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すべてが始まる前に

写真はテーブルの上に置かれたままだった。


そこに写る四人の笑顔は、舞夜が語った過去とはまったく結びつかなかった。


信頼があり――。


純粋な友情があった頃の姿だった。


舞夜は写真を丁寧に封筒の中へ戻した。


そして、手紙の次のページを手に取る。


深く息を吸った。


「ここから先は...」


彼女は静かに言った。


「その後に起きた出来事じゃないの」


指先が紙の端をゆっくりとなぞる。


「すべてが始まった瞬間について書かれているわ」


そう言って、彼女は読み始めた。


「『葵に何が起きたのかを理解したいのなら...』」


「『数か月前までさかのぼらなければなりません』」


俺は無意識に息をのんだ。


舞夜は続きを読んだ。


「『文学部が、まだ誰もが笑い合える場所だった頃へ戻ってください』」


その言葉を聞いた瞬間だった。


俺の頭の中に、一つの光景が浮かび始めていた。

八か月前。


青龍学園。


昼休みを告げるチャイムが鳴り終わったばかりだった。


校舎の廊下は、あっという間に生徒たちで埋め尽くされる。


中庭へ向かう者。


図書室へ急ぐ者。


それぞれが思い思いの時間を過ごしていた。


校舎の三階には、一枚の小さな木製のプレートが掛けられていた。


「文学部」


そう書かれた扉の向こうには、ほかの場所とはまったく違う空気が流れていた。


本棚には、小説や文学雑誌、詩集が隙間なく並んでいる。


窓際には、丁寧に手入れされた植物が置かれていた。


テーブルの上には、原稿用紙、湯気の消えた紅茶のカップ、色とりどりの鉛筆が無造作に並んでいる。


決して広い部屋ではなかった。


けれど、不思議と居心地がよかった。


そこでは、時間が少しだけゆっくり流れているように感じられた。

「舞夜!」


元気な声が静かな部室に響いた。


勢いよく扉が開く。


水島葵が、何枚もの原稿を抱えながら飛び込んできた。


紙は今にも床に落ちそうだった。


「書き終わったよ!」


舞夜はノートから顔を上げた。


「また新しい物語?」


「うん!」


葵は胸を張った。


「今回は二十ページもあるんだから!」


舞夜は思わず小さく笑った。


「先週は、どうやって終わらせればいいのか分からないって言っていなかった?」


葵は照れくさそうに頭をかいた。


「昨日の夜、急に結末を思いついたの」


舞夜は原稿を受け取った。


「それなら、読ませてもらうわね」


葵は彼女の向かいの席に腰を下ろいた。


両肘をテーブルにつきながら、いたずらっぽく笑う。


「でも、一つだけ約束して」


「何?」


「読む時に、そんなに真剣な顔をしないで」


「すごく緊張するから」


舞夜は微笑んだ。


「無理よ」


「読んでいると、どうしても集中しちゃうもの」


葵は大げさに頬を膨らませた。


「やっぱり!」


部室に二人の笑い声が広がった。

「おはよう」


穏やかな声が扉の向こうから聞こえてきた。


舞夜と葵は同時に顔を上げた。


黒沢蓮が部室に入ってきたのだった。


制服はいつものようにきちんと整えられている。


そして、脇には青いノートが抱えられていた。


「おはようございます、蓮先輩!」


葵が元気よく挨拶した。


蓮は軽くうなずいた。


「また新しい物語を書いたのか?」


葵は勢いよくうなずく。


「今回は本当に自信があります!」


蓮の口元にわずかな笑みが浮かんだ。


「それなら、舞夜が読み終わったら俺にも読ませてくれ」


「ほら!」


葵は得意そうに蓮を指さした。


「蓮先輩はいつも私を信じてくれるんだから」


舞夜は原稿を閉じながら微笑んだ。


「私だって信じているわ」


「ただ、少しだけ厳しいだけよ」


「それって、もっとひどくない?」


葵は不満そうに抗議した。


その言葉に、三人は思わず笑い出した。


現在の重苦しい空気とは正反対の、温かな時間だった。

数分後――。


部室の扉が再び開いた。


「もう始めてたのか?」


進藤匠が笑顔を浮かべながら姿を現した。


腕には、大量の原稿が入ったファイルを抱えている。


「遅れてごめん」


葵はすぐに顔を輝かせた。


「匠先輩!」


匠は椅子を引きながら肩をすくめた。


「国語の先生に呼び止められてさ」


「全国コンクールの原稿を見てほしいって頼まれたんだ」


葵は目を丸くした。


「またですか?」


匠は少し照れたように笑った。


「ちょっと意見がほしかっただけだよ」


蓮は静かに彼を見つめた。


「どうだった?」


匠は自信に満ちた表情を浮かべた。


「今年は勝てると思う」


その言葉に、部室は一瞬だけ静まり返った。

「今年は勝てると思う」


匠の言葉に、誰もすぐには返事をしなかった。


最初に口を開いたのは蓮だった。


彼は青いノートをテーブルの上に置いた。


「そうなるといいな」


そして、静かな声で続けた。


「でも、結果だけにとらわれるなよ」


匠は小さく笑った。


「優勝した後なら、いくらでも楽しめるさ」


葵はそのやり取りを不思議そうに見つめていた。


舞夜も特に気にしている様子はなかった。


その場にいた誰もが、それを何気ない会話だと思っていたのだ。


四人の笑い声が部室に響いた。


窓から差し込む午後の日差しが、穏やかな空気をさらに優しく包み込んでいた。


しかし――。


何年も後になってから、舞夜はその瞬間を思い出すことになる。


それは、匠が物語そのものよりも勝利について語った最初の瞬間だった。


あの時は、誰も深く考えなかった。


ただの何気ない一言にしか聞こえなかったからだ。


けれど、時間が経つにつれて、彼らは理解することになる。


あの何気ない会話こそが、何かが変わり始めた最初の兆候だったのだと。


第百十三話を読んでくださって、ありがとうございました。


今回は、すべてが壊れる前の文学部の姿が描かれました。


笑い合う仲間たち。


物語を語り合う穏やかな時間。


しかし、その平穏の中には、誰も気づかなかった小さな変化が隠されていました。


そして、その変化は少しずつ大きくなっていきます。


次回もぜひお楽しみください。

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