表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
115/138

受け継がれる物語

夕日が青龍学園の校舎の向こうへと沈み始めていた。


オレンジ色の光が文学部の窓から差し込み、本で埋め尽くされた本棚を優しく照らしている。


ほとんどの生徒は、すでに帰宅していた。


部室に残っていたのは四人だけだった。


蓮。


匠。


葵。


そして、舞夜。


静かな空間だった。


窓の外からは、部活動を終えた運動部の声がかすかに聞こえてくる。


部室の中では、紙をめくる音だけがゆっくりと流れていた。


まるで、この場所だけ時間の進み方が違うかのようだった。

葵は読んでいた本を勢いよく閉じた。


「もう集中できない!」


舞夜はノートから顔を上げた。


「今度はどうしたの?」


葵は机に突っ伏した。


「コンクールのことを考えすぎちゃって」


匠が小さく笑った。


「それは、自分の作品にまだ自信がないってことだな」


葵はすぐに顔を上げた。


「ちゃんと自信はあるよ!」


そう言ったものの、その勢いはすぐに弱まった。


「ただ...」


少し言葉を探してから、彼女は続けた。


「誰かの心に残る物語を書きたいの」


蓮は穏やかな笑みを浮かべた。


「だったら、審査員のことは忘れろ」


葵は首をかしげた。


「え?」


「たった一人の誰かを思い浮かべるんだ」


蓮は静かな声で続けた。


「その人のために書けばいい」


「もし、その一人の心に届いたなら、きっとほかの人にも届くはずだ」


葵は嬉しそうに笑った。


「蓮先輩って、本当に小説みたいなことを言いますよね」


蓮は肩をすくめた。


「たぶん、本を読みすぎているんだろうな」


その言葉に、部室は再び笑い声に包まれた。

舞夜は、その光景を静かに見つめていた。


何年も後になっても、彼女はこの日のことを鮮明に思い出すことになる。


それは、その瞬間には何の特別さも感じられない一日だった。


けれど、二度と戻ることのできない時間になった時、その記憶はかけがえのない宝物へと変わっていた。


舞夜は再びノートに視線を落とした。


一ページ目には、すでにタイトルが書かれていた。


『雨を待つ少女』


それは、初めて本当に自分の物語だと思えた作品だった。


コンクールのために書いたわけではない。


良い成績を取るためでもなかった。


ただ、その物語を誰かに伝えたいと思ったから書いたのだ。


そして、その大切なことを教えてくれたのは蓮だった。

匠は舞夜の横をゆっくりと通り過ぎた。


その瞬間だった。


彼の視線が、舞夜のノートに書かれたタイトルの上で止まった。


「それ、コンクールに出す作品か?」


舞夜は反射的にノートを閉じた。


「まだ決めていません」


匠は穏やかな笑みを浮かべた。


「それはもったいないな」


舞夜は少し恥ずかしそうに微笑んだ。


「まずは最後まで書き上げたいんです」


「その後で考えます」


「そうか」


匠は小さくうなずいた。


そして、そのまま部室の本棚へと向かった。


本を探しているように見えたが、その視線はもう一度だけ舞夜の青いノートへと向けられた。


ほんの一瞬の出来事だった。


誰も気づかないほどの短い視線。


しかし、生徒会長用の机で書類を整理していた蓮だけは、その様子を見逃さなかった。


彼は何も言わなかった。


ただ、黙ったままファイルを並べ続けた。


けれど、その表情にはわずかな不安が浮かんでいた。

数分後、坂本先生が部室に入ってきた。


両腕には一つの段ボール箱が抱えられている。


「遅くなってごめんなさい」


四人はすぐに立ち上がった。


「先生、それは何ですか?」


葵が興味津々な様子で尋ねた。


坂本先生は箱を机の上に置いた。


「昔の文学部の資料よ」


「倉庫を整理していたら見つかったの」


匠の目が輝いた。


「過去の作品ですか?」


「ええ」


先生は笑顔でうなずいた。


「以前の部員たちが残した原稿や資料が入っているわ」


葵は身を乗り出した。


「受賞した作品もありますか?」


「いくつかはね」


先生は懐かしそうに箱を見つめた。


「でも、コンクールに応募されなかった原稿もたくさんあるのよ」


そして、優しく微笑んだ。


「私は、そういう作品のほうが好きだったりするけれどね」


蓮は静かにうなずいた。


「物語は、賞を取らなくても価値がありますから」


坂本先生は誇らしそうに彼を見つめた。


「あなたが今でもそう考えてくれていて、うれしいわ」

四人は協力しながら、箱の中身を整理し始めた。


そこには、長い年月を感じさせる古いノートがあった。


角が擦り切れたファイルもある。


タイプライターで打たれた原稿。


すべて手書きで書かれた物語。


舞夜は目を輝かせながら、一冊ずつ丁寧に手に取っていた。


どのページにも、この文学部の歴史が刻まれているように感じられたからだ。


上の棚にファイルを片づけていた時だった。


舞夜は、一冊の緑色のノートを見つけた。


表紙には名前が書かれていない。


小さな白いラベルが貼られているだけだった。


そこには、一つの言葉だけが丁寧な文字で記されていた。


『オリジナル』


「これは何ですか?」


舞夜が尋ねると、坂本先生は振り返った。


そのノートを見るなり、懐かしそうに微笑んだ。


「ああ、それね」


「昔から、文学部の部長には一つの習慣があったのよ」


葵は目を輝かせた。


「どんな習慣ですか?」


「自分にとって本当に大切だと思える最初の作品を、そのノートに残すの」


先生は優しく説明した。


「未来の部員たちが読めるようにね」


「素敵!」


葵は嬉しそうに声を上げた。


「それは文学部の伝統なのよ」


先生はそう言って、緑色の表紙をそっとなでた。


「いつか、自分らしさを表現できたと思える作品が書けたら、その物語をここに残してもいいの」


舞夜は慎重にノートの表紙に触れた。


その時の彼女は、まだ何も知らなかった。


この古いノートが、やがて文学部を揺るがす出来事の中心になることを。


そして、その消失が、文学部の運命を永遠に変えてしまうことを。


第百十五話を読んでくださって、ありがとうございました。


穏やかな時間は、いつまでも続くように思えました。


仲間と語り合い、物語を書き、未来を夢見る。


そんな何気ない日々こそが、本当は最も大切なものだったのかもしれません。


しかし、小さな違和感は確かに生まれていました。


そして、その中心には一冊の古いノートがありました。


次回もぜひお楽しみください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ