盗まれた原稿
誰も口を開かなかった。
舞夜の最後の言葉が、部屋の空気を完全に変えてしまったようだった。
「私たちがお互いを傷つけ始めた場所になってしまったの」
その言葉と、テーブルの上に置かれた写真を結びつけることは難しかった。
写真の中の四人は笑っていた。
まるで、決して離れることのない親友同士のように見えた。
もし誰かが、この写真だけを俺に見せていたら――。
その裏に隠されていた痛みに気づくことはなかっただろう。
俺はもう一度、写真に目を向けた。
そこに写る舞夜の笑顔は、今の彼女とはまったく違っていた。
何の迷いもなく、心から笑っていたのだから。
舞夜は再び写真を手に取った。
両手で大切そうに抱えながら、小さくつぶやいた。
「何が一番つらいか、分かる?」
結衣は静かに首を横に振った。
「ううん」
舞夜は寂しそうに微笑んだ。
「この日、本当に幸せだったのよ」
彼女は数秒間、写真を見つめ続けた。
「いつ撮ったのかも、はっきり覚えているわ」
懐かしそうな表情が浮かぶ。
「文学部の活動が終わった後だった」
「蓮が、部員の作品を展示する小さな発表会を学校に認めてもらったの」
結衣は驚いたように目を見開いた。
舞夜は続ける。
「葵はとても喜んでいたわ。一週間ずっと小説を書いていたもの」
小さな笑い声が漏れた。
「匠は、自分が優勝するって自信満々だった」
そして、彼女は自分を指さした。
「私はただ、初めて書いた物語を恥ずかしいと思わずに最後まで書き上げたかっただけ」
短い笑みが浮かんだ。
「今となっては、まるで別の人生の出来事みたいね」
「この写真を撮ったのは誰なの?」
俺は写真から目を離さないまま尋ねた。
舞夜は少し考えてから答えた。
「坂本先生よ」
「文学部の顧問だった先生」
彼女は写真を見つめながら、懐かしそうに微笑んだ。
「いつもカメラを持ち歩いていたの」
結衣が興味深そうに身を乗り出した。
「写真が好きだったの?」
「そうね。でも、それだけじゃなかったわ」
舞夜は小さく息をついた。
「先生はよく言っていたの」
彼女は当時の言葉を思い出すように目を細めた。
「作家は幸せな時間を忘れるのが早すぎるって」
部屋の空気が少しだけ和らいだ。
「だから、写真に残したかったのか」
俺がそう言うと、舞夜は静かにうなずいた。
「ええ」
その表情は再び寂しげなものへと変わった。
「まさか、この一枚が私たち四人の唯一の写真になるなんて、あの時は想像もしなかったわ」
結衣は再び進藤の姿に目を向けた。
「匠は、いつ頃から変わり始めたの?」
舞夜は深く息を吸った。
「突然じゃなかったわ」
写真を見つめながら、静かに言葉を続ける。
「最初は、本当に小さな変化だったの」
「小さな変化?」
俺は思わず聞き返した。
舞夜はうなずいた。
「作品の添削の仕方が変わったのよ」
彼女は視線を落とした。
「以前は、相手の物語をもっと良くするために助言していた」
「でも、少しずつ違っていったの」
部屋の空気が再び重くなる。
「誰かが自分とは違う表現をすると、それを間違いだと言うようになった」
「自分より高い評価を受ける人が現れると、その作品を否定するようにもなった」
結衣は黙っていた。
舞夜は写真をそっとテーブルの上に戻した。
「最初にその変化に気づいたのは、蓮だったわ」
その言葉が、静かな部屋の中にゆっくりと広がっていった。
「蓮は何かしたの?」
結衣が静かに尋ねた。
「ええ」
舞夜は小さくうなずいた。
「何度も匠と話をしようとしていたわ」
彼女は当時の光景を思い出すように目を閉じた。
「文学は競争するためのものじゃないって」
「物語には、それぞれ違う声があるって」
しばらく沈黙が続いた。
「でも、匠はもう誰の言葉にも耳を貸そうとしなかったの」
舞夜の声は少しずつ弱くなっていった。
「彼が口にするのは、いつも同じことだった」
「文学賞」
「出版社」
「評価」
「そして、誰よりも優れた作家になること」
彼女はゆっくりと目を開いた。
「今でも忘れられない言葉があるの」
俺と結衣は黙って耳を傾けた。
「ある日の部活動で、匠はこう言ったの」
舞夜は静かに当時の言葉を再現した。
「『誰にも覚えられない物語に価値なんてない』」
部屋の空気が張りつめる。
しかし、その直後だった。
舞夜は小さく微笑んだ。
「蓮は、ほとんど表情を変えないまま答えたの」
そして、その言葉を口にした。
「『それなら、一人の人生を変えられる物語を書けばいい。それは千個の賞よりも価値がある』」
俺は思わず、その光景を想像していた。
同じように物語を愛していた二人。
それなのに、いつの間にか進む道は大きく分かれてしまっていた。
舞夜は再び手紙を手に取った。
さっきまで震えていた指先は、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
思い出を言葉にすることで、その重さを少しずつ受け止められるようになっていたのかもしれない。
彼女は次のページを開いた。
呼吸がゆっくりになる。
そして、静かな声で読み始めた。
「『もし、すべての始まりを探しているのなら...』」
部屋の空気が再び張りつめた。
「『それは、葵が姿を消した日ではありません』」
俺は眉をひそめた。
舞夜は読み続ける。
「『蓮が学園を去った日でもありません』」
結衣も黙ったまま耳を傾けていた。
そして、次の一文が読み上げられた。
「『すべては、五月十七日の火曜日に始まりました』」
思わず口を開く。
「その日に何があったんだ?」
舞夜はゆっくりと首を横に振った。
「まだ分からないわ」
「手紙には、そこまで書かれていないもの」
しかし、その直後だった。
彼女の視線が次の一文で止まった。
みるみるうちに顔色が変わっていく。
「舞夜?」
結衣が心配そうに声をかけた。
舞夜は唾を飲み込んだ。
そして、最後の言葉を読み上げた。
「『その日は、誰かが原稿を盗んだ日でした』」
部屋が静寂に包まれた。
原稿。
それだけでは、友情を壊す理由には思えなかった。
まして、誰かが姿を消すほどの出来事だとは思えない。
しかし、舞夜の表情は違っていた。
その盗難こそが、誰にも止めることのできなかった悲劇の始まりだったかのように。
そして俺は理解した。
葵の真実を知るためには、まず、その原稿に何が書かれていたのかを知らなければならないのだと。
第百十二話を読んでくださって、ありがとうございました。
楽しかった思い出の裏で、少しずつ何かが壊れ始めていました。
そして、ついに明かされた「盗まれた原稿」という新たな謎。
その原稿に何が書かれていたのか。
それこそが、三年前の真実へとつながる鍵なのかもしれません。
次回もぜひお楽しみください。




