと一度だけ、機会があれば...」
小さく呟く。
その声は、誰にも届かなかった。
匠はゆっくりと歩き出した。
まだ誰も知らなかった。
この日の夕方が――。
文学部が、もう二度と同じ場所には戻れなくなる直前だったことを。
第百十七話を読んでくださって、ありがとうございました。
いつもと変わらない放課後。
笑い合い、明日の約束を交わした四人。
しかし、その裏で一人だけ、すでに別の未来を見つめていました。
そして、匠の手の中にあった赤い蝋が、すべての歯車を動かし始めます。
次回もぜひお楽しみください。




