緑色のノート
舞夜は両手で緑色のノートを持ち上げた。
思っていたよりも重かった。
角は長い年月によってすり減り、表紙を覆う布も少し色あせている。
それなのに、不思議な存在感があった。
まるで、それがただのノートではないかのようだった。
文学部の歴史そのものが、その中に閉じ込められているように感じられた。
「見てもいいですか?」
葵が目を輝かせながら尋ねた。
坂本先生は優しく微笑んだ。
「もちろん。でも、丁寧に扱ってね」
「これは文学部にとって、とても大切なものだから」
葵はすぐに舞夜の隣へ移動した。
蓮も静かに近づいてくる。
一方で、匠はテーブルの反対側に立ったまま、その様子を見つめていた。
舞夜はゆっくりと表紙を開いた。
最初のページには、美しい文字で書かれたメッセージが残されていた。
«「物語は、時とともに変わっていく。»
«しかし、それを書いた人の心は、このページの中に生き続ける。»
«もし自分の才能に迷うことがあったなら、このノートを開いてほしい。»
«そして、すべての作家が最初は初心者だったことを思い出してほしい。」»
その文章の下には、たくさんの署名が並んでいた。
歴代の部長たち。
すでに卒業した部員たち。
彼らよりもずっと前に、この部室で物語を書いていた生徒たちの名前だった。
舞夜は指先でページをそっとなぞった。
そこに書かれた一つひとつの名前が、文学部の長い歴史を物語っているように感じられた。
次のページをめくると、そこには数え切れないほどの物語が収められていた。
三ページほどの短い作品もあれば、五十ページを超える長編もある。
推理小説。
恋愛小説。
ファンタジー。
そして、詩まで残されていた。
どの作品にも、小さなメモが添えられていた。
なぜその物語を書いたのか。
どのような思いが作品を生み出したのか。
そして、読者に何を伝えたかったのか。
それぞれの作者が、自分自身の言葉で記していた。
葵はページをめくるたびに目を輝かせていた。
「すごい...」
「まるでタイムカプセルみたい」
蓮は静かにうなずいた。
「その通りだよ」
「これは文学部の記憶なんだ」
部室には穏やかな空気が流れていた。
誰もが、そのノートの価値を自然に理解していた。
匠は静かに手を伸ばした。
「少し見せてもらってもいいか?」
舞夜はうなずき、ノートを彼に手渡した。
匠は一ページずつ丁寧に目を通し始めた。
しかし、葵とは興味を示す部分が違っていた。
作者が残したメッセージには、ほとんど目を向けない。
彼が注目していたのは、作品の題名だった。
作者の名前。
そして、コンクールへの応募歴だった。
数分後、匠はゆっくりとノートを閉じた。
「ずいぶん質の高い作品が多いな」
蓮は穏やかに微笑んだ。
「ああ」
匠はしばらく黙っていた。
そして、ふと思いついたように口を開いた。
「もし、この中の作品を出版したいと思ったら、どうなるんだ?」
坂本先生は優しく首を横に振った。
「それはできないわ」
「作品の権利は、すべて作者本人にあるの」
「このノートは保存するためのものよ」
「利用するためのものではないわ」
匠は小さくうなずいた。
「なるほど」
その返事はごく自然なものだった。
けれど、舞夜は小さな違和感を覚えた。
ほんの一瞬だけだった。
匠の表情に、わずかな失望が浮かんだのだ。
あまりにも短い変化だった。
ほとんどの人なら気づかなかっただろう。
しかし、舞夜だけは見逃さなかった。
午後は穏やかなまま過ぎていった。
それぞれが自分の席に戻った。
葵は再び物語を書き始めた。
蓮は次の部会に向けて原稿を整理していた。
匠は新しい作品に向かい、黙々とペンを動かしていた。
そして舞夜は、『雨を待つ少女』の結末を考え続けていた。
部室には再び静けさが戻っていた。
その時だった。
坂本先生が腕時計に目を向けた。
「もうこんな時間ね」
先生は緑色のノートを手に取った。
「帰る前に、これを保管しておきましょう」
そう言うと、部室を横切り、部長の机の隣に置かれた古い木製の戸棚の前で足を止めた。
戸棚の中には、何冊ものファイルが整然と並べられていた。
先生は緑色のノートを一番上の棚に置いた。
そして、小さな真鍮の鍵を取り出した。
扉を閉めると、鍵をゆっくりと回した。
カチッ――。
金属音が静かな部室に響き渡った。
「これで安心ね」
先生は微笑みながら言った。
葵が手を挙げた。
「先生、その鍵は先生しか持っていないんですか?」
「いいえ」
坂本先生は首を横に振った。
「私が一本持っているわ」
そして、部室を見渡した。
「もう一本は、文学部の部長が持っているの」
全員の視線が蓮へと向けられた。
蓮は制服のポケットに手を入れた。
そして、小さな銀色の鍵を取り出した。
数秒間、それを指先で見つめる。
その後、再びポケットへ戻した。
「大切な役目だからな」
彼は落ち着いた口調でそう言った。
坂本先生は満足そうにうなずいた。
「だから、資料室を管理できるのは部長だけなのよ」
その場にいた誰も、その説明を深く考えなかった。
誰も想像していなかったのだ。
数日後、この何気ない会話が、すべての疑惑の中心になることを。
緑色のノートが姿を消した時――。
理論上、あの戸棚を開けることができたのは、たった二人だけだった。
そして、そのうちの一人は最後までこう言い続けることになる。
「私は開けていない」と。
第百十六話を読んでくださって、ありがとうございました。
文学部の歴史が刻まれた緑色のノート。
それは、先輩たちから後輩たちへと受け継がれてきた、大切な宝物でした。
しかし、その価値を知る人が増えるほど、新たな疑念も生まれ始めます。
そして、二つの鍵という小さな事実が、やがて大きな謎へとつながっていくことになります。
次回もぜひお楽しみください。




