表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
105/110

忘れられない名前

雨は少しずつ弱まっていた。


数分前まで激しく窓を打ちつけていた雨粒は、今ではゆっくりとガラスを伝い落ちている。


庭の景色は水滴によってぼんやりと歪んでいた。


誰も口を開かなかった。


舞夜の最後の言葉が、今も頭の中に残っていたからだ。


「すべては、青龍学園に新しい教師がやって来た日から始まった」


それは単なる偶然には聞こえなかった。


彼女の口調からは、その人物が人生を大きく変えてしまったことが伝わってきた。


部屋の中には静かな空気が流れていた。


窓の外では、雨音だけが一定のリズムを刻んでいる。


そして、その静けさの中で、俺たちは次の言葉を待っていた。

「どんな先生だったの?」


沈黙を破ったのは結衣だった。


その問いかけは、いつものように優しかった。


舞夜はすぐには答えなかった。


指先で手紙の端をゆっくりとなぞる。


そして、小さく息をついた。


「国語の先生だったの」


俺は思わず聞き返した。


「国語?」


舞夜はうなずいた。


「まだ若い先生だったわ」


「三十代になったばかりだったと思う」


彼女は少しだけ懐かしそうに微笑んだ。


「初日から、生徒たちはみんな先生に憧れていた」


「授業の進め方が、ほかの先生とはまったく違ったから」


窓の外では、雨が静かに降り続いている。


「文法や文章の技術だけを教えるわけじゃなかった」


「人の感情について話してくれた」


「誰にも話せない気持ちについても」


舞夜の声には、わずかな懐かしさが混ざっていた。


「先生の話を聞いていると、不思議と時間を忘れてしまったの」


その表情を見て、俺は理解した。


その教師は、舞夜にとって特別な存在だったのだ。

「その先生は、あなたの文章を読んでくれたの?」


結衣が尋ねた。


舞夜は寂しそうに微笑んだ。


「ええ」


「たくさん助けてもらったわ」


彼女は視線を手紙へと落とした。


「親友以外で、私の物語を読んでくれた最初の人だったの」


その言葉には、特別な思いが込められていた。


「私は、自分の欠点を全部指摘されると思っていた」


「でも、先生は違った」


部屋の中は静まり返っていた。


舞夜は、その時のことを思い出すように目を閉じた。


「読み終わった後、先生はノートを閉じて、こう言ったの」


短い沈黙が流れる。


そして、舞夜はゆっくりとその言葉を口にした。


「誰かに認められるために書いてはいけない」


彼女は小さく息を吸った。


「いつかあなたの言葉を読んだ誰かが、少しでも孤独を忘れられるように書きなさい」


その言葉は、今でも彼女の心の中に生き続けているようだった。

「それから...私は少しずつ書き方を変えていったの」


舞夜は静かに続けた。


「一番良い成績を取ることばかり考えなくなった」


「自分の気持ちを書くようになったの」


窓の外では、雨が変わらず静かな音を立てていた。


「不安だったこと」


「怖かったこと」


「大切な人たちのこと」


一つ一つの言葉を確かめるように、彼女はゆっくりと話した。


結衣は優しく微笑んだ。


「だから、舞夜の文章はあんなに人の心を動かすんだね」


舞夜は少し驚いたように目を瞬かせた。


そして、小さく笑った。


「そうかもしれないわね」


その笑顔は穏やかだった。


「初めて文章を書くことが楽しいと思えたのも、その頃だったの」


俺は黙ったまま彼女の話を聞いていた。


書くことが、舞夜にとってどれほど大切なのか。


その理由が、少しだけ分かった気がした。

「それで...何が起こったの?」


俺は慎重に言葉を選びながら尋ねた。


舞夜の笑顔が消えた。


彼女は再び手紙へと視線を落とした。


すぐには答えなかった。


部屋の空気が少しずつ重くなっていく。


「何も起きなかったの」


ようやく彼女はそう答えた。


俺は思わず眉をひそめた。


「何も?」


「少なくとも、最初の頃は」


舞夜は静かにうなずいた。


「すべてが順調だった」


「成績は上がっていった」


「親友も幸せそうだった」


「私も幸せだった」


その声には懐かしさが混ざっていた。


「やっと自分の居場所を見つけたと思っていたの」


しかし、その表情は少しずつ曇っていった。


「でも...」


短い沈黙が流れる。


「人は変わることがある」


彼女は小さく息を吐いた。


「あるいは、最初から本当の姿を隠していただけなのかもしれない」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に言いようのない不安が広がった。

結衣はテーブルの上で両手を組んだ。


「その先生が変わってしまったの?」


舞夜はゆっくりと首を横に振った。


「違うわ」


その答えは、俺たちの予想とはまったく違っていた。


「先生じゃなかったの?」


結衣が驚いたように尋ねる。


舞夜は静かにうなずいた。


「原因は、同じクラスの人だった」


部屋の空気が一気に張りつめた。


俺も結衣も言葉を失っていた。


「私が信頼していた人」


「私の夢を知っていた人」


「私の不安を知っていた人」


舞夜は視線を手紙へと落とした。


その指先がわずかに震えている。


「そして...誰にも話したことのない秘密まで知っていた人」


胸の奥が締めつけられるような感覚がした。


話は、俺たちが想像していたものとはまったく違う方向へ進み始めていた。


舞夜はゆっくりと目を閉じた。


深く息を吸う。


そして、再び目を開いた。


その瞳には、悲しみと決意が入り混じっていた。


「水島葵」


初めて聞く名前だった。


その名前に怒りは感じられない。


恨みもなかった。


ただ、深い悲しみだけが残っていた。


三年という時間が過ぎても、その名前を口にすることは、今でも彼女を傷つけているようだった。

第百五話を読んでくださって、ありがとうございました。


青龍学園での思い出は、決して苦しいものばかりではありませんでした。


大切な友達との出会い。


そして、言葉の本当の意味を教えてくれた先生。


しかし、その穏やかな日々は少しずつ変わり始めます。


水島葵という名前が、ついに語られました。


次回もぜひお楽しみください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ