気づき始めた感情
朝、目が覚めて最初に浮かんだ顔が八神舞夜だった。
……いや、待て。
冷静に考えろ、俺。
一週間前の俺が今の状況を見たら、間違いなく頭を抱えるはずだ。
「八神舞夜?」
そう聞かれたら、答えは簡単だった。
学校でも有名な美少女。
成績優秀。
誰とでも距離を取る、少し近寄りがたい存在。
それだけだった。
「おはよう、南大樹」
「――っ」
聞き慣れた声に、反射的に顔を上げる。
そして、視界に飛び込んできた人物を見て、俺は思わずため息をついた。
「……お前か」
「おはようございます」
そこに立っていたのは、もちろん八神舞夜だった。
いつも通り、制服は乱れ一つない。
黒い髪も綺麗に整っていて、朝の光を受けて静かに揺れている。
まるで、自分が俺の平穏な学校生活を破壊している張本人ではないかのような、落ち着いた表情だった。
「お前、毎朝現れるのやめない?」
「やめません」
「即答するな」
「事実ですから」
そう言いながら、舞夜は当然のように俺の隣の席へ腰を下ろした。
「いや、だからそこ、お前の席じゃないだろ」
「今は私の席です」
「違う」
「同じです」
「違う」
「同じです」
「……このやり取り、何回目だ?」
「もう覚えていません」
「俺は覚えてる。多すぎるからな」
舞夜は小さく笑った。
本当に小さく。
気を抜けば見逃してしまいそうなくらい、わずかな笑みだった。
「南」
「なんだよ」
「昨日は、ちゃんと眠れましたか?」
突然の質問に、思わず言葉が詰まる。
「……普通だ」
「嘘ですね」
「なんで分かるんだよ」
「目の下に少しだけ隈があります」
「……そんなに分かりやすいか?」
「はい」
即答だった。
俺は思わず机に突っ伏した。
「最悪だ……」
「安心してください」
「何をだよ」
「私は、寝不足の南も嫌いではありません」
「誰もそんな情報求めてない」
「そうですか」
「そうだよ」
すると、後ろの席から楽しそうな声が飛んできた。
「いやー、朝から仲良しだね、お二人さん」
「違う」
「違います」
俺と舞夜の返事が完全に重なる。
その瞬間、松は大げさに肩をすくめた。
「息ぴったりじゃん」
「違うって言ってるだろ」
「そういうところだよ、大樹」
「どこだよ」
「自分で考えて」
意味が分からない。
本当に分からない。
……いや。
もしかしたら、少しだけ分かっているのかもしれない。
気づけば、舞夜が隣に座ることも、こうして言い合いをすることも、少しずつ当たり前になり始めていた。
それが良いことなのか、悪いことなのかは、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは――。
「……これ、もう日課になってないか?」
そう呟くと、舞夜は窓の外を見つめたまま、小さく答えた。
「ええ。もう、とっくに」
その言葉の意味を、この時の俺はまだ理解していなかった。
教室には、少しずつ生徒たちが集まり始めていた。
騒がしい声。
机を動かす音。
窓の外から聞こえてくる運動部の掛け声。
いつもと変わらない朝の風景。
……のはずだった。
「……」
珍しく、舞夜が何も話さない。
さっきまで当たり前のように言い合いをしていたのに、今はただ静かに窓の外を見つめているだけだった。
不思議だった。
いや、正確には、違和感があった。
普段なら、舞夜のほうから話しかけてくる。
意味の分からないことを言ったり、急に距離を縮めてきたり、俺を困らせたり。
それが、いつもの八神舞夜だった。
なのに今日は違う。
どこか上の空で、何か別のことを考えているように見えた。
「……どうかしたのか?」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
言った瞬間、後悔した。
余計なことを聞いた。
そう思った。
けれど、舞夜はゆっくりとこちらを向き、静かに首を傾げた。
「心配してくれているんですか?」
「いや、別に」
「心配していますね」
「してない」
「しています」
「してない」
「しています」
「……」
なんなんだ、このやり取り。
結局、最後に折れたのは俺だった。
「……少しだけ」
そう答えると、舞夜は小さく微笑んだ。
「やっぱり」
「勝手に納得するな」
「もう遅いです」
「何がだよ」
「秘密です」
「便利な言葉だな、それ」
「気に入りましたので」
相変わらず意味が分からない。
本当に分からない。
なのに――。
その時だった。
ふっと、舞夜の笑顔が消えた。
一瞬だった。
あまりにも一瞬で、見間違いだったのかと思うほど短い時間。
けれど、確かに見えた。
疲れたような表情。
眠そうなわけでもない。
体調が悪そうなわけでもない。
もっと別の、心の奥からにじみ出るような疲れ。
まるで、長い間、一人で何かを抱え続けてきた人間の顔だった。
「……舞夜?」
俺がそう呼ぶと、舞夜は小さく視線を落とした。
ほんの一秒。
それだけの沈黙。
「何かあったのか?」
教室のざわめきの中で、俺の声だけが妙にはっきり聞こえた。
舞夜はしばらく黙っていたが、やがていつもの落ち着いた表情に戻り、静かに答えた。
「何もありません」
嘘だ。
そう思った。
いや、思ったんじゃない。
分かってしまった。
なぜなら、それは俺自身が何度も使ってきた言葉だったからだ。
何かを隠したい時。
誰にも踏み込んでほしくない時。
本当のことを言えない時。
人は決まって、「何もない」と言う。
そして、初めてだった。
八神舞夜がそうやって無理をしている姿を見て、嫌だと思ったのは。
授業開始のチャイムが鳴った。
教室中に響くその音と同時に、生徒たちは慌てて自分の席へ戻っていく。
松も「また後でな」と軽く手を振りながら、自分の席へ戻っていった。
そして、舞夜も静かに立ち上がる。
「じゃあ、また後で」
「……ああ」
短いやり取り。
たったそれだけ。
それなのに、なぜかいつもより長く感じた。
舞夜は何事もなかったかのように、自分の席へ向かって歩いていく。
その後ろ姿を見送りながら、俺は無意識に考えていた。
どうして、あんな顔をしていたんだろう。
どうして、そこまで必死なんだろう。
どうして、俺なんだろう。
分からないことばかりだった。
けれど、一つだけ確かなことがある。
舞夜は、好きでこんなことをしているわけじゃない。
何か理由があって、何かを守ろうとしていて、そして――。
自分自身を追い詰めながら、前に進もうとしている。
そんな気がした。
先生が教室に入り、朝のホームルームが始まる。
クラスメイトたちはいつも通り笑い、いつも通り話している。
なのに、俺の頭の中だけが、まるで別の場所に取り残されたみたいだった。
八神舞夜。
お前はいったい、何を隠しているんだ。
そして、何と戦っているんだ。
答えはまだ見えない。
それでも――。
気づけば俺は、もう「関わりたくない」とは思わなくなっていた。
むしろ、その逆だった。
八神舞夜のことを、もっと知りたいと思ってしまっている。
それが、良いことなのか悪いことなのか。
今の俺には、まだ分からなかった。
◇第十二話『気づき始めた感情』・完◇
話す理由なんてなかった。
関わる理由なんてなかった。
ましてや、毎日のように彼女のことを考える理由なんて、どこにもなかった。
なのに――。
「……最悪だ」
机に突っ伏しながら、小さくつぶやく。
まだ始業まで十分ほどある。
教室の中は静かで、窓から差し込む朝の日差しだけがやけに眩しかった。
静かすぎる。
考える時間が多すぎる。
そして、その考えの中心には、決まって八神舞夜がいる。
「おはよう、主人公」
「……おはよう、バカ」
顔を上げることなく返事をすると、隣から吹き出すような笑い声が聞こえた。
「ひどくない?」
「お前がうるさいからだ」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めてない」
「でも受け取る」
「勝手にしろ」
ため息をつく。
すると、松がニヤニヤしながら俺の顔を覗き込んできた。
「ちゃんと寝た?」
「まあ、それなりに」
「八神さんのこと考えてた?」
「考えてない」
「考えてた」
「考えてない」
「考えてた」
「考えてない」
「考えてた」
「……」
しつこい。
というか、なんでこいつは朝からこんなに元気なんだ。
「……少しだけだ」
「ほらな!」
「声がでかい」
「興奮してるから無理!」
「無理じゃない」
「いや、無理!」
周りのクラスメイトたちが、ちらほらこちらを見始める。
最悪だ。
朝から目立ちたくない。
「なあ、大樹」
「なんだよ」
「最近、お前、否定するの下手になったよな」
「疲れてるんだよ」
「つまり、俺が真実に近づいてるってこと?」
「つまり、お前を殴りたいってことだ」
「それはそれで嬉しい」
「嬉しがるな」
再び机に突っ伏す。
正直、疲れていた。
体じゃない。
頭のほうだ。
舞夜と話せば話すほど、分からなくなる。
なのに、分からなくなればなるほど、知りたくなる。
どうしてあんなに必死なのか。
どうして俺なのか。
何を隠しているのか。
考えても答えは出ない。
それでも、気づけばまた考えてしまう。
「……あ」
そこで、俺はようやく気づいた。
――これは、かなりまずい状況なんじゃないか、と。
第十二話『気づき始めた感情』を読んでいただき、ありがとうございました。
少しずつ変わっていく大樹の気持ち。
今まで理解できなかった舞夜の姿が、少しだけ違って見え始めています。
彼女が抱える秘密とは何なのか。
そして、なぜそこまで必死なのか。
その答えは、まだ明かされていません。
二人の物語は、ゆっくりと前に進み続けています。
それでは、また第十三話でお会いしましょう。




